第2話 氷の雪姫

 千佳に浮気されて、一方的に縁を切られてから一週間。

 俺は学校にも行かず、ただ部屋に引きこもっていた。

 こんなとき、一人暮らしだと便利だよなあ。親になにしてるのかって聞かれないから。


 それを口実にして千佳とも半分以上同棲状態だったっけ。

 思い出すと吐き気と涙が込み上げてくる。

 千佳の私物はもうこの部屋にはない。


 俺が途方に暮れている間に引き払ってしまったのだろう。

 高校になったら自立して一人暮らしがしたいと見栄を張って、その実千佳と二人きりの時間を過ごしたかっただけだなんて、きっと両親にもバレてたんだろうな。

 帰ったとき、どんな顔をして会えばいいんだろう。


 そもそも俺は、これからどう生きていけばいいんだろう。

 千佳のいない毎日なんて想像もできない。

 千佳が隣にいない学校生活なんて、とてもじゃないけど堪えられる気がしない。


 それほどまでに好きだったんだな、と思う。

 素朴で、純粋で……危なっかしいところもあったけど、いつも「大丈夫だよ」って笑っている千佳が。

 だから、今回だってそう笑ってくれると──なにもかも手の込んだ芝居だったと笑ってくれるんだと、心のどこかでは信じていたのかもしれない。


 でも、そんなことはない。

 そんなことは、ないんだ。

 抜け殻になったこの部屋が物語っている。


 千佳の痕跡が、生活の痕がなくなった、一人で住むには若干広すぎるこの部屋が。


「……なんでだよ、どうしてだよ、千佳……」


 虚空に問いかけたところで、答えが返ってこないのはわかっている。

 それでも、考えずにはいられなかった。

 どこで間違えたのか、どこだったら間に合ったのか、どうしていたら間違えなかったのか、どうしたら、失わずに済んだのか。


 千佳のぬくもりが恋しい。

 千佳の言葉が恋しい。

 千佳の、全てが。


「……全部、好きだったんだよ……」


 裏切られた悲しさよりも、男としてあの先輩に負けていた悔しさよりも、もう二度と千佳との時間が帰ってこないという虚しさが、心を押し潰していた。

 いっそ、飛び降りてしまえば楽になるだろうか。

 失った恋を想って苦しむことは、なくなるはずだから。


 ベッドから這い出て、ベランダに向かおうとしたそのときだった。

 ぴんぽーん、と間抜けな呼び鈴の音が俺を呼び止める。

 一体なんだよ、こんなときに。


 無視してベランダに向かおうと背筋を伸ばすと、ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん、と小学生みたいに呼び鈴が連打される。


「うるせえ! 小学生か!」


 うちのマンションはオートロックだから近所の小学生が入り込む余地などどこにもないのだが、だったらどこの誰だというんだ。

 これで新聞勧誘だったり押し売りだったりした日にはクレームの電話を本部にかけ通してやる。

 死にたい一心だった胸の内に怒りの火を灯してドアを開けると、そこに立っていたのはクラスメイトの女子だった。


「やっと開けてくれましたね」


 腰まで伸びた黒髪を風に靡かせながら、切れ長の碧眼を細めてその女子は──クラス委員長の井上雪音はそんなことを宣う。

 浮世離れした美少女という言葉がよく似合う、クールでミステリアスな雰囲気を漂わせている井上さんは、俺のクラスの委員長だ。

 その手にプリントの束を持っている辺り、担任の差し金だろうか。


「……井上さん、悪いけど今俺は人に会いたい気分じゃないんだ。プリントなら置いてってくれないか」

「そうはいきません。廣瀬先生から貴方の様子を見てきてほしいと頼まれているので」


 事務的に、真顔で淡々と井上さんは答えた。

 やっぱり廣瀬先生の差し金だったか。

 あの人は他人に関心がない割にお節介を焼きたがるんだから困りものだ。


「積もる話もあることですし、上がってもいいですか」

「俺の方はないんだよなあ……」

「私にはありますので」


 三和土でローファーを脱いで、返事を待たず強引に井上さんは部屋に侵入してくる。

 膝丈まできっちりと整えられたプリーツスカートは、七分丈まで絞っていた千佳とは対照的だったけど、妙に押しが強いところはよく似ていた。

 そういえば、千佳以外の誰かをこの部屋に上げたのは初めてだったな。


「男の人の部屋にしては整頓されていますね」

「とりあえず物色するような目で見るのはやめようか」

「……本当にもぬけの殻になっているとは思わなかったので。薄情者め」

「井上さん?」

「いえ、なんでもありません」


 なにか忌々しいものを見てしまったかのように呟いた井上さんの言葉を、俺はどう受け止めていいかわからなかった。

 というか、井上さんは思ったよりも喋るんだな、と思うぐらいには彼女のことを俺は知らない。

 接点はただ一度、井上さんが教科書を忘れたときに貸してあげたぐらいだ。


「話は噂程度ですが伺っています」

「……なら、ほっといてくれよ」


 お茶でも出そうかと思ったけど、井上さんがその話を切り出してきたことで、そういう気分じゃなくなった。


「……つらかったでしょう、悲しかったでしょう、圭太さん。私なら、貴方にそんな思いはさせないのに」


 そんなささくれ立った心にそっと絆創膏を貼り付けるかのようにぽつりと呟いた井上さんのことが、俺にはやっぱりわからなかった。

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