第弐話 『日常ハ 突然ニ』
この世界には異能がある。
その異能は〈権利〉として行使され、権利を行使するには〈義務〉を果たさなければならない。
この2つの要素が合わさったものが「職業」で、この世界の人間は様々な「職業」に就いて暮らしている。
例えば医者。
医者という職業には「人を癒すことができる『権利』」を持っているが、そのためには「国家試験に合格し、医師免許を取る『義務』」があるのだ。
職業内でも能力は人によって異なっている。
患者とのコミュニケーションで患者を安心させることが得意な人、1㎜の狂いで失敗する手術であっても問題なく治療する腕を持つ人。
これらはある種のスキルツリーのようなものが職業にあり、その人の経験や努力でどんな技術が身に着くか決まるという。
さっきの駅員はおそらく黄色い線を越した人を止める『権利』。
不審者を捕まえた男、おそらく職業は警察で、罪を犯した人を拘束する『権利』を使った。
そんな能力が存在するのがこの世界である。
朝に大変なことがあったが何とか朝のチャイムが鳴る前に正義は彼が通っている高校へ着いた。
正義が通っている高校、凪北高等学校。
県内でも2番目か3番目に偏差値のいい公立高校だ。
H型の建物で真ん中の棒の部分に玄関、北に理科室などがある特別棟、南に教室棟がある。
正義は1-6組の教室の扉を開けようとすると隣から話しかけられた。
「おはよう。正義くん、今日の朝、君が使う駅で事件が起こったようでしたが大丈夫でしたか?」
正義に話しかけてきたのは林先生。
長身できりっとした髪、丸眼鏡をつけているが顔の良さは隠しきれておらず、一部の女子高生から人気を得ている。
そして常に人々を安心させるオーラをまとっているような人。
小学校中学校と正義がいる教室の担任や授業の担当をしてきた。
中学校までは正義は彼を一番信頼していた先生としてきたが、この高校にも来たことでこの度彼を何か裏があるのではないかと少し怪しく思ってきている。
「……いえ、大丈夫でした」
電車にひかれそうになったことを話そうと思ったが、話をややこしくしたくなかったため適当にごまかす。
「そうでしたか。よかったです。もうすぐチャイムが鳴りますので、すぐに着席した方がいいですよ」
「わかりました」
先生に軽く会釈をしてから、正義は教室に入った。
正義は席に座り、カバンから教科書を出して机の引き出しに入れていると正義の友達が話しかける。
「よっ!ネットニュースで見たぜ。今日の朝は災難だったらしいな」
「和樹、うん、まさか包丁持った人に殺されかけるとは思わなかった」
「え、殺されかけ、大丈夫だったんか!?」
「間接的にだけどね」
「まあ生きてたならよかってけど」
話しかけた人の名は中井和樹。正義の小学生からの友達であり、この高校でも正義の数少ない友達。
正義の家庭の事情も知っており、時々正義の家へ手伝いに行ったり、和樹の親が正義の家に料理のおすそ分けをしている。
「でも最近多いらしいな。なんか突然暴れだす人」
「この前も道で発狂しながら走り回った人がいるーなんてネットに上がってたね」
「こえーよな。誰かの陰謀とかなんかなあ」
「どうなんだろ」
二人が会話していると予鈴がなる。
「じゃまたあとでな」
和樹や、ほかのクラスメイトが席に戻ろうとしたときに……事件は起きた。
突然のゾワッという悪寒。
どこからかわからないが何かが自分を、自分たちを狙っているように感じる。
咄嗟に教室の中を見回した瞬間、
窓の外に佇む大きな物体。
まさに巨人と呼ぶにふさわしく、腕は膝まであり、丸太のように太く、猫背に見えるものの頭のてっぺんは見えない。
教室の中にもその影を見つけた人はおり、クラスメイトの数人がそれを見つめる。
緊張と困惑で正義やほかの生徒はそれから目を離せない。
そのバケモノは突然腕を動かし、そしてバケモノは腕を教室の窓ガラスにたたきつけた。
ガッシャーーン!!という音とともに壁が壊され、バケモノが教室に入ってくる。
みんな動けない中、誰かが叫んだ。
「逃げろー!」
その声を聴いた瞬間、たくさんの叫び声が教室に響き渡り、生徒は教室の外に逃げる。
しかし逃げることができたのは半数だけ。
壊れた時のがれきやガラスに当たって痛みで動けないもの。
気を失ったもの。
がれきに挟まれて身動きが取れないもの。
そして、恐怖で動けないもの。
彼らは逃げることができなかった。
そして正義も、恐怖で動くことができない。
壁が壊された時の衝撃で椅子から転げ落ち、身を起こすことはできても、そのまま立つことができなかった。
教室に入ったバケモノは足にけがをして動けないであろう女生徒をその剛腕で掴む。
「ちょっと!やめて!いや!はなして!」
女生徒はバケモノの手をたたいたり、叫んだりして抵抗を続けるが、バケモノはより強く握り、ミシミシという音がなった。
「いたい!いたい!いたっ!ぁ……」
痛みで気を失ったからか、諦めたのか、はたまた……彼女は抵抗するのをやめた。
バケモノは口を開け、彼女を食べようとする。
そんな光景を見て、正義は左目の下の傷の痛みとともにある感情を思い出す。
今朝思い出したトラウマ、10年前のトラウマの中の感情。
しかし思い出したのは恐怖や絶望、諦めではない。
薄れゆく意識の中でどんどんと湧き上がっていた感情だった。
ガン!
火事場の馬鹿力ともいうべきか、いつの間にか正義は近くにあった机をバケモノの顔になげつけていた。
投げた後に正義は気づく。
10年前のあの感情、そして今感じている感情は、怒りだ。
理不尽なことへの怒り、そして自分の無力感に対する怒り。
恐怖だとかを一切忘れさせる激しい怒り。
そんな怒りが正義の身体を動かした。
しかし忘れさせたのは一瞬だけ。
バケモノは攻撃に腹が立ったのか女生徒を離し、机を投げてきた正義に意識を向ける。
そいつがむける目とそこから感じる敵意に正義は恐怖してしまい、身がすくんでしまった。
何とか逃げようと後ろを向こうとしたが、直後バケモノに胴をつかまれてしまう。
抵抗空しく正義は強い勢いで投げ飛ばされてしまった。
……体に走るギンギンとする痛みによって正義はかろうじて目を覚ます。
目を開けるとそこは廊下。
だが教室棟の廊下ようではない。
高校の南側の建物、特別棟の廊下だった。
教室棟からその廊下、教室棟と特別棟の間にある中庭を超えて特別棟の廊下まで飛ばされたのだ。
(投げ……飛ばされたのか…………こっち……まで)
意識がもうろうとして正義は指一本動かせない。
ガラガラという音が特別教室の方から聞こえる。
かろうじて顔を向けるとそこには壁を壊して入ってきた先ほどのバケモノだ。
正義にとどめを刺しに来たのだろう。
バケモノは腕を振り上げ、瀕死の正義に向かって走りはじめる。
逃げようとしてもやはり正義の体は動かない。
バケモノの爪が正義へ届きそうになった瞬間
ガキィン!
正義とバケモノの間に入った人影はその手に持った剣でバケモノの攻撃を防ぐ。
その後ろ姿を正義は知っていた。
(林……先生……?)
林先生は剣でバケモノを押し返し、よろめいたバケモノに間髪入れず近づき、両手で持った剣を切り上げた。
「グギャ!」
腹に斜めに切り傷を負ったバケモノは後ずさりし、そのまま壊された壁から中庭に落ちる。
正義は今何が起こったか理解できない。
バケモノが落ちたのを確認した林先生はすぐに振り返って正義のもとへ行く。
「せ、せんせ…………」
「今はしゃべらないでください。くそ、出血、骨折が数十か所に内蔵損傷、あれを使うしかないか」
林先生は剣を床に置くと両手を正義にかざし、謎の呪文を唱えた。
英語などではなく、全く聞いたことのない言葉。
ほのかな光が正義の体を覆う。
呪文を唱えていくと正義の身体がどんどん治り正義の意識も復活していく。
林先生が呪文を唱えるのをやめると、正義の身体は完全に回復したが、それと同時に先生も息切れを起こす。
正義は身を起こして林先生に尋ねた。
「せ、先生って医者なんですか?いや、こんな『権利』なんて見たことも聞いたことも」
「はあ、はあ、話はあとです……今はここから逃げてくだ……」
林先生が正義に指示しようとすると、正義は林先生の後ろに目をやった。
「先生!うしろ!」
「!?」
林先生の後ろにいたのは先ほど中庭に落とされたバケモノ。
今まさに二人を潰そうとする拳が振り下ろされようとしていた。
正義に意識を集中しすぎたのと、回復で注意力が散漫していた林先生は予想外の攻撃に焦る。
(しまった!私としたことが!)
林先生は咄嗟に剣を拾い、バケモノが腕を振り下ろすのと同時に剣を横に薙ぐと、バケモノの腹に横一線の傷ができ、そこから血を吹き出しながらバケモノは床へ倒れた。
正義は立ち上がって先生に質問する。
「……や、やったんですか?」
「いえ、こいつを中庭へ落とす前に与えたダメージがない。おそらくこいつは回復能力を持っている」
「じゃ、じゃあ」
「ええ、正義く……んも早く、に……げ」
ドスッ
「先生!」
言い終わる前に林先生は膝をつく。
正義が心配して近づくと、林先生は胸を強く押さえている。
よく見ると、林先生の胸にも爪痕のような傷があり、そこから大量に出血していた。
「さきほどの攻撃に当たってしまったのでしょう。私にかまうことなく……正義君は早く逃げてください。こいつが復活する前に」
正義は数秒戸惑った様子を見せたが、そんな通告を無視して正義は先生に肩を貸して歩き出す。
「せ、正義君?私のことは……」
「俺は今何が起こってるかわからないけど、傷ついている人を置いて逃げることなんてできません!」
声が震えていても、その声には先生を助けるという『意志』が感じられた。
正義は先生を担いでバケモノから離れる。
その言葉を聞いて林先生は安堵のような顔を浮かべた。
(やはり君は私とは違うな)
バケモノが倒れた部屋からガタゴトガッシャーンと音が鳴る。
おそらくその部屋の器具を破壊しているのだろう。
「正義くん、このままでは奴に見つかってしまいます……とにかくこの部屋に隠れましょう」
「は、はい」
正義は横にあった教室の扉を開き、林先生を壁に縋らせた。
「先生、その傷はさっき俺にしたように回復できないんですか?」
「……無理ですね。それをする体力は私にはもうありません」
「じゃあどうすれば……」
「グアアアアアアア!!!!!!!!!」
獣ような咆哮が特別棟に響き渡る。
「先生!いったいどうすれば!?」
不安な表情を見せ、弱気な姿勢を見せる正義を見て林先生は目を閉じて考える。
(このままでは私とこの子は見つかり殺される。
(かくなるうえは、いや、この子ならもう大丈夫だ)
林先生は目を開け、正義に語り掛ける。
「正義君、実は私は……勇者なのです」
突然の告白。
正義にはその言葉が理解できない。
勇者という職業は正義も聞いたことがある。
だが勇者という職業は正義にとっては非常に悪い意味で因縁があるものであり、実は信じたくないという心情も正義にはあるのだ。
「説明している暇はありません。しかし君にお願いです。正義君……『勇者』に就く気はありますか?」
「え?」
突然の提案に正義は戸惑う。
「驚くのも無理はありません。ですがこの状況を打開するにはそれしかないのです」
正義は数秒の沈黙ののち、弱弱しく答える。
「無理です。俺は勇者にはなりたくありません。だって……」
正義は続ける。
「勇者は、10年前にあの東京テロを起こした職業だから」
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