青龍と鳳華
栗パン
第1話 白銀の眠り、君を待ち
遥か昔、天地が創られた時、四つの神獣が世界の均衡を司る使命を授けられた。
朱雀は炎熱の南を守り、白虎は静寂の西を統べ、玄武は神秘に満ちた北に住まう。
そして青龍は、白銀の雪原に覆われた極寒の大地に眠る。
伝承にはこう記されている――
青龍は「純粋なる信念」を抱く者にのみ、その力を授ける、と。
だが、その「純粋さ」とは一体何なのか。
青龍自身ですら、その答えを見いだすことはできなかった。
かつて、青龍は長き悩みの果てに決めた。
東の雪山の深奥へと身を隠し、氷の棺に自らを閉ざすことを。
そして、再び人間が自分のもとにたどり着く日を、静かに待ち続ける道を選んだ――
長き眠りの中で、遠く微かな祈りや欲望の声が幾度も届いていた。
それらはいつも混じり気のあるもので、わしが目覚めることはなかった。
だが、このとき――静寂を裂く声が、突然洞窟に響いた。
「……これか。」 少女の声だった。
彼女は足元に広がる雪を軽く払いつつ、洞窟の奥に咲く一輪の花を見上げていた。
それは、氷壁に閉じ込められるように咲く雪蓮。
青白く輝く花弁は、凍てついた月光を映し出したように透き通り、その根元には細かな氷の結晶が静かに絡みついていた。
少女は手を伸ばし、その花にそっと触れた。
指先に伝わる冷気が手袋越しにまで沁みる。鋭い冷たさに一瞬だけ指が強張ったが、彼女は表情を変えず、慎重に雪蓮を摘み取ろうとする。
「これさえあれば、きっと……!」
小さく呟いたその瞬間――洞窟全体が低く唸りを上げた。
「誰だ……貴様!」
雷鳴のような声が洞窟内に轟き、巨大な体が氷の奥からゆっくりと動き始めた。
目の前に現れたのは青龍――まるで山そのもののように大きく、全身を覆う青白い鱗が冷たい光を放っている。
少女は声の主に目を向けると、少しだけ眉をひそめた。
「うるさいわね……」
そう小さく呟くと、雪蓮の摘み取りを再開する。
「待て!」
龍が鋭く咆哮すると、その瞳が改めて少女の姿を見据えた。
頭には雪を思わせる柔らかな白い毛皮の冠があり、青い水晶が縫い込まれた飾り紐が横に流れている。顔の下半分は薄い絹物で覆われ、目元だけが見えるが、その瞳には疲労の中にも鋭い意志が宿っていた。
白を基調とした長いドレスは軽やかで、歩くたびにふわりと揺れる。腰に巻かれた羽飾りが静かに音を立て、衣のあちこちに刺繍された鳥と花の模様が、生命の気配を漂わせていた。
少女の装いは、冷たい光の中で一層際立っていた。
青龍は苛立ちを露わにし、地面を軽く踏み鳴らした。それだけで、洞窟全体が震えた。
「お前はわしの眠りを妨げただけでなく、このわしの守る雪蓮に手を伸ばした……その意味が分かっているのか?」
少女は振り返り、無表情のまま短く答えた。
「知らないわ。」
「知らないだと?」
青龍は、そのあまりに素っ気ない返答に、一瞬言葉を失った。鋭い瞳が僅かに見開かれるが、すぐに怒りを込めて低く唸る。
「お前、このわしを誰だと思っている!」
すると、少女は淡々と肩をすくめながら答える。
「ただの大きな龍でしょう?そんなことより、この雪蓮、どうしても必要なの。」
そう言うと、再び花に手を伸ばした。
「なんだと!?」
青龍はその言葉に完全に呆然としながらも、威圧的に問いかけた。
「お前、人間ごときがわしに逆らうというのか?わしの力を恐れないのか?」
少女はその言葉に耳を貸さず、再び雪蓮を摘み取ると、丁寧に布に包んで背負った。 「そんなこと、どうでもいいわ。」
振り返ることなく洞窟を出ようとする彼女に、青龍はなおも声をかける。
「お前、名を言え。」
少女は一度立ち止まり、小さく振り返った。
「鳳華。」
そして再び前を向き、歩き出す。
次の日、また次の日、また次の日――鳳華は再び洞窟を訪れた。
時に雪蓮を探し、時に青龍をからかうように話しかける。
青龍はその度に苛立ちながらも、彼女の言葉を聞き流すことができなかった。
洞窟の静寂は、いつしか微かな命の鼓動を宿し始めていた。
雪蓮を手に取るその姿は、初めこそ乱暴にも見えた。
だが、鳳華はその花を傷つけることなく、むしろ大切に扱う手つきに、嘘偽りのない敬意が感じられた。
彼女は花を使い、傷ついた者を癒し、倒れた旅人に手を差し伸べていた。
その背中には疲労と痛みが滲んでいたが、それでも歩みを止めることはなかった。
「……本当に、人間とは妙な生き物だ。」 青龍は氷壁の奥から低く呟いた。
目の前の鳳華が何かを証明しようとしているようなその姿に、いつしか目を奪われていた。
そして、気がつけばこっそりと助けの手を差し伸べている自分がいた。
吹雪の中で花が見つからないとき、氷柱の影に咲いた雪蓮を彼女の近くに落とし、旅人を守るように雪山の荒れた風を一瞬だけ和らげる。
「別に助けてやったわけではない。つまらないことに巻き込まれるのが嫌なだけだ。」
そんな言い訳を呟きながらも、青龍の視線はいつも鳳華のそばを追っていた。
ある日、鳳華はふと立ち止まり、青龍の眠る洞窟を見上げた。
静寂の中、彼女の声が響く。
「聞いているんでしょう?」
その瞳は氷のように冷たい光を帯びていながらも、不思議と穏やかだった。
「外の世界は荒れているけれど、一緒に外に出てみない?」
その言葉に、青龍は一瞬きょとんとした。
「……何?」 低い声で問い返す。
「だって、ずっとここに閉じこもってるんでしょう?」
鳳華は振り返りもせず、洞窟の外を指差した。
「たまには外の空気を吸って、景色でも見たほうがいいわ。きっと楽しいわよ。」
「楽しい……だと?」
青龍は呆れたように鼻で笑った。
「お前、わしを誰だと思っている?人間の気まぐれに付き合うほど暇では――」
「ええ?ーー暇はたっぷりあると思うけど。」
鳳華は軽い調子で言い放つと、ちらりと振り返り、にやりと笑った。
「まあいいわ、気が向いたら外で待ってるから。」
青龍はその背中を黙って見送りながら、小さく息を吐いた。
「外の景色だと……。くだらない。」
そう呟きながらも、胸の奥には微かな好奇心が芽生えていることに気づいていた。
次の日、また次の日、また次の日――鳳華は再び洞窟を訪れた。
「まだ出てこないの?外は面白いものがたくさんあるのに。」
「うるさい。出ていけ。」
そんなやりとりが繰り返される中、洞窟の静寂はいつしか微かな笑い声で満たされ始めていた。
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