第3話 天才(ジーニアス) その1
モノトーン調の家具が並ぶ部屋に、ノートパソコンのタイプ音が、リズミカルに響く。
「こんなモノ、かしらね……」
【
程よく混ざりあった苦味と甘味、ミルクのコクが、大学の論文作成で疲れていた脳を癒してくれる。
開けた窓から、心地よい春風が吹いた。
真知恵が時計を見ると、二時半だった。
――予選2日目……か
真知恵は唇に薄い笑みを作る。
――今年は面白い子が来るの良いのだけれど……
家政婦から借りたドストエフスキーの小説、その続きを読もうと、デスクチェアから腰を上げた……その時――
「姉貴!姉貴ィーー!!」
廊下を走る足音と無遠慮な叫びに、真知恵は溜め息を吐き、開きかけていた小説を閉じて本棚に戻した。
ノックも無しに、真知恵の自室のドアが開かれた。
入って来たのは、癖のある長い茶髪をポニーテールに結わえた、少女だった。
少女の名は【
真知恵の妹だ。
「姉貴ってば!」
「……そう怒鳴らなくても、ちゃんと聞こえてるわよ」
真知恵は呆れた目で、肩で息をする我が妹を見る。
「しのぶ……貴女もう19なんだから、もう少し慎ましさというものを……」
「説教は見るモン見てからにしてくれよ!」
しのぶが、がっきと真知恵の腕を掴み、引っ張った。
幼少期から、こうなると、妹は梃子でも離れない。
真知恵は渋々、妹に従うことにする。
「……はいはい」
……と、真知恵は呆れてはみたものの……。
こうしてしのぶに手を引っ張られると子どもの頃を思い出すので、真知恵は決して嫌ではなかった。
※※※※
「ちょっと……なにごと?」
真知恵がリビングに入ると、中々に珍しい光景が広がっていた。
家の使用人たちが皆、リビングに集合してテレビを観ていたのだ。
庭師も窓から身を乗り出して、テレビを凝視している。
誰も彼も、苦虫を噛み潰したような、険しい表情だった。
「皆、どうしたの?何の騒ぎ?」
「ああっ、真知恵御嬢様!」
使用人たちが、一斉に真知恵を見る。
「コレ……いや、コイツさ!」
しのぶがテレビ画面を指差した。
真知恵は、しのぶの指先を目で追い、テレビ画面を見――
!!!!!!!
心地よいエキゾースト音と共に。
銀色の光が、真知恵の視界を駆け抜けた……!
「……!」
銀色のマシンが、走っていた。
銀灰色の……ホンダNSXが……ヘアピンコーナーを滑るように
瞬間、真知恵の意識は、そのNSXに釘付けとなる。
……羽でも生えているようだった。
無邪気な……天に昇りそうな走り。
速く、ライン取りも完璧。
そのセンス、洗練されている。
洗練されてはいる、が……。
『ゼッケン50月美 紗々!マシンはホンダNSXタイプS!たった今ゴールイン!暫定1位志奈村 しのぶと……わずか0.3秒!0.3秒のビハインド!月美 紗々!予選タイムアタック2日目、暫定2位でゴールインッッ!!』
「良かった……!しのぶ御嬢様の方が速かった……!」
実況アナウンサーの興奮気味の声と、使用人たちの安堵の声がミックスする。
「クソォッッ!!」
突然、しのぶが忌々しげに、己の左掌に己の右拳を叩き付けた。
パシッ、と乾いた音が、三十畳のリビングに響き渡る。
「何なんだよ!この月美 紗々とかいうヤツは!?知らないぞこんなヴァルキリー!?チョコみたいな名前しやがって!ポッと出の新人のクセに!このアタシが……この一年姉貴に反吐も出尽くすほど
驚き、混乱、怒りが収まらないしのぶは、何度も何度も自分自身にフラストレーションを当て続けた。
「でも!しのぶ御嬢様!」
しのぶと同年代の家政婦が、そんなしのぶを見かねて挙手をする。
「0.3秒でも!勝ちは勝ちですよ!しのぶ御嬢様の方が速いんです!」
「嬉しいコト言ってくれるけどもミキちゃん……!アタシ自身もそう思って……安心しようとしてる所があるんだワ!……そんな自分が余計ムカつくんだワァ!!」
「しのぶ御嬢様ァ……」
しのぶのフォローに失敗した家政婦の少女は、落胆して項垂れた。
しのぶのフラストレーションは止まらない。
「ああクソッ!こうしちゃいられない!姉貴!今からでもシミュレーションで稽古付けてよ!それか大会運営に申請出して、何処か峠を閉鎖して貰って実践を……」
「必要無いわ」
即答する姉の声が、恐ろしく冷ややかで、しのぶは反射的に身を正す。
真知恵は顔をテレビ画面に向けたまま、氷の視線だけをしのぶに流した。
「しのぶ、貴女の運転技術に問題は無いわ……。敢えて言うなら……その余計なくらい直ぐ熱くなる性格をどうにかなさい」
「ぐ……姉貴、それは言わない約束……」
しのぶもまた、家政婦の少女と同じ様に項垂れた。
真知恵は視線もテレビに戻す。
『いやぁどうですか土屋さん?先ほどの走り!』
『……痺れたね!こんなシブいドリフト見たのは久しぶりだよォ!新人さん、紗々ちゃんだっけ?期待しない方がバカでしょ!』
NSXの走行が、ダイジェストで流れる。
真知恵は映像から視覚と聴覚で観測し得るNSXの全てを、脳に叩き込む。
ラインの取り方、タイヤの動きからステアリングを切るタイミングを、エンジンの唸りから出力を、スキール音から、搭乗ヴァルキリーのタイヤマネジメントの技能を。
あのNSXの走りをデータ化し、記憶に刻み付けた。
「あ~~!土屋さんに褒められてる!何だよアイツ羨ましい!!」
しのぶが悔しげに地団駄をふんだ……その時。
真知恵のスラックスデニムのポケット内で、スマートフォンが震えた。
取り出して、画面を見ると、見知った人物からだ。
真知恵はテレビから目を離さず、スマートフォンの通話機能を起動する。
「……もしもし?耕一?」
『真知恵、お前のマシン……セッティングが終わったぞ』
真知恵の薄い唇が、微笑に歪む。
「今から向かうわ」
『急がなくて良いぞ?大学の論文は?』
「もう終わったわよ」
『そうか、ならトイボックスで待ってる』
「ええ……」
通話を切ると、真知恵は再びテレビを見遣る。
NSXの運転席のドアが開いて、一人の少女が姿を見せた。
身長は一六〇センチメートルかそこいらだろう。
NSXのボディーカラーと同じ、銀灰色の……腰まで伸びた長い髪。
白い肌に汗を滲ませ……。
銀色の円らな瞳を震わせながら、カメラに向かって礼をしていた。
『それでは月美さん!テレビの前のヴァルキリーファンに何か一言!』
『えっと……月美 紗々です。ヴァルキリーとして精一杯頑張ります。応援宜しくお願いします……』
テレビ慣れしてない、初々しいコメントだ。
豪胆なドリフトを披露しておきながら、それをひけらかしもしない、柔和な所作。
「……!」
瞬間、真知恵の背筋を、甘い痺れがはしった。
何故かは、真知恵本人にも、分からなかった。
続く
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