第2話 秋風よ、契りを紡ぎ

夜の山間に、ひとすじの月明かりが差し込んでいた。

「お前は、王女なのか。」


青龍の低く響く声が、冷たく澄んだ空気を震わせた。

「そうよ、小さい国だけどね。」


鳳華は振り返り、微笑む。その表情には、どこか誇らしげなものがあった。


「王女がこんな山奥を歩き回るとは、奇妙な話だな。」


青龍が皮肉を込めて呟く。だが、鳳華は気にも留めず、一歩足を踏み出した。

「ほら、見て。」


彼女が指差す先には、赤や黄色に染まった木々が揺れる光景が広がっていた。地面には無数の枯葉が敷き詰められ、月の光を浴びて淡く輝いている。


「洞窟を出れば、こんな四季が見られるのよ。」


鳳華の声は穏やかで、どこか心をくすぐる優しさがあった。


「ここは確かに冷たいけど、秋にはこんなに鮮やかな景色が広がるわ。紅葉や銀杏……色とりどりで綺麗でしょう?」

「ね、あなたも試してみてよ。」


鳳華が笑顔を向ける。その表情には、無邪気な誘いが込められていた。


一瞬の静寂が訪れる。そして――

「仕方ない。」


青龍の声が低く響き、次の瞬間、彼の身体が青白い光に包まれた。
その巨大な鱗に覆われた姿は縮み、鋭い爪が消え、代わりに人の形が月明かりの中に現れる。


鳳華は目を丸くした。
「……本当に変身できるんだ。」

青龍の人の姿は、銀白色の衣をまとい、腰には青い鱗模様の帯が巻かれていた。長い白銀の髪が風に揺れ、その鋭い瞳には冷たい青が深く宿っている。


「これでいいのか?」


彼は静かに尋ねると、足元に目を向け、一歩踏み出した。

銀杏の葉が「カサリ」と音を立てる。

「……これが音か。」


彼は静かに呟いた。その声には、わずかな驚きが込められているようだった。


「そうよ。全部違う音でしょ?」


鳳華は再び笑顔を浮かべ、彼の隣に並ぶ。そして足元から一枚の銀杏の葉を拾い上げた。


「秋って、こんな感じなの。外に出ないとわからないわよね。」

青龍は短く息を吐いた。


「くだらないものだと思っていたが……悪くない。」


二人は並んで歩き出した。夜風が木々の間を吹き抜け、散りゆく葉が舞い上がる中、足元の音がまるで小さな旋律のように優しく響いていた。


それからの日々、青龍は毎日鳳華と一緒に過ごしていた。


草薬を摘み、青稞を育て、夕焼けを眺める。時には医術を学び、鳳華と一緒に困っている人々への治療法を考えることもあった。


「こうすれば薬が効きやすいんじゃない?」


「なるほど。人間の身体ってややこしいものだな。」


そんな他愛ない会話を重ねながら、二人は忙しくも充実した時間を過ごしていた。


ある日、紅景天を一緒にすり潰していた時のことだった。
外から慌ただしい足音が響き、扉が力強く叩かれる音が鳴り響いた。


「王女様!」


息を切らせた一人の女性が、赤子を抱きかかえながら駆け込んできた。その目には焦燥と涙が浮かび、声は震えていた。


「この子が……生まれたばかりなのに風邪を引いてしまって、どうしても良くならないんです。それだけならまだしも、昨夜からひどく咳き込み始めて……血まで吐くようになってしまいました……!」


女性はその場にひざまずき、赤子を守るようにしっかりと抱え込みながら、必死に訴えた。


「王女様……お願いです。この子を助けてください!」


その声に、鳳華の表情がわずかに険しくなる。


「見せて。」


鳳華は静かに歩み寄り、赤子を覆っている布をそっとめくる。赤子の顔は小さく青白く、かすかな呼吸が聞き取れるだけだった。
彼女は冷静に赤子の額に手を当て、次に喉の腫れや胸の音を確認した。


「……体がすごく冷えてる。風寒が肺に入ってしまってるわ。」
その声は冷静だったが、わずかに深刻な色を帯びていた。


一方、青龍は隣で静かにその様子を見守っていた。


「そんなに小さな体で……人間というのは本当に脆いな。」


低い声で呟く彼の瞳には、わずかながらも複雑な感情が揺れていた。


鳳華は短く息をつき、赤子の母親に向き直った。


「安心して。私にできる限りのことはするわ。ただ、少し時間がかかるかもしれない。」


その言葉に、女性は何度も頭を下げながら「ありがとうございます……!」と泣き崩れた。


赤子の呼吸は徐々に弱まり、その小さな体が冷たく硬直していくかのように見えた。


鳳華はそれを見つめながらも、微かな希望を探して奔走し続けていた。


夜が更け、朝が来る。彼女は一瞬たりとも眠らず、薬草を調合し、布を湿らせ、何度も赤子の額に手を当てた。


やがて、日が傾き始めた頃、赤子の母親のすすり泣く声が静かに響き始めた。


「どうか……お願いです……。」


鳳華は唇を噛み、震える手で赤子の額を拭い続けていたが、次第にその目には深い疲労が滲み始めていた。


「もういい。」


その時、青龍が低く重い声で口を開いた。


「鳳華。」


彼はゆっくりと歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。その瞳には、どこか冷たさと優しさが混じっている。


「お前、本当にこれ以上、見ていられるのか。」


鳳華は顔を上げた。疲れ果てた瞳には、なおも希望の光が宿っていた。


「……私は諦めない。」


その言葉に、青龍は短く息を吐き、静かに続けた。


「ならば――わしと契約を結ぶか?」


鳳華は一瞬、目を見開き、戸惑いながら問い返した。


「契約……?」


「そうだ。」
青龍は目を細め、低い声で続けた。



「そうすれば、お前はわしの力を使うことができる。この子を救うことも――できる。」


「……そんなこと、本当に……できるの?」
鳳華の声には、かすかな希望と疑念が混じっていた。


「簡単なことだ。ただし――」
青龍は鋭い瞳で彼女を見据えた。
「わしの存在を、外の人間に知られてはならない。それが条件だ。」


「それだけ……?」
鳳華は目を細め、静かに問いかけた。
「私が失うものは……?」


青龍は少しだけ笑みを浮かべた。


「失うものなど何もない。たが――」
その表情は次第に険しくなり、低い声が彼女に向けられる。


「人間というものは、欲望に流されやすい。お前が言葉を漏らさずとも、この契約はお前に大きな傷を与えるだろう。それでも、お前は選ぶのか?」


鳳華は答えを迷うことなく、静かに頷いた。


「……もちろんよ。もしこの子が救えるなら、それで十分。」

青龍は短く息を吐き、深く頷いた。


「ならばよかろう。」


その時、鳳華はふと笑みを浮かべた。


「ねえ、もう一つだけお願いしてもいい?」


「なんだ。」


「私だけじゃなくて、これからの王女たちとも契約してほしいの。私がいなくなっても、あなたが一人にならないように。ねえ、また誰かと一緒に、世界を見に行ってくれる?」


青龍はしばらく黙り込み、瞳を閉じた。


「くだらない。」


そう呟き、再び目を開いた時、その中には柔らかな光が宿っていた。


「だが、よかろう。」

鳳華は笑顔を浮かべ、そっと赤子の額に手を置いた。


「ありがとう。」


青龍の力で赤子が治癒された。母親は何度も礼を言い、涙ながらに子を抱きしめた。

その場の人々は王女の力を称賛し、鳳華の存在を「奇跡」と信じた。


だが、青龍は静かに呟いた。

「人間とは愚かなものだ。力を知れば、次に求めるのは――」

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