第3話 ラフ・メイカー

「そんな思いはさせないって……いきなりそんなこと言われても」


 正直なところ、返事に困る。

 井上さんが家に来てくれた理由は単に先生から頼まれただけで、俺と彼女の接点なんて、ただ一度だけ教科書を貸し借りしただけだ。

 それなのに、まるで自分が千佳の代わりになれるかのように、そんなことを言われたんじゃあ、こっちとしては困るしかない。


 それに、俺はまだ。


「圭太さんは、運命を信じますか」


 そんな俺を置き去りにして、井上さんが真剣な顔で問いかけてくる。


「……信じてる、というか、信じてた、かな」


 千佳と結ばれたときは、これが運命ってやつなんだと思っていた。

 だけど、結果だけを直視するなら、俺と千佳があんな結末を迎えることも運命だったという話になってくる。

 そうは思えなかった、思いたくなかった。なのに。


「……千佳、どうして……」

「それは、あの女が貴方を裏切ったからです」

「っ! 違う、千佳は音瀬先輩に騙されて……!」

「真実はそうなのかもしれません」


 すぅ、と小さく息を吸って、井上さんは一度俺の反駁を呑み下す。

 そして。


「でも、事実は一つだけです。貴方はひどく裏切られて、とても傷ついている。違いますか」

「……それ、は」


 認めたくはなかったが、井上さんが言った通りだった。

 千佳の本心がどこにあるのかはわからない。

 もしかしたら俺が今もそう信じているように、音瀬先輩に騙されたり、弱みを握られていてあんなことを言ったのかもしれない。


 だけど、千佳は俺を裏切った。

 俺を捨てて、音瀬先輩を選んだ。

 どんな理由があったとしても、その事実は一生、変わることはない。


「……井上さんは、俺を追い詰めにきたのか?」


 こぼれ落ちそうになる涙を意地で堪えながら、俺は井上さんに問いかける。


「いいえ。貴方を……圭太さんを、助けにきました」

「助け、に?」


 ひたすら真顔で正論パンチを繰り出しているのと同じ人間が言っているとは思えない言葉だった。

 助けにきた、なんて。

 別に、助けを呼んだ覚えはない。そこにいられたら、泣けなくて余計につらくなるだけだ。


「はい。貴方は私を助けてくれましたから。だから、今度は私が貴方を助ける番です」

「助けたって……大袈裟だ。俺はただ」

「知っています。あの女と付き合っていたから貴方は女性に対して免疫があった。そして私にはそんな忘れ物を貸してくれるような友達がいなかった。ただそれだけの条件が、符合しただけ」


 最初は淡々と事実を読み上げるかのような口ぶりだったけど、井上さんの言葉は後半に行くにつれて、少しずつ熱を帯びてきたように感じられた。


「……でも、そんな些細な符合を、人は運命と呼ぶのでしょう?」

「井上、さん……?」

「だから私は信じています。そして慕い続けてきました。貴方のことを、ただ一筋に」


 たったそれだけのことで、と、そう笑って返すには、井上さんの言葉はあまりにも重い。

 それに、心のどこかでは──俺は、井上さんの言葉に共感しているのだ。

 例え、心が弱っているだけだとしても。


 その言葉を否定するのは、千佳と結ばれたことを運命だと信じている俺を裏切ることになるから。

 運命なんて、些細なことから始まるものだと知っているから。

 たまたま家が近かった。たまたま幼い頃から一緒にいた。


 そんな偶然が積み重なって、坂道を転がり落ちて、恋に変わったことを、知っているから。

 ぽつり、と雨が降ったように感じた。

 違う。ズボンの裾を濡らしているのは、雨粒じゃなくて、俺の。


「……本当に、好きだったんだ」

「知っています。ずっと、見ていましたから」

「ははっ……情けないな、俺」

「悲しいときに泣けない方が、よほど人格に問題があると思います」

「……ありがとう、井上さん」


 小さく頭を下げると同時に、きゅうと腹の虫が鳴いた。

 そうか。

 もう何日も食事をしてないことすら忘れていた。


「お米と卵と醤油はありますか」

「あるけど……」 

「では、簡単なものを作りますので」


 最初からそうするつもりだったとばかりに、井上さんは手提げの学生鞄からエプロンを取り出して、制服の上から身につける。

 清涼感がある青のチェック柄が、スレンダーな彼女によく似合っていた。

 千佳とは色んな意味で対照的だ。千佳は、料理が壊滅的に下手だったから。


 そうして待つこと十数分。

 出来上がったおじやが入った鍋の取手をキッチンペーパーで包んで、井上さんが運んでくる。

 そこそこ深くて厚い紙皿とプラスチックスプーンが机に出しっぱなしになっていたのも、運命なんだろうか。


「召し上がってください、圭太さん」


 お玉で紙皿によそったものをプラスチックスプーンに乗せて、ふーふーと息を吹きかけてから、井上さんはおじやを俺の口に運ぶ。


「……美味しい」


 何日も食べてない胃袋に優しい、染み渡るような味だった。

 それがなんだか嬉しくて、まるで風邪を引いたときに母親がそうしてくれたことを思い出して、懐かしくて。


「……っ……!」

「悲しいのなら、私の胸で泣いてください。圭太さん。あの女ほどではありませんが、揉める程度にはありますので」

「……なんのアピールだよ……」


 苦笑する余裕もなく、俺はただ、その言葉と優しさに甘えて涙を流した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る