横浜駅の雌猫

@rousokutoazuki

横浜駅の雌猫

 若者は横浜に向かう電車の中に立っていた。

 つり革を右手で掴み、左手はブレザーのポケットに長い間忍ばせている。満員というほどではない、しかしそれなりの人だかりがある中、若者は車両の中ほどで、窓に目を向けていた。

 陽はすでに沈み、世界は暗く、生活を示す明かりが眼前に広がっている。景色が絶え間なく右の方へと流れ、住宅かの明りが視線の先にどこまでも続いている。光る生活感は、どこか世界に固着しているようで、彼の眼前の景色は黒を基調とした一枚の流動的な絵画のようにも思えた。

 閑静な風景が段々となりをひそめ、煌々と光を放つビルが頻繁に視界に映るようになった。車窓から最上階が見切れるほどの、背が高い建物が見えたかと思うと、その次の瞬間には如何にも昭和然とした、薄汚れた雑居ビルが目に入る。生活を感じない明かりは、電車が住宅街を抜けたことを知らせた。

 ビルとビルの間には、白い光と赤い光を引き連れた車が、忙しなく往来している。二色の光が支配する車道を往来する人間達も、またどこか忙しない風である。

アナウンスが間もなく終点に到着すること知らせた。段々と窓に映る世界がより煌々とした気配を帯びていき、増えていく人影が街と一体になって、電車を包み込んでいった。

「まもなく横浜~、横浜~。どなた様も、落とし物お忘れ物ございませんよう、ご注意ください。本日も○○をご利用くださいまして、ありがとうございました。終点、横浜です。」

 最後のアナウンスとともに、車両が減速していく。まもなくして視界にプラットフォームの上の雑踏が移り込んだ。退勤ラッシュのピークは過ぎているものの、駅構内にはまだ十分に圧倒的な人の気配がある。

 別段、普段よりも人影が多いというわけではなかった。しかし、なぜか見慣れたはずの風景がこの時だけは若者の意識を奪った。

 催眠にかけられて意識と自我が自分から遊離していき、体の輪郭だけが電車に残されるような、そんな感覚だった。実感の喪失も伴っていた。若者は降車の意気が充満した空間に一人取り残された。

 扉が開くと同時に降車しようと急ぐ人もいれば、停車をしてから席を立つ人もいる。急く人が多ければ、この時の若者の呆けた様子は酷く目立っていたことだろう。

行先の表示が変わり、車両に人が乗り込み始めた頃、ようやっと若者に意識が戻った。

 訳が分からなかった。何が自分の意識を引き込んだのか、何のために。全く説明できない体験は、若者を恐怖させた。

 人が掃けた車両の中、呆けた面でつり革を律義に掴んでいる若者には、やはり多くの怪訝を思う視線が注がれていた。身体の感覚を取り戻した彼はどこか居たたまれない心持ちで、急いで駅の雑踏へ逃げ込んだ。

横浜は、人の駅である。まるで空間が、人以外に無関心であるかのような駅なのである。

 空間には空気があり、多様な生き物があり、色彩がある。しかしどうだろう。この駅を見渡してみると、空気があるはずの場所には人があり、人間以外の生き物の気配はとんとなく、色にいたっては下品な光だけが目立ってあり、彩なんてものは何処にもない。あるのは淡白な人の流れと、それだけを認める、陰気な雰囲気のみである。

行き交う人は、いつも違う。後ろを歩く人の姿も、前を横切る誰彼の姿も、一人として同じ日はない。そのはずなのに、雑踏はいつもと同じ様な顔をしている。

 この日、若者は、横浜駅に永遠不変の生物の自我を感じた。先ほど自分の意識を刈り取ったのも、この生き物の仕業に違いなかった。そいつの眼差しが、自分に向けられているような気がして仕方がなかった。

 彼はその生物の気配に背を向けるようにして歩いた。彼は一秒でも早く、こんな生き物の目線の先から逃れたい、といった心持だった。

 この恐ろしい生き物が人ごみに宿るものならば、逃れるには無人の空間へ行くほかない。若者はそんな考えを抱き、少しでも人の少ない方へと、大きく入り組んだ構内を下へ下へ横へ前へと、あてなくただ余白を求めて歩いた。規則的な電気広告、どこまでも連動して動いているスニーカーとパンプス、人影で広いのか狭いのか、わからない連絡通路、様々なものが視界に映る。 


 頭の中は恐ろしさで充満していた。何がいつもと違ったのだ。プラットフォームも、雑踏も、時刻もいつも通りだったはずなのに、今僕を支配している駅の様相だけはどこまでも新鮮で恐ろしい。今ならわかる。この生き物はいつもこの駅にいた。目を付けられたからわかる。この生き物は不変の雰囲気を所在にして生きていて、横浜駅は彼の格好の住処なのだ。気配を消していただけで、いつも僕を見ていたのだ。改めて、なぜ今日僕にその正体を悪意とともに暴露したのか。

若者は、理不尽な恐怖への憤りと逃走本能が刺激されている感覚を感じていた。うなじに冷たい汗がにじむ。両手だけはブレザーのポケット中の空間で安心できていたが、体は無人の余白を求めて仕方がなかった。


 若者は幾らか人が少ない空間に出た。市営地下鉄への連絡通路のようだった。積もった埃が空気と流れ、等間隔に点灯している蛍光灯が限りなく遠くまで続いていた。改札口へ続いている点字ブロックは、使用感をまとわずにくたびれているように見えた。白い壁は綺麗なわりに、灰色にくすんでいる。

 雑踏から逃れた若者は、少しばかりの余裕を取り戻した。全方位にいた、恐ろしい気配はもう後方にしか感じられない。生き物の縄張りの外に無事脱出できたようだった。

 若者は振り返った。行き交う人々がいる。だれもこちらを見ていない。しかし、彼の目線の先には、確かに生き物がいる。

 距離を置いて感じられるその生き物は、猫のような雰囲気を持っていた。汚く、嫌らしい、中年の雌猫。にやついた表情でこちらを見定めている。

 彼は彼女を睨みつけて、抵抗を示さなければならない、しかし恐怖がそれを許さない。

 彼女がこちらに来られないと知りながらも、体は緊張していた。

 若者は再度前を向き直して、今度は背を丸めずに前を見据えて、長い通路を歩いた。それが彼の精一杯だった。

 にたにたしている猫の気配が段々と遠のいていく。しかしもう改札に行き当たるというほどになっても、振り返って睨みつけることはできなかった。

 彼は、恐ろしさと悔しさを感じながら、右手に曲がった。使ったことが無い、地上へつながる階段に続く道だった。彼はその階段を使うほかない。

 若者は迷わずに、そちらに歩を進めた。とても長い階段だった。長いためなのか、頻繁に人とすれ違った。全員が僕を見ているようで少しだけ気味が悪かった。

 五つ目の踊り場に到達した時、地上の明かりが見えた。横浜とは思えない、穏やかな生活の明かりだった。そのあとの十数段はとても軽やかな足取りだった。


 両足が地上に立った時、若者は最大限解放された気がした。大きく息を吸い、それなりに冷たい空気を内蔵に感じた。緊張が引き、安堵が心地良さをもたらした。

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