第二章「君が欲する熱量をぼくが与えられる可能性」Ⅰ
昨日はとても不思議な体験をした。
他人に無関心なこのぼくが、見知らぬ女の子と仲良くなったのだ。
多分、それは彼女が「葉山実」ではなく、ぼくそのものを必要とし、呼んでくれたからなのだろう。
彼女は
年は自分と同じ十七歳で高校二年生だ。
気が緩んだり、咄嗟に出たりする方言からおおよそ検討はついていたけれど、彼女は名古屋生まれの名古屋育ち。
別れ際に連絡先を交換したものの、あれから朝になってもメールの一つもない。
思い通りの絵が描けるようになるリハビリを手伝えと言われたものの、次の約束すらしていない。
彼女から何かしらアクションがあると思っていたぼくは、一晩中、スマホが気になって眠れなかった。
積極的かつ、フレンドリーな性格をしているだけでなく、短時間であれだけ濃厚な話をした仲だというのに、おやすみの挨拶もない。
サバサバを通り越して淡泊すぎるというべきか、自己中というべきか──
かく言うぼくも、気になるのなら自分から連絡すればいいだけのことなのだが、それもまた妙なプライドが邪魔をする。
ふと、昨日のことはもしかしたら勉強のストレスから幻覚や夢でも見たのかもしれないと思い、電話帳を確認する。
そこには確かに『遥川 雪』の名前と連絡先が登録されてあった。
「やっぱり現実だよな」
スマホの画面を見つめ小さく呟いた時、階下から自分を呼ぶ声が聞こえた。
時計を見ると朝食の時間。
今日は父親が当直でいない。
あの
さっさと制服に身を包み階段を下りると、焼き立てのパンの香りが鼻腔をくすぐった。
「おはようございます」
ダイニングに顔を出すと同時に挨拶をすると、キッチンでサラダを盛り付けていた女性が振り返った。
「おはようございます、実さん」
自分よりも一回り以上も年下なぼくに対しても丁寧語で話す彼女は家政婦でもお手伝いさんでもない。
父の再婚相手であり、ぼくの義理の母である美咲だ。
朝早くから朝食に洗濯にと、家事をしっかりとこなしている上に、メイクも手を抜くことがない。
長い髪の毛をきっちりとまとめた彼女は、いったい何時から起きているのか不思議である。
いつでも気を抜かず、いつ
けれど、一緒に暮らす子供としては、正直言って疲れる。
自宅にいる時ぐらい、もっとラフな格好をすればいいのに、フルメイクに小綺麗な格好をされては、こちらも心身ともに休まらない。
ぼくは朝から憂鬱な気持ちになりながらテーブルについた。
「実さん。昨日は塾をお休みされたとか」
サラダとコーヒーをぼくの目の前に置きながら美咲が静かに責めるような口振りで切り出した。
‶やっぱり……″
ぼくは瞼を閉じて溜息をついた。
昨夜、遥川に付き合ったせいでぼくは塾に行く時間が大幅に遅れた。
塾の授業は途中からでは理解できるものと、理解できないものがある。
それに、周囲に迷惑をかけることになる。
その日の講義内容を自主勉強で補填することに決めたぼくは、遥川と別れたあと、そのままファミレスでへ移動した。
そして、自習をし、塾が終わる時間を見計らって家に帰宅したのだ。
こう見えてぼくは、この辺りでは有名な進学校の生徒だ。
塾に関しても、入塾試験の成績上位のごく一部の人間しか入ることの出来ない特進選抜クラスに通っている。
学校も塾も、いい大学にどれだけの生徒を送り込んだのかが大切なようで、一人でも多くの生徒を日本屈指の大学に入れる為に、授業は当然のことながら、遅刻や休みにも厳しい。
きっと、塾の講師か事務員が家に連絡を入れたのだろう。
でも、これは想定内のことだ。
動揺しているのがバレないよう、平然とした態度で美咲の顔を真っ直ぐに見た。
「ええ。学校で出された課題が思いのほか難しくて、図書館で調べものをしていたら塾の時間が過ぎてしまって……途中で出席しても他の生徒達の迷惑になるでしょうし、昨日、塾で学ぶ範囲に関して自習をしていたんですよ」
こんなこともあろうかと、昨夜のうちに仕込んでおいたプリントを見せた。
それは難関大学の過去問題集の中でも超難題だと言われている部分をコピーしたものだ。
参考書を片手に全ての解答欄を埋め、ついでに塾のテキストも昨日の分だけでなく、次の分まで終わらせておいたことが運よく役に立った。
美咲はぼくからプリントを受け取る。
それから、眉目を寄せてプリントの内容に目を通していく美咲を見て、‶どうせ見たって、解答どころか、方程式の使い方すら知らない癖に″と、腹の中で舌打ちする。
「嘘は言っていないようですね。安心しました」
美咲から突き返されたプリントを鞄の中にしまう。
「それでも、ちゃんと連絡してくださらないと困りますよ。塾の先生には体調不良だと言っておきましたけど……実さんには幸助さんのような立派なお医者様になってもらわなくてはいけませんから」
いかにも医者の奥様らしいお上品な言葉遣いで並べ立てられる厭味を、馬の耳に念仏とばかりに聞き流し、「いただきます」と手を合わせてから朝食をとる。
ぼくが食事に箸をつけると、彼女も食卓に座り食事をとるのだが、その間も延々と小言が続く。
「幸助さんも甘いんですよ。学生の時ぐらい夢中になれる趣味があったっていいなんて言いますけど、学生だからこそ、将来のために勉強に励むべきですもの。そのことは実さんだって理解してますでしょう? カメラなんかにうつつを抜かして塾をサボったり、成績を落としたりするなんてことがないように気を付けてくださいね」
父が居る時には一歩下がった奥ゆかしい妻ではあるが、父が不在の時には、ぼくに対してかなり口煩い。
ぼくのことを本気で心配し、将来を案じてくれている言葉であれば、素直に受け止められる。けれど、義母の言葉の裏には全て、彼女自身の世間体が悪くならないようにという思いが見え隠れしているのだから気分が悪い。
美味しそうな(実際に美味しい筈なのだが)食事も、砂利でも食べているかのような不快感が押し寄せてくる前にさっさと飲み込み、空いた皿やマグカップを流しへ持って行く。
「昨日の遅れを取り戻すために、もう家を出ますので」
鞄に手をかけ、彼女の顔を見ることなく玄関へと向かうぼくの背に、「いってらっしゃい」と習慣的に発せられた無機質な声が投げかけられた。
「いってきます」
込み上げてくる侘しさに蓋をして学校へと向かった。
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