6. 温かい

 階段を上りきると狭い踊り場に到着し、そこに鉄製の重い扉がある。ノブを回してギイッと力を入れて押すと、陽光が目を刺した。


「けっこう遠くまで見えますね」


 ヤナは、目の上に手をかざし、周辺を見渡す。


「そう?」


 わたしは歩み出て塔の端に肘をかけると、下を覗き込んだ。

 塔を丸く囲う、高い塀。唯一の出入り口である門。これらを見るのも嫌な気分になる。

 お前を絶対にここから出さない、という意思が感じられるからだ。


「たまには、ここでお食事するのもいいんじゃないですか?」


 ヤナがふいにそんなことを話し始めたので、そちらを振り向く。


「食事?」

「はい、ピクニックみたいじゃないですか。割と広いし、開放感がありますよ」


 部屋一室分と階段の幅だけの広さ。そこに今入ってきた扉が付いた小さな塔があるだけの場所。


「別に、そういうのはいいわ」

「三人で一緒にピクニック、いいと思うんですけど」

「気が向いたらね」


 適当に答えると、わたしはまた扉を開け、階段を下りる。

 とりあえず案内は済ませたし、もういいわよね、と三階に入ろうとすると、ヤナが引き留めてくる。


「お嬢さま、どちらへ?」

「え? 部屋に帰るけど」

「兄さんが一階で待っています」

「待っている?」


 ヤナを連れてきて、そのままわたしを任せていなくなったカレルが、待っているとはどういうことか。


「だから行きましょう。さっ、早く」


 だからってなに。と考えている隙に、ヤナがさっさと階段を下り始めた。

 反論する元気もなくて、まあいいか、と大人しく一階に下りていく。


 一階に到着すると、第一の変人がこちらに駆けてきた。


「お湯の準備ができました。ヤナ、お嬢さまを隅から隅まで綺麗にして差し上げて」

「なんか嫌な指示しないで」


 反射的に駄目出ししてしまう。

 というか、ヤナを連れてくるだけ連れてきて、すぐに立ち去って、どこに行ったのかと思ったら、お風呂の準備をしていたのか。それで、『兄さんが待っています』なのか。


 きっと、わたしを早く洗いたかったのに違いない。

 そんなに臭いのかしら、と思わず自分の腕を顔の前に持ってきて、クンクンと匂いを嗅いでしまう。

 自分では特に臭いと思わないが、周りの人間にとっては臭いのだろうか。

 なにせ気にしたことがなかったから、わからない。


「わかりました、兄さん」


 ヤナは小さくそう返事する。

 カレルはうんうんと頷いて答えた。


「うん、ヤナに任せれば大丈夫だって信じているよ」

「信じられていなくてもやるので、黙ってください」

「辛辣ぅ」


 カレルはケラケラと笑い、ヤナは澄ました顔をしている。


「さあ、ではお湯浴みをしましょう」


 ヤナに背中を両手でぐいぐいと押され、浴室に連れて行かれる。

 調理場に続く扉の、その横の扉を開けると小さな脱衣所があり、その奥に浴室がある。

 もう長い間使っていないから汚くなっているだろうと思ったが、床も、猫足の浴槽も、小さな椅子も、綺麗なものだ。カレルが掃除していたのだろう。

 浴槽にはお湯が張ってあって、湯気が上がっている。ここに竈はないから、調理場でお湯を沸かしては、せっせとこちらに運んだのだろう。


 わたしのためにここまですることはないのに、とため息が漏れる。


「では脱いでいただきましょう。お手伝いしましょうか?」


 ヤナがそう声をかけてきて、わたしは首を横に振った。


「いえ、一人で脱げるわ」


 今着ているワンピースは、頭からすっぽり被っているだけのものだ。当然、逆も簡単だ。


「あら」


 わたしがさっさとワンピースを脱ぐと、ヤナは意外そうな声を出す。


「恥ずかしがって、なかなか脱がないだろうと思っていましたから、引ん剝く心の準備はできていたんですが」


 引ん剝くって。


「元々、子どもの頃は入浴を手伝ってもらっていたもの。そういうもの、って感覚だわ」

「それは助かります。そうですよね、公爵家のお嬢さまですものね」


 にっこりと笑うと、ヤナは一緒に浴室に入ってくる。

 小さな椅子にわたしを座らせると、お湯を流しながら髪を丁寧に櫛で梳いていく。


「……温かい」


 お湯なんて、いつぶりだろう。

 そして、髪を触られるのも、懐かしくて気持ちいい。

 ヤナは手を動かしながらも、わたしに話しかけてくる。


「あっちの屋敷に石鹸があったので貰ってきました。さすがは公爵家ですね。これは貴族に人気の高級品なんだそうですが、すぐに貰えました」

「へえ」


 わたしが望めば、たいていのものは支給される。きっとこの石鹸も、どうぞどうぞと譲ってもらえただろう。


 髪を洗われ身体を磨かれ浴槽に入る。本当に久しぶりだ。

 わたしがのんびりとお湯を楽しんでいる間は、ヤナは椅子や石鹸を片付けていた。

 その背中に声をかける。


「ところでヤナ」

「はい」

「あなた、カレルとは仲が悪いの?」

「え? いいえ」

「彼には素っ気ない態度をとっているように見えたから」


 すると彼女は小さく笑った。


「調子に乗るので」

「え?」

「私だって、普通の人にはちゃんと接しますよ。でも兄にだけは素っ気なくしているんです」

「どうして?」

「兄に好きだという態度を見せると、人目も憚らず抱きつこうとしたりするし、着替えをさせようとするし、髪を結おうとするから、見せないようにしているのです」

「なるほど」


 以前カレルが言っていた、『あんなに可愛かったのに、いったいどうしてこうなったんでしょう』という疑問の答えは、カレルの行き過ぎた愛情表現のせいだった、というわけだ。


「でも、お互いがお互いを好きだということね」

「そうなりますね」


 照れもなにもなく、あっさりとそう認めてくる。


「とはいえ、世間では兄妹がベタベタ引っ付くのはおかしいことですから、私から距離を取るようにしています」

「ふうん」

「つまり私は、兄さんよりは常識人ですので、安心してください」

「確かに」


 自然と、クスッと笑いが漏れた。

 するとヤナは何度か目を瞬かせたあと、口元に笑みを浮かべる。


「笑ってくれてよかったです」

「いや……これは……」


 改めてそう言われると、照れてしまう。わたしは思わず顔の下半分をお湯の中に隠した。


「兄さんが、お嬢さまは笑顔を見せないから、自分の力が足りないのではないかと落ち込んでいたので」


 少し寂しそうな声でそんなことを言うものだから、わたしはまた顔を出す。


「カレルが?」

「そもそも兄さんは、そんなに明るい性格じゃないんです。家ではまったく違う感じですよ。きっとお嬢さまを笑顔にしたくて、はしゃいでいるんでしょう」

「……ふうん」

「お嬢さまは、笑ったほうが可愛いですからね」


 柔らかな声でそう付け加えると、彼女は目を細める。


「……ヤナは、優しいわね」

「普通です」


 そう言って、彼女はわたしに背中を向けた。銀髪の端から見えている耳が、少しばかり赤く染まっているように見えた。


 なるほど、妹を可愛がるカレルの気持ちが、少しだけわかったかもしれない。


   ◇


 お風呂から上がり、新しいワンピースを着て一階の部屋に出ると、カレルはそこで待っていた。


「さっぱりしましたか?」

「ええ、ヤナのおかげでね」

「そうですか。さすがはヤナ! ちゃんと仕事できましたね」

「普通です」


 明るい声で褒め称えるカレルに、ヤナは冷めた声で答えている。


「では、髪を乾かしたら結いましょう。僕、やります」


 いったいなにをほざいているのか。


「却下。ヤナにやってもらうから」

「そうです、私がやります」


 するとカレルはガックリと肩を落とした。


「ええー……。僕もできるのに……」

「そもそも、同性にしてもらえるようにと、ヤナを連れてきたんじゃないの」

「それはまあ、そうなんですけど」


 往生際悪く、ブツブツと文句を漏らしている。


「お嬢さまの第一の従者は僕なのに……」

「第一も第二もないでしょ。来たのもほとんど同時だし」

「そうですよ」

「いいや、僕のほうが先なので! 僕が第一です!」

「というか、第一が髪を結うという理屈もどうなの」

「兄さん、馬鹿らしい主張はそれくらいにして、黙ってください」

「辛辣ぅ」


 そうしてまたカレルはケラケラと笑い、ヤナは澄ました顔をしている。

 本当に、馬鹿らしい会話だ。


 でも、楽しい、と思った。

 ひとり言をつぶやくことで、声を出すことを忘れないようにしていたけれど、今はひとり言じゃない。


 聞いてくれる人がいる。


 冷え切った塔が、暖炉に火を入れてもいないのに、じんわりと温かくなってきたように思った。

 久しぶりに入ったお風呂のおかげなのかもしれないけれど。

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