第12話 敗北感と「今日うちに誰もいないの」


 帝都一のカフェのマドレーヌは、美しかった。

 形もオーソドックスな貝状のもの以外に、樹木、動物、ハート、コーヒーカップなど様々で、それらに合わせた色で焼き上げられていた。


「これだこれだ」と喜ぶヴァレリアの顔色が良くなるのに対し、

「……ああ」とベルナルドは落胆を滲ませていた。


 自分の中では会心の出来だと思っていたマドレーヌも、いざプロの手によるものと比べてしまえば児戯に等しい気さえしてしまう。

 不幸中の幸いだったのは、待ちきれなかったヴァレリアが積まれたマドレーヌを口に運び始めたので、そんな彼の様子は悟られなかったことだ。


「さあ、貴様も食べてみろ。ここのは絶品だ」


 彼女の言葉に嘘はなかった。事実、ベルナルドが作ったものよりも遥かに、カフェのマドレーヌは美味だった。




   ◇




 カフェを出ると、待ち構えていた記者たちが二人にフラッシュの雨を降らせた。

ヴァレリアはそれらに意を介さず「行きたいところがあるのだが、構わないか」と尋ねてきた。

 ベルナルドは彼女の体調が変わらず優れないことはわかっていた。だがその彼女が強く望んでいるような気がしてならず、結局はその申し出を受け入れた。

 二人は大通りを進んだ。

 だが何事もなく自由に歩き回れるわけではない。

 すでに辺りでは騒ぎが大きくなりつつあった。

 幅広の道は市民でごった返し、窓という窓から身を乗り出して好奇の目で二人を見つめる者も大勢いた。


「噴水広場の時よりもずっと人が増えたんじゃないか」

「新聞のせいだ」ヴァレリアはぼそりと返した。「どこの新聞社にも陛下の息がかかっている。報道内容が帝国寄りになるのは必然だ。彼らは皆、『恋思合こいしあい』において本官が貴様を上回っていると、帝国が優勢だと思っている」

「その言い方だとまるで本当は俺が優勢みたいだぜ」

「……さあな」


 いよいよベルナルドは、彼女が重篤な病にかかっているのではないかと心配になってきた。必ず言い返してくると思っていただけに、こうも張り合いのない返事をされると気持ちが悪い。


 どうしたものか、と考え込んでいると、群衆の中から自分の名が叫ばれていることに気付く。その声はだんだんと近づいてきた。


「ベルナルド様! ……うわっ!?」


 その人物はくたびれたスーツを着た初老の男性で、顔のあちこちには苦労のしわが刻まれていた。

 男は人ごみから抜け出す拍子に転びそうになって、ベルナルドに思い切りぶつかってしまった。


「っと。ケガはないか、おっさん」


 青年は驚きつつ胸元で男性を抱きとめ、相手を助け起こしてやった。男は礼を言いながら何度も頭を下げた。


「実はベルナルド様にどうしても感謝申し上げたいのです!」


 俺に感謝? そう首をかしげていると男は続けた。


「先日、お二人の初デートで着て下さったスーツ、あれを仕立てたのはウチの店なんです。おかげで細々とやって来た店が、数日前から創業以来の大賑わいでして……!」


 男が言うところによると、ここ数日の売り上げは、既に去年の売り上げの合算よりも大きく、来店する人は皆声をそろえて『ベルナルドが着ていたスーツをくれ』と注文してくる、とのことだった。


「冗談だろ」ベルナルドはしんじられない、という顔をした。「あまり良くない撮られ方をしてた気がする」

「あの写真が良いんじゃないですか!」仕立て屋の男は興奮気味に言った。「絶世の美女に見向きもされずに去っていく男の哀愁! それがあの写真には詰まってましたよ」


 美女に去られた当の男はちっとも嬉しくなかった。閑古鳥が鳴いていた店を救えたのは喜ばしいが、そんな風に一部の男どもから同情と共感を寄せられたのだと思うと、穴があったら入りたくなる。


 ふと隣に目をやると、ヴァレリアがニヤニヤとこちらを見ていた。


「なんで笑ってんだよ」

「貴様の慌てふためく様子が見ものでな。こんな愉快な光景、口元の一つや二つ歪ませずにいられるものか」


 そう語るヴァレリアは少しではあるが元気になったように見えた。

 そうなるとベルナルドもさっきまでの虚無感は徐々に和らいでいって、これはこれでいいか、と落ち着いていった。


「今度ぜひ店にいらしてください! お代は結構ですから、ぴったりのスーツを仕立てさせていただきます!」


 服屋の店主がお礼を言いながら去ると、ベルナルドは目的地をヴァレリアに訊ねた。

 すると彼女は北西の方を指さした。その先には、通りに連なる建物の屋根があるだけだ。

 つまり通りを越えた、もっと遠くに目的地はあるのだ。

 だがそこへ行くにはこの膨大な人をかき分けていかなければならないだろう。


「デスイエロ、跳べそうか?」

「無論だ」


二人はその場から飛び上がって、四階建ての建物の屋根に乗った。そして屋根伝いに彼女の指さした北西へと進んだ。




 ◇




 ヴァレリアの誘導するままに進んでいくと、次第に建物の数は減り、代わりに自然の色が濃くなっていった。二人は人の気配のない丘にさしかかる。ジグザグ曲がった登り坂を、階段を上るように跳び越えて頂上まで駆け上がった。そこには貴族の屋敷に匹敵する、豪奢な邸宅があった。


「ここは、本官の住まいだ」ヴァレリアは言った。「そう構えるな。人はもう皆帰らせた。だから――今夜の我が家には誰もいない。本官と、お前だけだ」

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