第2話
物思いにふけっていた玲司は、「そういえば」という河野の言葉に、我に返った。玲司は尋ねた。
「え? ほかになにか?」
「うん。二か月くらいまえに、柑奈と飲みに行ったの。なんだか疲れていたみたいでさ。そこで、たしか『社長の指示で、妙なメールを送るようになった』みたいなことを言っていたの」
「妙なメール?」
「ええ。でも、その話はそれっきり」
玲司はしばらく考えて、
「不正かなにかに、巻きこまれていた、とか?」
「どうだろ。わからない……」
「気になるな」
そう言って、玲司は残りのジンライムを飲み干した。
次の日に玲司は自室から、KUSの代表番号に電話をかけた。電話口に三嶋柑奈あてだと告げると、しばらく待たされ、ある女性が出た。玲司は録音を開始する。
「はい、お世話になっております。秘書室の松永ともうします」
「お忙しいところ、申し訳ありません。三嶋柑奈の、家族の者です。三嶋柑奈は、おりますでしょうか」
しばらく間があってから、
「それが、柑奈さんは、長期休暇をとられていまして……」
「長期休暇? それは、いつまででしょうか?」
「あの、それが、あいまいなのです。何か月か、ということで」
「なんですって? それじゃ、もうひとつ。お聞きしたいのですが。姉の柑奈は、妙な仕事を指示されて、それを気に病んでいました。それについて、お聞きできませんか?」
「え? あ、あの、それは……。いえ、わたしは、存じ上げません。ほんとうに、すみません」
電話口からもわかるほど、松永という女性の狼狽ぶりが伝わってきた。やがて、逃げるように電話を切られた。玲司には、なにかが起きているように思えてならなかった。
(いったいどうなってる? 姉さんはどこにいる? 親父ならどうする? 警察か? やつらが役に立つのか?)
部屋の隅に置かれた、家族で撮った写真が目に入る。山を背景に、父と母と姉と玲司が写っている。
写真では家族はひとつに見えるのに、いまやばらばらだ。父は喪ってしまったが、姉だけでも守りたかった。
『やめとけ。探偵なんて、ヤクザな生業はよ』
父親は、探偵になろうとする玲司をそう言って諌めた。探偵の仕事なんてたいていは浮気調査なんだ、とか。将来の保証がないんだ、とか。
けれど、もうひとつのことを、父は言っていた。
『やるときは、蛇のように、やるんだ。蛇のように、狡猾に、周到に、静かに。それが、探偵の狩りの仕方だ……』
玲司は立ち上がって、自分の右手の平を見る。そして、それを強く握って呟く。
「隠すんなら、暴いてやる。そうさ、侵入し、解き明かしてやる。蛇のように、狡猾に……」
玲司はKUSの社内ネットワークに侵入し、バックドアを仕掛ける方法を考えると、ノートにペンを走らせた。――本当に肝心なことは、ハッキングされる可能性のある
カフェで河野那美と落ち合った。
場所は、イージスセキュリティが入っているビルの近くだ。
玲司は休みをとっていたが、河野は普通に出勤していた。
三十人くらいは座れる店で、いつもボサノバか軽いジャズがかかっていた。
玲司は手付かずのコーヒーカップを前にしたまま、手書きのノートを見せた。
「……どう思う? このプランは」
河野はしばし考える様子を見せて、
「あのさ、気になってるんだけど。ごめん。これ、どうしても言わせて。……コーヒー、冷めるよ」
玲司は舌打ちをして、
「タイミングを見てるんだ」
「はあ? いやいや。温度も美味しさだから。香りとともに、温度が、味わいが逃げていくの。コーヒー豆の悲鳴が聴こえる」
「だから、俺のタイミングが……」
すると、河野はふと勝ち誇ったような、いじわるそうな笑顔を見せた。
「あ、そっか。玲司くん、猫舌なのか。かわいいねー」
「うるせー。それよりも、プランだろ。プランの話を」
「はあ。もう、わかったわよ」
すると、河野は眼鏡を押し上げて玲司のノートを手にとった。とたんに目を細め、ぞっとするような冷徹な気配をまとった。――彼女もいわば専門家だ。
「そうね、うん。悪くない」
「そりゃどうも。ただ、河野さんにも、一日くらい、有給をとって、手伝ってもらわないといけないけど」
「そうね。まあそれは、柑奈のためでもあるし。……ただね、社員証のスキャンのところで、私が胸を強調したブラウスを着て、わざとよろけて、KUS社員の気を引くってところが、セクハラくさいけど」
「あー、それね。それくらいやれば、河野さんでも、気を引けるかなって。……あー、いい意味で」
すると、河野はコーヒーカップを持ち上げ、一口すすってから、「いつか殺す」とつぶやいた。――それから、ノートへ再び顔を近づけた。
「ま、いいわ。で、そのあとは……。へえ、この手を使うの。案外、使えるかもね。……だとしたら、塞がれていない、
玲司は片頬で笑い、薄い湯気をはなつコーヒーカップに手を伸ばして、
「まあね、さて、準備は、整ったな」
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