第4話

 アルが箒に飛び移ってからの展開は、まさに一方的なものだった。


 彼を殴りつけて箒から落とすや否や、アルは近くにいた別の警官へとすぐさま飛び移った。突然の出来事に呆然としていたその警官はあっさりとそれを許してしまい、抵抗する間も無く背後へと回り込まれてしまった。

 そしてアルは、彼の首を絞めた。それも単に気道を絞めるのではなく、上へと力を込めることで彼の頸動脈を絞めたのである。この方法ならば、気絶させるのに掛かる時間はほんの数秒で済む。

 周りの警官達は、ただそれを黙って見ているしかなかった。それはそうだろう。彼女のすぐ傍には、仲間がいるのである。下手に攻撃したら巻き込みかねない。そしてこの中にいる誰もが、職務のためなら仲間の命を見捨てるような精神の持ち主ではなかった。同時に、職務のためなら自分の命を投げ出すような精神の持ち主でもなかった。

 結局何の反撃もできないまま、1人、また1人と落ちていった。魔力の供給源を失った彼らの箒も、持ち主を追いかけるように落ちていった。


 そして4人目と4本目が地面に衝突したとき、アルも地面へと下り立った。

 道路の往来で少女が仁王立ちし、その周りで4人の警官と4本の箒が転がっている。そんな奇妙な光景を、先程路地裏へと逃げ込んだ通行人達が、物陰に隠れて恐る恐る眺めていた。

 アルはしばらくの間、その警官達を無表情でじっと眺めていた。


「――そうだ。また追いかけられたら困るしね」


 ふとアルはそう呟くと、彼らの傍に転がる箒へと歩きだした。

 そしておもむろに脚を上げると、それを箒のど真ん中に勢いよく叩きつけた。ばきっ! と景気の良い音をたてて、箒はあっけなくへし折られた。

 元々1本の箒だった“2本の箒だったもの”を、アルは路肩へと蹴り飛ばした。そして別の箒へと歩いていくと、その箒も同じようにへし折っていった。そうして4本の箒を全て真っ二つにすると、今度は倒れている警官の1人へと歩いていった。


 しゃがみ込んで、彼の顔を覗き込む。真っ先に自分を攻撃し、そして真っ先にやられたそいつは白目を剥いて気絶しており、地面に墜落した際にぶつけたらしい頭から血が流れていた。このまま放っておいたらどうなるか分からないが、ただちに命に関わるほどの傷ではない、とアルは考えた。

 なのでアルは特に応急措置をすることもなく、その男の胸ポケットをがさがさと漁った。

 するとそこから、魔術を使うときの必需品である、指揮棒のように細くて小さい木製の杖が出てきた。

 そしてアルはその杖の両端をしっかりと握りしめると、ゆっくりと力を加えて――


「やめてもらえるかしら」


 空からの声に、アルの動きがぴたりと止まった。無表情のまま、そちらへと目を向ける。

 紫のローブに身を包んだ、背中に掛かるほどに長い金髪と切れ長の蒼い目が印象的で、異性どころか同性すらも目を惹かれるほどに綺麗な顔立ちをしている女性が、箒に跨って屋根くらいの高さをフワフワと浮いていた。

 クルスだった。


「初めまして。私はクルスっていうの。あなたが、アル?」


 アルは、こくんと頷いた。


「その杖は魔術師にとっての誇りで、いわば自分の命のようなものなの。だから、折らないでくれると嬉しいわ」


 柔らかい微笑みを浮かべるクルスに、アルは首をかしげた。


「誇り? あんなに楽しそうにわたしを殺そうとしてたのに? あのときの顔、奪ったお金を数えてる強盗のおじさんそっくりだったよ?」

「うーん、アルがそう思うのも仕方ないかもしれないけど、どんなに下衆な魔術師でも一応杖は大事なの。分かってくれる?」

「でも目を覚ましたら、またわたしのこと追いかけてくるし……」

「大丈夫、しばらくは目を覚まさないから。だから、杖は許してくれる?」


 その言葉に、納得していない表情ながらもアルは頷いた。手に持っていた杖を、その辺にポイと投げ捨てる。

 そして今度は、アルが尋ねる。


「それで……、クルス? がわたしに何の用?」

「アルが少しおいたが過ぎるようだから、警察の人に頼まれて叱りに来たの」


 まるで「天気が良かったから散歩に出掛けたの」みたいな軽い口調で、クルスはそう言った。

 それに対して、アルは別段驚いた様子も無く、


「嫌だって言ったら、どうするの?」

「たとえ嫌だって言わなかったとしても、私はアルと戦うつもりよ?」


 クルスはそう言うと、胸元から杖を1本取り出した。

 そしてそれを、アルへと放り投げた。


「はい、使って良いわよ。大丈夫、罠とかは仕掛けてないし、あなたがそれを取る隙を狙うつもりもないから」


 それを証明するように、クルスは自分の両手を肩の辺りまで上げて、手を開いた。

 しかしアルは、自分の足元に転がるその杖に手を伸ばそうとしなかった。


「あら、どうしたの? 言っておくけど私のことを、あなたが今まで戦ったような、魔術を使わなくても勝てるような奴だと思わない方が良いわよ?」


 クルスの“警告”を受けても、アルの手が動くことはなかった。

 その代わり、口が動いた。


「そんなもの渡されても、わたし、魔術使えないもん」

「……使えない? 苦手ってこと?」


 先程までの朗らかな笑みを消して真剣な表情で尋ねるクルスに、アルは小さく首を横に振った。


「ううん、苦手とかじゃなくて、使えないの」

「……私を油断させようとしているのなら、無駄よ」

「そう言われても……、本当に使えないもん」


 この世界において“魔術”とは、いわば呼吸と同じように皆ができて当たり前のことである。もちろんそれを専門職にできるほどに熟達するまでには、膨大な努力と類い希なる才能が必要となるものではあるが、ただ使えるようになるだけならそれほど苦労しない。

 そんな魔術を、アルは「使えない」と言い切った。逆ならともかく、彼女がそんな嘘を吐くメリットが無い。


「…………、まぁいいわ。だったら――」


 クルスはそこで一旦言葉を止めると、懐から自分の杖を取り出し、アルへと向けた。クルスが小さく呪文を唱えると、杖の先端でばちばちと火花が散った。

 それをじっと見つめながら、アルは静かに両脚を肩幅に開いた。


「――私が、あなたの本気を引き出してあげる!」


 そして、それは放たれた。

 発動の瞬間に小さな電流が空を走り相手を襲う、初歩的な魔術。着弾時に鞭のようにピシッと小さく音が鳴ることから、《イエロー・ウィップ》と名付けられている。

 アルはその電撃を、横に跳ぶようにして避けた。


「さすが、反応が良いね!」


 クルスは楽しそうに笑って、杖を横に振った。電撃がもう1発放たれ、跳んだ勢いのまま走るアルに襲い掛かる。

 しかしその電流も、アルに届くことはなかった。彼女が一瞬前にいた空間を虚しく通り過ぎ、石畳を小さく焦がすだけだった。

 それでもクルスはめげることなく、3発目の電撃を放つ。

 すると、今まで順調に避けていたはずのアルが突然足を止めた。

 その瞬間、彼女の爪先からほんの僅か離れた場所で、ピシッ、と電撃が炸裂した。


「へぇ……、今のはちょっと意外だったわ」


 これにはさすがのクルスも驚いたようで、若干目を見開いてそう呟いた。

 クルスにとって最初の2発は単なる囮であり、避けられることは想定内だった。わざとアルの後を追うように電撃を放つことで彼女の動く方向を固定し、3発目で仕留めるつもりだった。

 だがアルは、その3発目さえも見切っていた。


 ――ひょっとして、杖の指す方向や視線を読まれてる……? 成程、これは気を引き締めないといけないわね……。


 《イエロー・ウィップ》では仕留められないと判断したクルスは、より高度な魔術を使おうと魔力を杖の先端に集中し始めた。

 その瞬間、アルがクルスに向かって走り出した。一瞬でクルスの真下に潜り込むと、強く地面を蹴って跳び上がり、屋根ほどの高さにいるクルスへと一気に詰め寄った。

 アルとクルスの視線が、交錯する。


「――――!」


 クルスはほとんど脊髄反射の早さで、箒を操作して後ろにずれた。杖へと伸びていたアルの手は空を切り、そのままアルの体は地面へと落下していく。

 その隙を狙って、クルスは即座に呪文を唱え、杖を彼女へと向けた。先程までよりも強く火花が散り、それは小さな雷となって地面へと、そしてその軌道上にいるアルへと向かっていった。

 《イエロー・ウィップ》を発展させた魔術、《ライトニング》である。

 しかし、結局その雷も当たらなかった。魔術が発動する直前に地面に下り立ったアルがそれを察知し、転がるようにしてその場を離れたからである。

 そしてアルはすぐさま立ち上がると、再び路地裏へと跳び込んでいった。


「待て!」


 当然、クルスも箒でその後を追う。



 *         *         *



「まさか、〈姫〉が圧されてる……?」


 時計塔で引き続き双眼鏡で観察していたメリルが、信じられないといった表情で呟き、目から双眼鏡を離した。

 学院での会話からも推察できる通り、クルスとメリルはイグリシア魔術学院の先輩と後輩という間柄である。学生時代の頃からメリルはクルスのことを尊敬しており、いつも彼女の後をついて回っていた。

 なので、メリルは昔からクルスの“強さ”というものを目の当たりにしてきた。

 だからこそ、魔術すら使わない少女にクルスが苦戦しているという光景が、メリルには信じられなかった。


「……助けなきゃ」


 メリルは力強くそう呟くと、自分の箒に跨った。魔力を込めると、それは彼女を乗せたままふわふわと浮き上がった。

 そしてメリルは、クルスのもとへと向かっていった。



 *         *         *



「まったく、ちょこまかと……」


 路地裏を尋常ではない速さで駆けていくアルを見つめながら、尋常ではない速さで追いかけるクルスはぽつりと呟いた。

 杖の先端に魔力を注ぎ、雷を生成。

 それをアルに向けて放つ。

 避けられた。


「ちっ」


 クルスは何度目になるか分からない舌打ちをして、再び雷を生成していく。

 路地裏に入ったアルは、先程と同じように不規則に道を曲がってクルスから逃げていた。警官達を混乱させていたそれは、クルスに対してもしっかりと効いていた。

 しかも今度はそれに加えて、道幅をいっぱいに使って左右にずれたり、速く走ったり遅く走ったりしているのである。これのせいでクルスはいまいち狙いを定めることができず、結果アルに1発も当てられないでいる。


「いっそのこと、どでかいやつを1発やれれば良いんだけど……」


 しかしこのような狭い場所でそんなことをすれば、周りの民家に被害が及んでしまう。そしてクルスはここに来る途中に、無関係の人や物を傷つけることのないようにとメリルからきつく言われていた。

 本音を言うと、自分の魔術で周りがどうなろうがクルスには知ったことではなかった。しかしメリルがあまりにも真剣に(しかも若干涙目になってまで)頼み込むものだから、クルスは渋々了承したのである。

 だからといって、クルスは今の状況に苛立っているわけではない。

 むしろ、楽しんでると表現してもよかった。

 本人すら気づかずに浮かべている口元の笑みが、まったく消えることがないのだから。





「さてと、どうしようかなぁ……」


 一方、傍目にはクルスを翻弄しているように見えるアルだが、実際にはそれほど優位な状況というわけでもなかった。

 そもそも、空を飛んでいる相手に近づくことが容易ではない。おまけに、向こうは魔術のおかげで遠くから攻撃できる。つまり、丸腰のアルにはクルスに対する有効な反撃手段が無いのである。

 それに、こうして逃げているのにも限界がある。ただ走るよりもスピードを変えながらふらふら走る方が、体力の消耗は圧倒的に激しい。このままでは、アルの体力が尽きたのを見計らって攻め込まれてしまう。

 それまでに、何としてでもケリをつけたいところである。


 ――せめて、箒から引きずり下ろせたらなぁ……。


 先程の警官みたいに油断していたり頭に血が上っていたりしていれば攻め入る隙があるのだが、クルスの様子を見ている限りではそうもいかないだろう。

 さてどうしたものか、とアルは走りながら頭を巡らせる。

 と、アルはふと辺りに目を走らせた。自分が今どこにいるのかを確認すると、今度は空を見上げて太陽の位置を確かめる。


「――よーし」


 どうやら、何かを思いついたようだ。

 そのときのアルの表情は、今まさに戦っているとは思えない、まるで悪戯を企む悪ガキのような笑みだった。

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