第5話
もはや何発撃ったか数えることすらやめてしまった《ライトニング》をいつでも撃てるように準備しながら、クルスは、未だ速さの衰えることがないアルを睨みつける。
「まったく、どれだけ体力があるのよ……」
先程の警官達との逃走劇と合わせると、かれこれ30分以上は走り回っていることになる。どれだけ鍛えた人間だろうと、全力で走れる時間など1分も無い。
もしかしたらこれは彼女にとっての全力ではないのかもしれない、という考えが浮かんで、クルスは思わずぞっとした。
――本当ならこのまま向こうの体力切れを狙うところだけど……、あの子に限っては得策じゃないかもね……。
そう結論づけたクルスは、箒を握る手に力を込めた。それに応えて、箒がグンと加速する。
一方アルは、壁に激突しかねない勢いで突き当たりを右に曲がっていった。
クルスもその後を追った。ほとんど減速せずに曲がり角へと差し掛かり、遠心力に耐えながらそれを曲がりきった。
クルスの眼前に現れたのは、白だった。
「なっ――!」
驚きの声をあげながら、クルスはとっさに箒を止めた。慣性によって前に放り出されそうになるのを必死に堪え、その白に目を凝らす。
白の正体は、大量の洗濯物だった。
その通りは集合住宅が集まっている区画となっていて、両端の建物の2階部分を橋渡すように紐が張られていて、そこに洗濯物を引っ掛けて乾かしていた。歩行者や馬車などにとっては何でもないそれも、クルスのように空を飛んでいる者にとっては充分障害物になり得るものだった。
危ないところだったとクルスがほっと息をついたのも束の間、突然彼女の視界がガクンと、高さにして体1つ分ほど下がった。
クルスがハッとして下を見ると、彼女の箒にアルがぶら下がっていた。
アルとクルスの視線が、交錯する。
そして次の瞬間、アルは鉄棒の逆上がりのように足を振り上げて、上に乗っていたクルスを蹴りつけた。
とっさに腕で庇ったため怪我は無かったものの、それによってクルスはバランスを崩し、箒からその体を離してしまった。
「くっ!」
苦い表情を浮かべながら、クルスは地面へと落ちていく。どうにか空中で体勢を整えると、膝を折って座り込むように着地した。
顔を上げると、ちょうどアルが地面に下りたところだった。それと同時に、先に落としていたらしいクルスの箒を踏みつけているところだった。
ばきっ! と音をたてて、箒は真っ二つに折れた。
* * *
「何だい、騒々しいね……。どっかの子供が遊んでんのかい……?」
家事も一段落してようやく昼寝ができるとベッドに寝転んでいたその女性は、外がにわかに騒がしくなったことで、苛立たしげにその身を起こした。
「まったく……、人が昼寝をしようってときに非常識な奴らだね……。ここはガツンと言ってやらないとね……」
ぶつぶつと愚痴を零しながら窓へと近づいた彼女は、ばんっ! とそれを開け放つと、おそらく下で騒いでいるだろう子供達を一喝するために大きく息を吸い込んだ。
そして下へと目を向けた。
通りでは、2人の人物が対峙していた。
1人は10代前半と思われる少女で、乞食のような汚らしい格好をしている。
もう1人の20代後半の女性はそれとは対照的に、紫のローブに身を包んだ、異性どころか同性すらも目を惹かれるほどに美しい容姿をしている。
大の大人が子供相手に何遊んでるんだ、と呆れながら、女性はさらに大きく息を吸い込んだ。
しかしそのとき、彼女ははっきりと見た。
金髪の女性の右腕に、指揮者が使うような、細くて小さい杖が握られているのを。
女性は息を止めると、下へと向けていた顔を上へと向けた。少女と金髪の女性を捉えていた視界が、今度は向かいの集合住宅を捉えた。
そして彼女はその集合住宅へ、そして近所中の家へ向けて、叫んだ。
「みんな逃げなぁ! 魔術師の喧嘩に巻き込まれちまうよ!」
* * *
その言葉が、引き金となった。
両端の民家や集合住宅から、主婦と思われる女性やその子供達、そしてそれらに手を引かれる老人達などが一斉に路上に飛び出し、右往左往していた。
親を見失った子供の泣き声、それを必死になって探す女性の呼び声、逃げながらも周りに注意を促す女性の叫び声、人に押されて転びながらも「死にたくない」と立ち上がろうとする老人の呟き――。
ほんの数十秒の内に、その通りは様々な声が飛び交い溢れかえる、狂乱の坩堝と化していた。
しかしそんな中でも、クルスとアルは周りのことなどまったく気にした様子も無く、ただ目の前の相手と対峙していた。人混みに紛れて逃げたり捕まえることもできただろうに、2人はそれをしなかった。
やがて右往左往していた人々もすっかりと消え、洗濯物がはためくその通りは、まるで廃墟のように人の気配が無くなっていた。2人を除いて。
その内の1人、クルスがぽつりと呟いた。
「まったく、さっきまであいつらを散々馬鹿にしてた私が、まんまとあなたの罠に掛かるなんてね……」
クルスは、アルが不規則に曲がりながら逃げるのは、後ろから追うクルスを振り切ろうとしているからだと思い込んでいた。
確かにそれも目的の“1つ”ではあった。
しかし、真の目的は別にあった。
真の目的とは、アルに置いていかれないようにとクルスに思わせることにより、必死に自分の後を追わせることだったのである。
――本当、面白い子……。
しかし箒を失ったところで、クルスはまだ自分が負けたとは思っていなかった。
逆にアルも、箒を失わせたところで自分が勝ったとは思っていなかった。
クルスは杖を構え、雷を生成する。
アルは両脚を肩幅に開き、腰を落とす。
自然と、2人の口元に笑みが浮かぶ。
互いが互いを牽制し、互いが互いの動きを読み合う。ほんの僅かでも動くことを許されない膠着状態。
「《フレイム・ショット》!」
それを破ったのは、アルでもクルスでもなかった。
「嘘――」
メリルがクルスのもとへと辿り着いたとき、彼女は驚きのあまり言葉を失った。
真っ二つに叩き折られたクルスの箒が路肩に転がり、その持ち主であるクルスが地面へと下り立っていた。そして彼女の目の前にはアルが立っており、まさに一触即発の雰囲気となっていた。
ちなみにメリルが今いるところからは、アルの背中が洗濯物越しに見えている形になる。そしてクルスはというと、ちょうど顔の部分が洗濯物に隠れて見えなくなっている。
――とにかく、急いで助けなきゃ!
メリルはその思いで、杖を取り出した。
杖の先端で、炎が生成されていく。
「《フレイム・ショット》!」
もしもこのときクルスの表情が見えていたならば、これから彼女に降り掛かる“災難”は避けられたかもしれない。
メリルの叫び声と共に、身の丈ほどの大きさもある炎が放たれた。炎は道中の洗濯物を巻き込みながら、アルの背中へとまっすぐ向かっていく。
アルがこちらを向く気配は無い。
完全に決まったと思ったメリルは、思わず拳を握りしめた。
しかし炎が当たる直前、アルの体が、ひょい、と右にずれた。
メリル渾身の一発は、あっさりと避けられた。
「へ?」
拳を握りしめたまま、メリルは思わず間抜け声を漏らした。その頬を、冷や汗が一筋流れる。
アルとクルスが向かい合っていて、アルの背中に炎を放った。
そして、それをアルに避けられた。
つまり避けられた炎は、必然的に向かいのクルスへと向かうことになる。
「ま、まずい! 〈姫〉、逃げてくだ――」
ばちぃん!
その瞬間、けたたましい音がしたかと思うと、炎が突然掻き消えた。
「な、なんで――?」
疑問符を浮かべるメリルだったが、すぐにそれは解消される。
先程まで杖の先端でばちばちと音をたてていたクルスの雷が、すっかり消えていたのである。そしてその杖の先端は、つい今まで迫っていた炎の軌道上に向けられていた。
おそらくメリルの炎は、クルスが放った《ライトニング》によって相殺されたのだろう。
メリルは、ほっと胸を撫で下ろした。
「よ、良かった……。無事で何よりで――」
「ねぇメリル」
クルスは俯いたまま、メリルに呼び掛けた。その声はやけに低く、やけに冷たかった。
びくんっ、とメリルの体が跳ねた。
「メリル、私、言ったわよね? あなたは邪魔だから、待ってろって」
「え、ええと……」
「それなのに、なんで奇襲なんてしてくれたのかしら? せっかく良い気分で戦ってたのに、あなたが水を差したせいで台無しよ?」
「あの、私はただ、ひ……クルス先輩を助けようと……」
「そしてただ奇襲したならまだしも、それをあっさりと避けられて、しかも味方を危険に晒すってどういうこと? 私だったから良かったものの、さっきの彼らだったら間違いなく大怪我よ?」
「えっと、その……」
クルスの声は激しいものではなく、むしろ穏やかで落ち着いたものだった。しかしメリルは、流れ落ちる大量の汗を拭うこともできずに、ただぶるぶると体を震わせていた。
メリルは知っていた。
今のクルスが、これ以上なくキレてしまっていることを。
「ん? 何だ?」
そんなことは知る由も無いアルは、突然の乱入者と様子の変わったクルスに、ただただ戸惑うばかりだった。
と、クルスがわざとらしく大きな溜息をついた。たったそれだけのことで、メリルはさらに大きく体をびくつかせる。
「もういいわ。あなたの言うことを素直に聞いたことに対する仕打ちがこれなら、私の好きなようにやったって文句は無いわよね?」
クルスはそう言うと、杖に魔力を集中させた。今までよりも桁違いな激しさで、火花がばちばちと散り始める。
「ま、待ってください! こ、ここは住宅街ですよ! こんなところでそんなのを出したら、私も巻き添えに――」
「そんなの私の知ったことではないわ」
「ちょ、ちょっと待って! お願いですから! い、今は気が立ってるだけですから! ね! どうか落ち着いて――」
「いいえ、メリル。私は今、とても落ち着いているわよ。だって、ちゃんと憶えているんだもの」
ここで初めて、クルスが顔を上げた。こんな状況でなければ、思わず見惚れてしまいそうな、素晴らしいまでの笑顔だった。
そしてそんな笑顔で、クルスは言い放った。
「『今度〈姫〉って呼んだらタダじゃおかないわよ』って」
その一言はメリルにとって、まさに死刑宣告だった。その顔から血の気が引き、誰が見ても明らかなほどに青ざめる。
そしてクルスのその笑顔から、アルも何かを感じ取ったのだろう。少しでもクルスから離れようと、突如走りだした。その表情は先程までの楽しそうなそれと違い、緊迫感に充ち満ちている。
「あっ――」
しかし5歩ほど進んだところで、アルは急に膝から崩れ落ち、そのまま地面に倒れ込んでしまった。起き上がろうとするも体に力が入らず、地面に手を突いては自分の重みに耐えきれずに肘を折ってしまう。
クルスが右手に掲げる杖の先端で火花がみるみる大きくなっていくのを、アルは忌々しげに見つめる。
そして、呟いた。
「くそ……、お腹空いた……」
洗濯物がはためいているその通りに、特大の雷が落ちた。
* * *
「あぁ、すっきりした……」
クルスがぽつりと呟いた。空に向けたその晴れやかな笑みは、どこか恍惚としたものにも見て取れる。
しかし彼女の周辺は、そんな晴れやかさとは程遠い有様となっていた。
そこにあったはずの建物は一つ残らず瓦礫の山となり、洗濯物だったものが路上のあちこちで火の手を上げている。もうもうと黒い煙が立ち上り、それに乗って何かが焼ける匂いがそこら中に充満している。
その光景はまるで、爆撃を受けた戦場のようだった。
そんな爆心地の中心で陶酔していたクルスだったが、ようやく意識を取り戻したのか、はっとなって辺りを見渡した。
そしてその惨状を確認すると、口を開いた。
「少しやりすぎたかしら?」
「少しどころじゃないですよ!」
瓦礫の中から顔を出したメリルが、罵声にも近いツッコミを入れた。彼女の服はボロボロになっていて、その肌は煤で汚れ、生傷が痛々しく浮かんでいる。
「何なんですか、これは! 偶々住人がいなかったから良かったものの、もし誰かいたら大惨事ですよ!」
「そんなに怒らなくても良いじゃないの。誰もいないのを確認して撃ったんだから」
「どのみち大惨事ですけどね! ていうか、どうするんですかこれ……。ああもう、上司に何て報告すれば良いんですか……」
これから襲い掛かるであろう始末書の山や事後処理の激務に、メリルは頭を抱えて蹲った。
それを見て、ふいにクルスが尋ねる。
「そういえばメリル、あなたよく無事だったわね」
「とっさに別の魔術で相殺したんですよ。ったく……、この様子じゃ絶対アルは生きてないし、何のためにここまで苦労したんだか……」
「彼女なら生きてるわよ」
「はっ?」
クルスの言葉に、メリルは顔を上げた。信じられないと物語るその表情は、口をぽかんと開けているために何とも間抜けだった。
クルスはゆっくりとした足取りで、通りの端っこに転がる1人の少女へと歩いて行く。
と、それを見たメリルが、驚きのあまりクルスを押し除けて少女へと駆け寄った。そして近くで彼女の姿を確認し、その驚きを更に大きいものとする。
瓦礫のすぐ傍に転がっていたその少女は、紛れもなくアルだった。
しかも、
「え……、無傷? な、なんで!」
クルスの雷が届く範囲に間違いなくいたにも拘わらず、アルの体には傷1つついていなかった。煤で若干汚れてはいるものの、それ以外は雷が落ちる前と何一つ変わっていない。
まるで、最初から彼女の攻撃など食らっていないかのように。
「ど、どういうことですか、これ……。まさかあの状況で、クルス先輩の雷を避けたっていうんですか……?」
「さぁ、そこまでは分からないわ。でも傷が無いからといって、すぐさま安心とは言えないわね。脈が弱まっているし、貧血も起こしてるみたい」
メリルの横で膝を折りアルの手首に指を添えていたクルスが、呟くようにそう言った。何でもないように言ってはいるが、その表情には困惑の色が見て取れた。
「何だか不気味な子ですね……。尋常じゃない身体能力とか、攻撃を受けたと思ったら無傷だったりとか、クルス先輩をあそこまで追い詰めるとか……」
「魔術の制限さえ無ければ、もっと簡単にこの子を捕まえられたわ」
「でも結局、こんなことになってるじゃないですか」
「それはあなたが水を差したせいよ」
「まったく……。とにかく、この子はこちらで引き取らせていただきますね」
メリルはそう言って、アルへと腕を伸ばし――
「待って」
かけたが、クルスがその腕を掴んだことでそれは阻まれた。
「……どうしました?」
まだ何か恨み言でもあるのか、と半ばうんざりした様子で、メリルはクルスへと顔を向けた。
しかし次の瞬間、メリルは思わず息を呑んだ。
アルを見つめるクルスの眼差しが、あまりにも真剣だったからである。
クルスは掴んでいたメリルの腕を離すと、自分の右腕をアルの背中に、左腕を彼女の膝裏にそろりと潜り込ませた。そしてそのまま、まるで壊れ物を扱うように慎重な手つきで彼女を抱え上げる。所謂“お姫様だっこ”というやつだ。
「…………」
クルスの目の前に、アルの寝顔が迫る。その顔は青ざめ、呼吸も荒くなっている。
「あの、クルス先輩……?」
「決めた。この子、私が引き取るわ」
「えぇっ!」
メリルが思わず叫んだのも、無理もないことだった。
「ちょっ、いきなり何を言ってるんですか! その子は犯罪者ですよ!」
「好きで犯罪者になったわけじゃないわ。この子にとって、生きる手段がそれしか無かったのよ。それに……」
「それに?」
クルスがメリルへと顔を向ける。その口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
「多分この子は、警察では手に余るわよ?」
「そ、そんなことないですよ……。クルス先輩も学院で言ってたじゃないですか、大人を圧倒する子供なんて珍しいものじゃないって……」
「その中でも、この子は特殊なの。――とにかく、この子は私が引き取るわ。これ、決定事項ね」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! わ、私の立場はどうなるんですか! クルス先輩を捜査に協力させることすら苦い顔をされたのに、そのうえ犯人を取られてしまいましたなんて、どう説明すれば良いんですか!」
「どうせストリートチルドレンの安否なんて、大して拘っちゃいないでしょ? それこそ『死んじゃいました』で片付ければ済む話じゃない」
「簡単に言ってくれますねぇ……」
呻くような低い声を漏らしながら、メリルはその場に崩れ落ちた。
そんな彼女を尻目に、クルスはじっとアルの寝顔を見つめる。
そして、ふと思った。
――何だかこの子の症状、栄養失調に似てるのよね……。
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