第2話

 イグリシアの王都・ロンドでの暴行事件から一夜明け、次の日。

 そこから馬で5時間ほど走ったその場所は、見渡す限りの平野となっていた。背の低い樹木がちらほらと群生している他は芝生が地面を覆うだけであり、ぐるりと取り囲む地平線にはロンドの街並みどころか山すら見えない。

 そんな広大な草原には、芝生が禿げていることで辛うじて識別できる程度の粗末な道が1本、ほぼまっすぐに引かれていた。その道はロンドの街から始まっていて、或る建物に辿り着くことでその役目を終えている。

 その建物は、中央の大きな塔とそれを取り囲む4つの塔が特徴的であり、立派な石堤の塀によって四方を囲まれていた。その佇まいは城のようであり、外敵から身を守る要塞のようでもある。

 敷地内も外と同様に草原となっており、それは門と正面玄関を結ぶ道に関しても同じだった。敷地の隅には馬小屋や、それだけでも普通の家1件分は優に超える大きさの離れがひっそりと建てられている。


 そんな城とも要塞ともとれる立派な建物の名は、“イグリシア魔術学院”。

 その名の通り、魔術師を目指す子供達を教え導くことを目的とした、王立の教育機関である。

 その歴史はイグリシア創生期にまで遡り、5年間のカリキュラムの下、生徒を立派な魔術師へと育て上げていく。その実績は、過去の卒業生が様々な分野で活躍していることからも明らかであり、今や国内に留まらず世界中にその名を轟かせている、由緒正しき名門学院である。

 また、この学院は全寮制である。そのため、生徒や教師が生活するための設備もしっかりと整えられている。1階には全員が一度に食事を摂れるほどに広い食堂もあるし、男女それぞれに大浴場もある。

 そして当然ながら、生徒達の生活空間となる“学生寮”と呼ばれる一画、さらには教師達が生活空間となる“教師寮”も存在する。


 只今の時刻は、陽刻ようこく4時を回ろうかという頃。この世界では太陽が出ている時間を“陽刻”、沈んでいる時間を“月刻げっこく”としており、それぞれを12等分した1日24時間制となっている。

 つまり季節によって昼と夜の“1時間”の長さが異なるのだが、それでも陽刻4時がその日最初の授業が始まる頃であることは変わらない。生徒や教師のほとんどは本棟の教室や庭へと移動しているため、教師寮はとても静かで穏やかな空気が流れている。


 ただし今日に限っては、“とある部屋を除いて”という注釈がつくが。



 *         *         *



 “クルス=マンチェスタ”と書かれた札がドアに貼られているその部屋は、異様な緊張感に包まれていた。

 その部屋は1人用にしてはかなり広く、南向きの大きな窓が入口とちょうど向かい合っている。その窓の西側に2人は余裕で寝られる大きさのベッドが、東側に机と椅子が壁向きに置かれている。机の隣には専門書がぎっしりと詰まった本棚があり、ベッドの横には立派な洋服箪笥もある。

 そしてその隣、部屋の北西に位置する角には、直角に折れたソファーが壁に合わせるように置かれている。

 しかしその人物は、来客者なのにけっしてそのソファーには座ることなく、部屋の中央に地べたで正座していた。

 その人物とは、昨日の昼間に街のレストラン前で現場検証を行っていたメリルだった。緊張で体をがちがちに固まらせながら床をじっと見つめているその様子は、部下を従えて現場検証をしていた人物と同一とは思えない。


 そして、彼女を居心地悪くさせるほどの緊張感を作り出している原因となっているのが、ベッドに腰掛けて足を組み、冷めた目つきで書類に目を通している女性だった。

 彼女こそがこの部屋の主、クルス=マンチェスタである。

 年齢はメリルより2つほど上。背中に掛かるほどに長い艶のある金髪と切れ長の蒼い目を持ち、この学院指定の紫のローブに身を包んでいる。

 そしてその顔立ちは、異性どころか同性すらも目を惹かれるほどに綺麗である。しかしあまりにも整ったそれは、むしろ人形のような冷たい印象を与えるものとなっている。

 そんな美女が、不機嫌を露わにした表情で目の前に座っているのである。しかもメリルは彼女の“性格”をよく熟知しているため、その恐怖もひとしおだ。


「ねぇ」


 クルスがメリルに声を掛けた。たったそれだけのことで、メリルの体が、びくんっ、と跳ねた。


「この書類を見ている限りだと、ただチンピラが子供に因縁をつけて返り討ちにされたってだけの、本当にどうでもいい事件のようにしか思えないけど」

「えっと、その……」

「こんなことのために、私が忙しいのを知っておきながら、こんな朝早く、わざわざここを訪ねてきたってわけ?」

「で、でもこの前、青の曜日は受け持ちの授業が無いって言ってたじゃないですか……」

「ええ、確かに言ったわね。でも教師にとって“授業が無い=暇”とはならないとも言ったはずよ? それともあれかしら? 『たとえどんな状況だろうと、警察に協力するのが市民の義務です』とか言い出す気なのかしら?」

「そ、その、突然お邪魔したことについては謝ります。けれど、そのチンピラを気絶させた子供っていうのが問題でして……」


 辿々しく紡がれるメリルの言葉に、女性は大きく溜息をついて書類をめくった。そして、目撃者の証言を元に描いたであろう似顔絵に目をやった。

 宝石のように鮮やかな緑色の大きな瞳に、腰に届くほどに長い同色の髪。平均身長にも満たない小柄な体躯。襟がくたびれている薄汚れたシャツ一枚に所々破れたズボンという、いかにも乞食というような格好。

 どう見ても、普通の少女にしか見えない。服装さえどうにかすれば「この学院の1年生です」と言われても納得してしまうような、何の変哲も無い普通の少女である。

 しかし、その絵の横に添えられているのは、こんな文だった。



 名前:アル

 年齢:不明だが、おそらく10代前半

 罪状:窃盗53件、暴行39件、傷害17件(いずれも容疑、他余罪の疑いあり)

 補導歴:無し

 追記:過去に延べ12人の警官が彼女と接触、応戦。しかし全員が返り討ちに遭い、重傷を負う。



「聞いた話だとこの子、ストリートチルドレンなんでしょ? どうせ保護する気が無いんなら、生きてくための多少の犯罪くらい放っておきなさい」

「な、何を言ってるんですか! “多少”なんて件数じゃないですよ! それに警察たる者、市民の安全を脅かす存在を見過ごせるはずがありません!」

「見過ごせないとか言っておきながら、何よこの体たらくは? ロンドの警官ってことは、ほとんどがここの“戦闘科”出身ってことでしょ? 何のための勉強よ」

「だ、だからこうして、クルス先輩に頼んでるんじゃないですか! このままだと、この学院を卒業した私達だけでなく、この学院そのものにとっても恥なんですよ!」

「勝手に“学院の卒業生”の責任にしないでちょうだい。あくまで“警察の人間”がしでかしたことでしょ? 自分が貶めた名誉くらい、自分で挽回しなさい」

「そ、そう言われましても……、今まで12人もやられてるから、みんな尻込みしてまして……。しかも今朝になって別の事件の犯人が見つかったもんだから、そっちの方に人手が行っちゃってまして……」

「話にならないわね。帰りなさい」


 クルスはつまらなそうにそう吐き捨てると、手に持っていた書類をメリルに放り投げた。ばさぁ、と方々に散ったそれらを、メリルは「あぁ、捜査資料がぁ」と小さな悲鳴をあげて掻き集めていく。

 それを尻目にクルスはベッドから立ち上がると、机の方へと歩いていった。そこには50枚は優に超えているであろう紙の束が置かれていた。


「さっきも言ったと思うけど、私は忙しいの。試験の採点もしなきゃいけないし、今度やる演習の準備もしなきゃいけないし――。あなたもこんなところで油を売ってないで、さっさと警察署に帰って、そのアルって子を捕まえる計画でも立てなさい」


 クルスはそう言うと椅子に座り、一番上の答案用紙を手に取った。引き出しから赤いインクと万年筆を取り出すと、1つ1つの答えにマルやバツをつけていく。万年筆が淀みなく踊り、答案用紙はみるみる真っ赤になっていく。

 もうこれでこの話は終わりだと言わんばかりのクルスの態度に、メリルは慌てて立ち上がった。正座していたことによる足の痺れに顔をしかめながら、クルスの背中に縋りついて悲痛な叫び声を浴びせる。


「お、お願いしますよぉ! 正直、私では勝てるかどうか自信無いんです!」

「私には関係無いわ。帰りなさい」

「こ、こんな小さな女の子が、大の大人を、しかも戦闘訓練している警官を何人も倒したんですよ! ほら、〈姫〉の血が騒いできませんか?」

「今度〈姫〉って呼んだらタダじゃおかないわよ? ――それに、“大人を圧倒する子供”なんてそれほど珍しいもんじゃないでしょ? 〈火刑人〉ほど極端じゃないにしても、特進クラスの生徒だったら、現職の警官相手でも結構良い線行く子は何人もいるわ」

「魔術を使わなくても、ですか?」


 ぴたり、とクルスの万年筆が止まった。

 しめたとばかりにメリルは口角をにやりと上げると、一気に捲し立てる。


「チンピラを倒したときも、警官を返り討ちにしたときも、目撃者や被害者の話では、彼女は一切魔術を使っていませんでした。いくら相手が魔術を使ってこようと、彼女は頑なに素手で応戦していました」

「…………」

「そんな彼女が魔術を使ったら、いったいどれだけ強いんでしょうね?」

「…………」


 ことり、とクルスの万年筆が置かれた。

 クルスが首を後ろへと向ける。爛々と瞳を輝かせるメリルと目が合った。

 クルスは、呆れ果てたように大きく溜息をついた。

 その溜息が、いつまでも手の掛かる後輩に対するものなのか。それとも、そんな彼女の口車にまんまと乗せられていることが分かっていながらも、それを断ろうとは思っていない自分自身に対するものなのか。

 それは、本人にしか分からなかった。

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