「君が欲する熱量をぼくが与えられる可能性」Ⅲ


「おっそーい」

 ゼエハアと腰を曲げ、膝に手をあてて呼吸を整えているぼくの頭の上から、不機嫌な声が降ってくる。

 もともと今日会う約束なんてしていない上に、あれから急いで走ってきた身としては、責められる言われはない。

 とはいえ、リハビリを手伝うことをOKしたのはぼく自身だ。

 どうも彼女には強く出ることができず、少しだけ顔をあげる。

 そこには腕を組んで仁王立ちしている遥川がいた。

 怒っているような口調や態度とは違い、その表情は嬉しそうな笑顔を浮かべている。

 女心は難しいとはよく聞くが、顔と言動が一致しない場合の相手の気持ちなんて、女でも男でも分かるわけがない。

 息切れして酸素の足りない頭で、どう対応するべきか考えあぐねていると、「ふっ」と軽い息が彼女の口から漏れた。

「え?」と思う間もなく、あの特徴的な笑い声が公園内に響きわたった。

「カッカッカッ」

 大きな口を開けてお腹を抱える彼女に対し、最初は唖然としたものの、からかわれたのだと気が付いたぼくは口をへの字に曲げた。

「なんだよ。全然怒っていないじゃないか」

「怒られるようなことをしたわけ?」

「そんなのわからないじゃないか。ぼくには身に覚えがなくても、君には怒れるようなことをぼくがしたのかもしれないし」

 ぼくの顔を覗き込む彼女からフイッと顔を反らす。

 すると、彼女の嬉しそうな声が響いた。

「やっぱり葉山くんはいい人だね。流石はわたしが選んだ人だわ」

 いい人というのが褒め言葉なのかは分からない。

 それでも彼女の声色からは悪い意味でいったわけではなさそうだ。

 男というものは単純な生き物で、異性に……しかも、可愛い女性から好意的なことを言われて喜ばない者はいない。

 ぼくの機嫌は一気に浮上した。明るい声をだし、彼女に本題を問いかける。

「で。今日ぼくが呼ばれた理由はなに?」

 彼女はキョトンとした表情を見せたあと、「あっ」と小さく漏らして両手を叩いた。どうやら彼女はぼくを呼び出した要件を今の今まで忘れていた様子だ。

 こんな子にぼくは振り回されたのかと思うと、急に頭痛がしてきた。

 だが、境遇が似ている彼女をどこか放っておくことが出来ないぼくは、他人に興味がないといいつつも、結構お人好しなのかもしれない。

 そういえば、晴香や南にしたって、なんだかんだ言って、付き纏われても相手をしているよなと、自分自身がそこまで冷めた人間じゃないのかもとぼくが思っていると、目の前にいる彼女の目がキラキラ輝いた。

 上目遣いで見る彼女の顔を見ればわかる。

 今まで付き合った女の子なんていないけど、この顔は晴香で慣れている。

 これは大抵、厄介なお願い事をするときの女の子特有のおねだりポーズだ。

 ぼくは嫌な予感がしつつも、あえて彼女に問うてみた。

「……で、ぼくに何を頼みたいわけ?」

 待ってましたとばかりに口を開いた。

「あのさ、君の肖像画を描かせて欲しいんだけど駄目かな?」

 想像の斜め上どころか、あまりにも突拍子もないことをいわれた。

 彼女の言葉が、しばらくの間理解出来ずにいたぼくは、数秒間固まった。

「駄目と言われても困るんだけどね。だって、リハビリ手伝ってくれるっていう約束だもん」

「もちろん男に二言はないよね?」

 瞬きをするのも忘れるほどフリーズしているぼくを余所に、彼女から捲し立てられた。ようやく彼女の‶お願い″とやらを把握できたとはいえ、その思考回路が理解できないぼくは当然、素っ頓狂な声を上げた。

「はあぁぁぁっ? なんで、そうなるんだよっ」

 年のわりに冷静で落ち着きのある方だと言われているぼくだが、今回ばかりは流石に動揺した。

 美形でもない。

 背だって平均並み。

 体型なんて、どちらかというとヒョロリと頼りなさげだし、色だってなまっちろい。

 自分で言うのも何だが、とても絵のモデルが務まるようなタイプでもないし、モデルにしたいと思われるような容姿ではない。

 そんなぼくの顔を描きたいだなんて、一体彼女の目的はなんなのか?

 疑いの眼差しで彼女を見ると、ぼくの気持ちを見透かしたかのように、カッカッカッとあの豪快な笑い声をたてた。

「君が言ったんじゃん」

「え? 何を?」

 誰かの肖像画でも描けばだなんてことは勿論のこと、モデルにしてくれだなんて一言も言ってはいない。

 まったくもって訳が分からないといったぼくに向かって、彼女は鼻を鳴らした。

「わたしの絵からは何も感じないって言ったでしょうが」

 それは確かに聞いた。

 けれど、それとこれと、どう繋がるというのか?

 瞬きを数回繰り返し、その答えを求めると、彼女は「だーかーらー」と言って話し始めた。

「肖像画はさ。あくまでもモデルに似せて描くものなの。似顔絵と違ってありのままをね」

 要するに、絵をやめないにしても、おのずと描きたいと思えるようなタイミングというものはそうはない。

 かといって、ずっと描かないでいたら、腕は訛る。

 肖像画ならデッサンや構図を正しく描くにはもってこいだと言いたいわけなのだ。

 なるほどなと、一人で納得しているぼくを見て、彼女は呆れたような顔をした。

「別にデッサン力とかの衰えを気にして、むやみやたらに何かを描こうとしているわけじゃないわよ」

 彼女はぼくの心でも読めるのだろうか。

 ズバリぼくの考えを言い当てたことに驚いているぼくを余所に、話を続けた。

「君は大人から見たら優等生で真面目で冷静な人なんだろうけど、自分の心に素直に従うところがあるよね」

 小首を傾げてぼくに同意を求めてくるが、ぼくとしてはハテナマークが頭の中に浮かぶばかり。

 基本的に他人にも自分にも興味がないぼくは、熱血漢でもなければ短気な奴でもない。

 むしろ、同年代の同性の中では、ものすごく冷めた見方をし、感情に左右されないタイプだと自負している。

 そんなぼくが心に素直に従うわけがないと思っていると、彼女はクスリと笑ってぼくの鞄を指差した。

「その中にあるのは教科書と参考書だけじゃないでしょ?」

 ギクリと胸が大きく跳ねた。

 パンパンに膨らんだスクールバッグには、ぼくの大切なものが入っている。

 教科書や参考書なんかよりも遥かに大事なものだ。

 ぼくにとって唯一無二の宝物であり、ぼくの魂といっても過言ではない。

 そういえば、彼女には見られていたのだと思い出した。

「ふふふ。君、ソレを持つ時は、無意識レベルで感動するままにシャッターを押しちゃうでしょ?」

 誰にも見せたことのない部分を見られていたという恥ずかしさが、今になって込み上げてきた。ぼくは、顔に熱が集まるのを感じて少しだけ俯いた。

「だからさ。君が夢中になって写真を撮っている姿を描いているうちに、君の熱量がわたしにも伝わってくるんじゃないかと思ってさ」

 晴れ晴れしい表情で手を差し出した彼女は、「君が見ている世界をわたしも見ている気になれそうだしね」と付け加えた。

 こんなことを言われてはOKするしかないじゃないか。

 ぼくは差し出された白く小さな手をギュッと握ったのだった。



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