第3話

 太陽が空のてっぺんを通過する陽刻6時を回り、さらにそれから1時間ほど経った頃。

 ロンドの中心から少し離れたそこは、その日暮らしがやっとの下流層が集う、いわゆるスラム街だった。一軒家から集合住宅まで有象無象の建物がゴチャゴチャとひしめき合い、道路には当たり前のようにゴミが散乱している。

 道幅も馬車が1台通れるかどうかというほどで、しかもあちらこちらに折れ曲がったり分かれたりしているものだから、初めて来た者がうっかり入り込んでしまうと途端に迷ってしまいそうになるほどだ。

 けっして住み心地が良いとは言えない、まさに“混沌”という形容がぴったりな場所だが、ここで生活している人々にとっては立派な生活の場である。今も子供達が鬼ごっこに勤しんでたり、主婦達が路上に洗濯物を干したり井戸端会議をしていたり、薄汚れた男が何だかよく分からないものを路上で売っていたりと、ごく日常的な生活がそこでも変わらず営まれている。


 そんなスラム街の、とある1軒の家。

 その屋根の上で、1人の少女が仰向けに寝転んでいた。

 アルだ。

 彼女の横には籠いっぱいに詰め込まれたリンゴの山があり、彼女はそこからリンゴを一個掴むと、ぼんやりと空を流れる雲を眺めながらそれを囓った。

 ここは最近アルが見つけた絶好の昼寝の場であり、暇を見つけてはよくここに通っている。この日もアルは“一仕事”を終えると、報酬を片手にわざわざ1時間ほど掛けてここまでやって来たのである。


「うーん、良い天気……。やっぱり日向ぼっこしながらのお昼ご飯は最高だねぇ……」


 アルは見た目と違わぬ間延びした口調でそう独りごちると、手に掴んでいるリンゴをポイと口の中に放り込んだ。芯や種も構わずにごりごりと噛み砕くと、ごくりとそれを飲み込んだ。

 そして腕を枕に横になると、静かに目を閉じた。肌を優しく撫でるような柔らかい日差しの感触、そして屋根の下で繰り広げられている、子供やその親達の喧騒が先程よりもはっきりと感じられるようになる。

 一見すると、昼寝をするには適さない場所である。日向ぼっこならもっと別の場所でもできるし、何よりここは昼寝をするにはうるさすぎる。

 しかしアルはあえて、ここを昼寝の場所に選んだ。

 なぜなら――


「…………」


 あと少しで夢の世界へと旅立とうとしていたところで、ふいにアルが目を開けた。

 アルはゆっくりとした動きで上半身を起こすと、周りに耳を傾ける。

 子供達がはしゃいでいる声は相変わらずだが、先程まで実に楽しそうにおしゃべりに興じていた主婦達の声色が、何やら不穏な雰囲気を纏っていた。


 曰く、「さっきあそこで警察を見た」と。

 曰く、「この辺りで何かの捜査をしているらしい」と。

 曰く、「もし捕り物にでもなったら、巻き込まれないように家に籠もっていようか」と。

 曰く、「いや、いっそのこと、ほとぼりが冷めるまで別の場所に避難していた方が良いのではないか」と。


「まったく……、のんびり昼寝くらいさせてほしいなぁ……」


 アルは不機嫌そうにそう呟くと、ちらりと横に目をやった。

 そこにあったのは、籠いっぱいに詰め込まれたリンゴの山。

 アルは一瞬それに手を伸ばしかけるが、中途半端な格好でそれを止めた。未練を断ち切るように首を振ると、ゆるゆると腕を引っ込めた。

 そして、上半身を前へと倒した。

 屋根の上にいるということは、当然ながらそこは斜面である。アルの体は重力に引っ張られ、前転の要領で屋根をごろごろと転がり落ちていく。

 そして、アルの体が屋根から離れそうになるそのとき、


「アルだな! 数々の窃盗、暴行、傷害の容疑で身柄を拘束する!」


 彼らが、アルのいる家を取り囲むようにして下から箒に跨って現れた。数は4人でいずれも男、黒いローブと左胸のバッジから彼らが警察の人間であることが分かる。

 さて、口上と共に威勢良く現れた彼らだったが、残念なことにそれを言い終える頃、アルはすでに屋根の上にはいなかった。

 『数々の』の時点でアルの体は完全に屋根から離れ、重力に従って今度は垂直に自然落下を始めていた。空中で体を捻って体勢を整えると、『身柄を』と共に地面に着地した。

 そして、『拘束する!』が合図だったかのように、走りだした。


「ま、待て!」


 それを見た彼らは、慌てたように両手で箒を握りしめた。箒に魔力が注ぎ込まれ、箒によってそれが推進力へと変化する。

 そして、アルを空中から追い始めた。





 スラム街のど真ん中を駆け抜けていくアルの後ろを、箒に乗った警官達が空から追いかけていく。景色がほとんど形を成さずに後ろへと流れていき、空気が顔や体をびしばしと叩いてくる。

 警官達は、思わず顔をしかめた。

 しかしそれは、顔に当たる空気が痛かったから、という理由だけではなかった。

 アルの走りに、脅威を感じたからである。


 それは、10代前半の少女が出せるような速さではなかった。大の大人の、それも短距離走を専門としている選手が、まっすぐで平坦な道を全力で駆け抜けてようやく出せるかどうかという、とんでもないものだった。

 しかも彼女は、何も遮るものの無い空中を飛ぶ警官達とは違い、通行人や、道路に捨て置かれた粗大ゴミなどを避けながら走っているのである。もし何の障害物も無かったらと考えると、警官達の背筋は寒くなった。

 さらに彼女は、ただまっすぐ走っているだけではなかった。時折彼らを攪乱させるために、右へ左へと曲がって揺さぶりを掛けてくる。その曲がり方に規則性は無く、次にどう動くかがまったく掴めない。

 おかげで警官達は先回りしてアルを挟み撃ちにすることができずに、ただ後ろから彼女を追うしかなかった。


「このガキが……、嘗めてんじゃねぇぞ!」


 とうとう痺れを切らした1人の警官が、杖を取り出して小さく呪文を唱えた。するとたちまち、杖の先端で野球のボールくらいの大きさはある炎の球が形成されていく。

 しかし、


「おい、無闇に攻撃するな! 周りの民家に当たったらどうする!」

「――ちっ、分かったよ!」


 隣にいる仲間に窘められ、その警官は炎を掻き消した。

 その言葉を聞いてアルの口角が上がったことは、アルの後ろにいる彼らが知る由も無かった。

 そうしている内に、アルが大通りへと飛び出した。先程までと違って、馬車が4台横に並んでもまだ余裕のあるほどに広い道路だ。


「しめた!」


 先程攻撃し損なったその警官が、ここぞとばかりに炎の球を形成していく。大通りには数人の通行人がいたが、逃げる少女と追う警官達を目に留めた途端、皆が路地裏へと逃げていった。

 つまり、無関係な人々を巻き込む危険は無いということである。


「おらぁっ! 食らいやがれっ!」


 気合いの雄叫びと共に放たれた炎は、まっすぐアルへと向かっていった。彼女の背中を照らす紅い光が、加速度的にその輝きを増していく。

 そして炎の球は衝突し、炸裂した。

 道の横幅を埋め尽くす、しかし隣接した民家をけっして傷つけないその爆発は、一切爆風や熱風を周りに撒き散らすことなく、着弾したその箇所を数秒間燃やし続け、やがて静かに消えた。

 これこそが、周りに被害を出すことができない状況で重宝する魔術、《ステイ・ボム》である。

 この魔術の恐ろしいところは、本来爆風などによって霧散するはずのエネルギーをその場に留まらせるところにある。つまり、通常の爆発よりも威力は遙かに勝る。

 炎が消えた後に残ったのは、焦げてボロボロになった石畳だけであった。どこを見渡しても、焼け焦げた少女の死体などが見当たらない。

 その光景に、魔術を放ったその警官が愉悦の笑みを浮かべる。


「あららぁ、骨すら残さずに焼き尽くしちゃったかな?」

「おいおまえ、いくら何でもやりすぎだぞ! 俺達は彼女を捕まえるように言われてたはずだ!」

「うっせぇな。あのガキ、俺らのことを散々馬鹿にしてくれたじゃねぇか。これくらいの報いは受けて当然だろ?」


 そう言いながら引き攣った笑みを浮かべる彼の姿は、お世辞にも“警察”という公務を全うする人間が浮かべて良いものではなかった。そんな彼に、仲間が恐怖で顔をしかめる。

 そんな仲間達の視線を気にする様子も無く、彼は未だにうっすらと黒煙の上がる焦げた石畳を、ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべて眺めていた。

 そして、何の気無しにふと右へと目をやったとき、


「――へっ?」


 彼の目に映ったのは、拳を振り上げながらこちらへと飛び込んでくるアルの姿だった。



 *         *         *



「成程、なかなか賢いわね……」


 アルと警官達から遠く離れた赤煉瓦の時計塔から、双眼鏡で先程の戦いを見ていたクルスは、素直にそう呟いた。

 違う視点から見ていたクルスには、アルが爆発に紛れて路地裏へと逃げ込んだのも、ぐるりと回り込んで警官達に一番近い民家の屋根に跳び乗ったのも、そこから屋根を蹴って先程攻撃を仕掛けてきた男に跳び移ったのも、全部はっきりと見えていた。


「いや、この場合は、あいつらが油断してたっていうのが大きいかしら。いくら相手が子供だからって、嘗めて掛かりすぎよ。この辺の地理を把握しているストリートチルドレンが、攻撃されやすい場所に相手を誘導するなんてヘマを犯すはずが無いでしょうに……」


 クルスの言うことは当たっていた。実際、アルがあの警官を攻撃対象に選んだのも、攻撃されたことによる腹いせなどではなく、単純に彼が一番隙があったからである。


「しかもそれに釣られるならまだしも、わざわざ自分の魔術で相手を見失うなんて、愚の骨頂ね。無様極まりないわ」

「な、何冷静に分析してるんですか! 早く助けないと、やられちゃいますよ!」


 一方クルスの隣では、同じように双眼鏡で様子を見ていたメリルが、あわあわと慌てふためいていた。自分の部下でもある仲間が今まさに危機的状況なのだから、その反応も当然かもしれない。

 しかしクルスは、そんなメリルを見て呆れたように溜息をつく。


「別に私は、あいつらを助けろとは頼まれてないわよ? 私が頼まれたのは、あの子を何とかすることだけ。あいつらは勝手にやられておけば良いわ」

「そ、そんなぁ……」

「良いじゃない。犯人に対して油断したらどうなるか、身をもって知る良い機会よ。――そんなに不安そうな顔をしないの。頼まれたことはちゃんとやるから」


 クルスはそう言って、後ろの壁に立て掛けてあった箒を手に取り、それに跨った。クルスを乗せたそれはふわふわと浮き始め、メリルの目線の高さにまで上がった。


「そ、それじゃ私も――」

「あなたは来なくて良いわ。邪魔だから」


 慌てて自分の箒へと駆け寄るメリルに、クルスの返事はどこまでも冷たいものだった。

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