第1話-②

 軽快に斜面を滑り降りていたセナだったが、雪をかぶった岩に気づかず、滑ってきた勢いのまま岩に乗り上げてしまう。普段ならそんなミスはしないのだが、夜で視界も悪い上に焦る気持ちもあり、雪に覆われた岩をただの雪山と見誤ってしまったのだった。セナは空中に投げ出され、一回転して雪の上に落ちた。

「ふがっ!」肺が押しつぶされて、声にならない声が漏れる。

 セナはせき込みながら、おもむろに体を起こした。大した怪我はしていない。足も手も、十分に動く。ただ、初歩的なミスをしてしまったことが恥ずかしかった。先生ならそんなミスはしないだろうに。

 スキー板は岩に乗り上げた衝撃でどっかに吹っ飛んでいた。彼女は辺りを見渡しが、どうやら木の板は新雪の中に埋もれて姿を消してしまったようだった。

「急いでるのに!」

 自身のミスを棚にあげて、彼女は怒った。だが、怒ったところで板は見つからないし、探す暇もない。仕方なく走って山を下る覚悟をセナは固めた。

 と、その時、獣の呻き声が彼女の耳に届いた。振り返ると、夜の影の中から残り少ない日の光を反射した二つの眼光が、こちらの様子を伺っていた。鋭い眼光はゆっくりと近づいてくる。狼だった。

「急いでるのに!!!!」

 セナは腰に携えていた鉈を抜く。狼に対峙して、彼女は体勢を低く構えた。先生から狼のことは何度も聞いていた。人間の足じゃとても逃げ切れない。目をつけられたが最後、どちらかが死ぬまで戦いは終わらない。セナは間合いに気をつかいながら、ゆっくりと足を動かし円形に動いた。

 じりじりと距離を詰めてくる狼は、次第にセナの視界の内に入ってきた。雪をまぶした銀の毛並み。全長は1.5メートルほどと、少し小柄ではあったが、肉を裂く黄色い歯がむき出しになっていた。あの牙に喉元でも噛まれたら、私はひとたまりもない。セナは微かに慄いた。

 狼はその隙を見逃さない。雪に足を持っていかれることなく華麗に跳躍すると、一気にセナとの距離を詰めてきた。

「まずっ!!」彼女は自身の油断を悔いる暇もなく、本能的に鉈を振りぬいた。が、そこにいたはずの狼は忽然と姿を消していた。

(フェイント!)

 セナが次に狼の姿を捉えたとき、彼女の目は狼の牙を奥歯まで覗けた。振り切った鉈にはもう戦闘力はないに等しい。万事休すだった。狼の牙は真っ直ぐセナをか嚙み切ろうと迫ってきていた。

 死を覚悟したセナの耳に、ヒュンと、風を切る音が届く。一直線に飛んできていた狼は甲高い叫び声をあげて、体をよじらせた。牙はついに彼女に噛み付くことはなく、獣の肉体がそのままセナに体当たりする。

 避けきれず、彼女は覆いかぶさる狼の下敷きになった。

「ふぎっ!」またしても肺が押しつぶされる。

 狼の下から這い出したセナは改めて彼女を襲った獣の姿を見た。目が爛々と光ってはいたものの、上顎と下顎が噛み合っていなかった。すでに生きてはいなかった。

 その原因はすぐに分かった。首に刺さった矢。的確に急所を貫いている。あの一瞬で、しかも視界も優れない中、こんな芸当ができる人物をセナは一人しか知らなかった。

「また山に入ったのか」

 いつの間にか、セナを見下ろすように男が立っていた。毛皮を着込み、弓を携えている。

「先生!」セナはいった。が、次の瞬間にはゲンコツをもらった。「ふぐっ!」

「山には入るなと言ったろ」

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