恋文

雨森灯水

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 まず、これからの文章が拙いものであることをお許しください。私は、貴方に伝えたいことがありまして、いま、走り書きをしている最中なのです。字が読めないかもしれませんが、意味が上手に伝わらないかもしれませんが、お許しください。貴方のための、この手紙なのです。

 どうして貴方に手紙を書くか、などお聞きにならなくてもお分かりでしょう。私は、貴方のせいで弱くなってしまったのです。何もできない、惨めな女になってしまったのです。これは、貴方のせいです。貴方が私の隣にいらっしゃったから、私は貴方に毒されたのです。私は、貴方とならば、結婚しても良いとさえ思いました。思いましたが、私は、貴方とお別れいたします。

 貴方と初めてお会いしたのは、僅かながら一年前の事です。私はつらい事がありまして、公園で泣いておりました。目の前で、小さな子供が遊んでおりました。人目も気にせず泣いている、そんな私に、大丈夫ですか、と声をかけてくださったのが、貴方でした。私は、貴方に恋をしました。貴方に会うために公園に行きました。貴方はいらっしゃいました。私は貴方のために生きているようになりました。その日々が幸せであったのを、よく覚えております。人は恋をすると、単純という言葉より単純になります。馬鹿で、滑稽で、愚かにさえなります。人はそう言って笑いますが、本人にとっては一大事なのですから、もっとたちが悪い。私の母も、姉も、弟も、貴方のことを悪く言い、私を軽蔑しておりました。なぜなら、公園に通う私が愚かに思え、またそんな私の姿を見て、きっと貴方も同じような人間なのだろう、と考えたからです。家族の者は貴方という存在があることしか知らないのですが、恋愛となると全てが滑稽に思えるらしく、恋をする人、恋をされる人、全てを嫌います。唯一、父だけはそうでなかったのですが、数年前に亡くなってしまい、私が恋をしようものなら、誰もが反対をするのは目に見えておりました。私は、恋をしない姉や弟の方が余程滑稽に思えます。一体、何が正解なのですか? 恋をしてはいけないなど、そんなはずはありません。恋というものは、生きているものに与えられた特権です。誰かを好むこと、それがどれだけ特別なことか、私たちは忘れています。きっと、本当に馬鹿なのです。滑稽で、愚かで、仕方がないのです。

 私の事を気にかけてくださって、私の帰り道の途中まで、一緒に歩いてくださった事、今も覚えております。空が夕焼け色に染まると、貴方は帰りましょうと仰って、私の手を引いて公園からの帰り道を歩きました。あの時の、他愛もない話。余りにも多かったですから、忘れてしまったものも多いですが、確かに覚えているものもございます。例えば、貴方の好きな食べ物は蕎麦で、蕎麦の上に乗っている葱が特に好きだとか。あの時、私は意味が分からないと言って笑ってやりました。今も、そんなものを好むのは貴方くらいだと思っておりますが、しかし、私も、蕎麦の上の葱をより美味しく感じるようになりました。これが、恋というものです。人の全てを惑わすのです。私は思います。恋というものは、この世で最も恐ろしい凶器なのではないか、と。人をいちばん殺しているのは、恋だと思います。人を魅了し、心酔させ、幻覚を見せて、不幸のどん底に落として殺していく。それでも人は恋をするのですから、本当に呆れます。

 それと、隣に人がいるという温かさを知ってしまったのは、とても重大な出来事だったと、今も感じております。私は、生涯ひとりで生きていくことを覚悟しておりました。それは、この贅沢をしたと分かってしまうような体と、何とも言えない程度に崩れた顔と、可愛げのない性格が、愛されるはずがないと信じていたからです。それでも、こんなものでも愛してくださる、悪く言ってしまえば、物好きな貴方に出会えたからこそ、私は隣の温かさを感じる事が出来ました。誤解のないように言っておきますけれども、私は強い女でした。ちゃんと、強かったのです。貴方がいなくとも、隣が凍りついていても、まっすぐ生きていこうとしておりました。貴方などいなくたって、いえ、もう既に、そのような事は言えません。とにかく、貴方が溶かしてくれた事で、隣というものがあった事を、恥ずかしながらその時知ったのです。隣は勝手には凍りませんから、ずっとその空間が気になるのです。氷で埋められていた空間が、急に虚空になりますから、本当に、悲しくなります。虚しいです。貴方には、この責任を取れ、などと無責任な事は言いたくありません。しかし、私ではどうしようもありません。例の如く、私が自分でどうにかせねばならぬ事は、必ず私ひとりではどうしようもない事でございます。ひとりでは埋められないものを、ひとりで埋めるしかないのです。

 いつからか、私も貴方も、互いが常に近しい存在になっておりました。隣に貴方がいることを、当たり前の事だと勘違いしてしまっていたようなのです。ああ、愚かなことよ。当たり前な事ほど、宝物のように扱わねばならないのです。私も、貴方のおかげで、知る事が出来ました。貴方は、以前のように手を引こうとはしてくださいませんでした。もしかしたら、と縁起の悪いことを考えてしまいました。ええ、そうです。貴方は当たり前がそこにあって当然と、勘違いしたままだったようですね。きっと、貴方も私の事を愛してくださっていたことでしょう。しかし、貴方は、その愛情を向ける対象が消えてしまった時、貴方はどうするおつもりだったのでしょう。そこに何もなくなってから、どうにかしようなどお考えになっても、無駄です。どうせ、何もない事にすら気がつけません。貴方は、私よりも大事なものがあるのでしょう? そうです、周りの目です。本当に目を向けたかったのは、そちらなのでしょうが、あまりにつらいものだから、と、私に逃げてきたといった所なのでしょう。それでも、貴方は周りを気になさって、私と歩く時も人目のつかない場所をお選びになっておりましたね。ええ、分かりますとも。貴方の、そのような所には非常に呆れてしまいました。むしろ、愛おしい程です。

 貴方は、好きだとか、愛してるだとか、そんな言葉をお使いにはなりませんでした。それは私も同じです。勿論、私達はお付き合いをしていた訳でもございませんから、きっとそれが当たり前なのでしょうけれど、少なくとも、行動が愛情に満ちておりました。私はそれを分かっておりましたから、ちっとも苦しくなどありませんでした。いえ、それを分かっていたからこそ、貴方の気持ちを仰ってほしかったのです。それがどうにも苦しくて。私が貴方に対して、その愛情の返事をしようとしますと、貴方は決まって素っ気ない態度をお取りになります。私はその度に、恥ずかしくなります。顔から火が出ていたって、不思議ではありませんでした。貴方からそのような言葉を求めれば求める程、貴方は素っ気なく、私の事をぞんざいに扱うようになりますから、私は一種の、中毒のようになっておりました。一度も摂取したことの無い、貴方からの愛情というものを、欲しくて欲しくてたまらないのです。結局、貴方はそれをくださることはございませんでしたね。それが普通です。普通なのです。可笑しいのは私なのです。それは、間違いないのです。はい、貴方を悪者になんてしたくはありません。そうなんですけれども、私は、貴方を悪者にしていないと苦しくなってしまうのです。どうか、お許しください。

 きっともう、最初からお分かりになっていると思います。私は、貴方のせいで、おかしくなってしまったのです。貴方とお別れしなければ、私は狂人になってしまうのです。私は、そんなのは嫌です。貴方が生きているうちは、必ず美しいままでいたいのです。ええ、愚かなことですね。しかしこれも、貴方のせいなのです。私は、強い女です。貴方が愛していなくても、生きていきます。貴方はいかがでしょう、私が欲しくてたまらなくはなりませんか? いえ、きっと、ならないでしょう。私たちの関係なんて、所詮お遊びだったのです。浅はかだとお思いですか? 私は心底思っております。

 お忘れにならないでいただきたいのは、私は貴方のことを、今までも、これからも、ずうっと愛していくということです。貴方は弱いお方です。誰かからの愛情がなければ、死んでしまいます。愛されるのを恐れておきながら、愛されたいと願っております。私には分かります。貴方は弱い。弱いから、愛してやりたくなるのです。きっと、本当は私も弱いのです。誰かを愛していないと、死んでしまいます。愛するのを恐れておきながら、愛したいと願っております。私も、貴方も、愛情が怖くて仕方ないのです。本当は、貴方と結婚したいと願っておりました。心の底から、貴方と共に生きていきたかった。貴方の温かい目で、私を包んでほしかった。しかし、それは私にも、貴方にもできません。お互い、弱いですから。好きなように嘲笑っていただいて構いません。私は、恋をする事も、恋をしない事も、出来ないのですから。そんなもの、存在する価値も無いですよ、と沢山笑ってくださいな。

 こんなにも長く、手紙を書いてしまったこと、お許しください。これは貴方と話が出来る最後の日だと思っているものですから、どうしても長くなってしまうのです。二度と、貴方にお会いすることはないでしょう。しかし、もしもの話でございます。もし、私も、貴方も、愛情を恐れない強いお方になったなら。その時は、どうか、どうか、結婚していただけないでしょうか。

 私は、貴方を、愛しております。どうか、お元気で。

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恋文 雨森灯水 @mizumannju

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