第7話 薄雪のように
「緊張して手が震えていたが、若かった私は無我夢中で告白した。少女は驚いていたが、いつものように聡明な眼差しで、その告白を受け取った。少女が大きくなり、私たちは婚礼を上げ、私たちの間には一人娘が生まれた。その子も妻に似て、読書が心の底から好きな利発な少女に育った」
おじいさんの身の上話はどこにでもある話かもしれないけど、きっと、それはとても大切な養分で出来ている。透き通ったばかりの雪水のようにその思い出はきらきら輝いている。
「娘は何かとあれば、書棚から本を取り出して、読み聞かせをせがむような子に育っていた。将来が楽しみだ、と若かった私は思っていた。娘は年齢を重ねるごとに物語を綴るようになった。その物語は雪の閉ざされた氷河の世界で王子が、お姫様を救うストーリーだった」
寒空の上の凍て星が眩く、僕の眼を照らすようにフラッシュする。
「しかし、その安定した生活も、娘が十七歳になるまでだった。娘はうちの古書店によく出入りした青年と恋に落ちた。青年はこの街の向こう側にある古びた大学の学生で、昔からうちの古書店を出入りしていた。本好きな二人が意気投合するのは、時間の問題だった。生活は一変した。娘は青年と結婚したい、と言い出した」
おじいさんの口調が氷柱のように尖り始めた。
「何故、反対したのか、今となっては分からない。幸せな二人が羨ましかったかもしれない。ちょうど、その頃、私は妻を亡くしたばかりで落ち込んでいたからだったかもしれない。母親を亡くしたタイミングで結婚を急ごうとする娘に、いら立ちを覚えたし、青年がまだ、学生だったことにもイラついた」
おじいさんの口調が荒くなるにつれ、僕はおじいさんが途方もなく後悔しているのだ、とその氷雪のように冷たい口調で知った。
「ある日、娘は家からいなくなっていた。私は大慌てで街中を探した。しかし、娘は見つからなかった。あの子はきっと、好きな青年の元へ駆け落ちしたのだ。二人の幸せを祈るならば、詮索はしないほうがいい。それから、月日は流れた。ある粉雪がチラつく初冬、娘が一人の男の子を連れて戻って来た。私は怒るよりも先に、その子を抱きかかえ、はしゃいでいた」
深夜の雪道を走る、夜行列車はスピードを上げ、どんどん、夜の底と白くなっていく。思い出の走馬灯が、大雪の凍える夜に白く夜霧のように浮かび上がる。冬の王者のオリオン座が、冬空の向こう側に輝きを放っているかもしれないな、と呟きながら。
「男の子は元気で明るい子供だった。母一人子一人であっても、その寂しさを打ち付けるような子供だった。男の子もまた母親と同じく、本が好きな子供だった。家にあった絵本は全て、読んでしまったし、わが家はそれなりの安穏があった」
しかし、とおじいさんは、続けざまに告白した。凍てつくような夜気が僕を包んだ。
「あの子は自らお腹を痛めて産んだ我が子を、寒空の雪の降る夜更けに捨ててしまったんだよ。それから、あの子も死んだ」
「その子はどうなったんですか」
僕も知らず知らずのうちに言ってしまっていた。おじいさんは不敵に笑った。
「さあな」
厳寒の車内でしじまだけが僕らを見守っていた。雪がこんこんと降りしきる長夜、豆電球の明かりだけが夜の淵を照らしている。こんな寒すぎる冬の夜更けには、アンニュイだけが似合うんだ。唐突に憂鬱と握手する。この焦燥感の根源はどこからやって来るのだろう。
「その子が可哀想ですね……」
僕は凍り始めた結露の上に爪で文字を書いた。その文字の内容は、不意打ちのように読めなかった。僕自身でも何と書きたかったのか、はたと分からなくなった。
「私はこの旅で懺悔しないといけない。巡行のようなものかね」
おじいさんの口調が震えているのに、僕は気が付いていた。
「お前さんは知らなくて良かったんだ」
車窓の向こう側に白銀に輝く雪原は、一切の曇りもなく、純白で穢れさえも知らなかった。不香の花がこの残酷な世界を覆っている。このまま永遠に冬だったら、雪の華が花開いていたらいいのに世界は春を目論み、春を渇望している。春なんて来なければいいのに、と一途に縋るほど僕は冬に焦がれてしまっている。
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