「淡い吹雪に引き寄せられて」Ⅲ


 東西に一つずつ、二か所ある広場は、回遊式の散策路で結ばれている。

 ぼくは彼女に腕を掴まれたまま、エレベーターホールのある西の広場から、段差のない歩道を東側へと連れて来られた。

 春になると、南側のフェンスから桜並木を一望できる絶好のお花見スポットであり、先程、彼女がぼくに手を振っていた場所でもある。

 目的地に辿り着いたぼくは、目に飛び込んで来た光景に驚きの声をあげた。

「うわっ! なんだこれ……って、画用紙?」

 辺り一面に四角い紙が散らばっていた。

 ぼくの声に反応して彼女の手が腕から離れた。

 少しだけ寂しいと思ったのは気のせいだろう。

 出会ってから、たかだか数分だ。

 そんな短期間に恋など芽生える筈もない。

 第一、彼女は変人へんじんだ。

 それに、ぼくの好みは知的で落ち着いた美人である。

 掴まれていた部分が急に離され、寒さを感じたからだと結論づけたぼくは、小さくかぶりを振ると、足元に落ちていた一枚を拾い上げた。

「これは、空?」

「ん? どれ?」

 散らばっていると思っていた紙は、どれも、風で飛ばされないよう一枚一枚に何かしら重しが乗せられていた。

 屋上公園内にある小石だったり、彼女の筆箱だったり、鞄だったり。

 それらを一つ一つ取り除き、一枚一枚回収していた彼女が小走りでやってきて、ぼくの手元を覗き見た。

「ぶっぶー。不正解! それは海でーすっ」

 彼女はぼくから画用紙を奪うと、それを180度回転させた。

「上下逆さまに見るからそう見えたんだよ」

 彼女の言う通り、雲に見えていたものは白波へと変化し、あっという間に美しい海になった。

「見る角度を変えれば、見えている世界も変わるわけか……」

 なるほどと唸りながら絵に見入っている間に、彼女は自らが並べた(散りばめた)絵を拾い集めていた。

「ねえ」

 ふいに声をかけられ振り向くと、両手で何枚もの画用紙を抱えた彼女と目が合った。

「さっきはなんで足を止めてくれたの?」

 なんのことを言っているのか分からず、小首を傾げたがすぐに学校の帰り道である桜並木でのことを思い出した。

「あれさ……こんな真冬に桜吹雪が舞うなんて有り得ないだろ? でもぼくには僅かな時間だったけれど、その有り得ない光景が目の前に現れたんだ。誰だって驚くし、目を奪われるんじゃないの?」

 あの時、あの場所に、ぼく以外にも人はいた。

 でも、ぼくはあの束の間の夢のような景色から目が離せなかった。

 いいや、それだけでなはい。

 この感動の瞬間を撮りたいと頭で考えるよりも先に、心が感じるままに体が動いていた。

 あとは夢中でシャッターを切っていただけで、ぼく以外の人間が何をしていたかなんていうことは知る由もない。

 ぼくの答えを聞いた彼女は、少しだけ目を見開いた後、口元を緩めた。

「ふふふ。君って本当に面白いね」

 目を細め、愉快そうに笑う彼女は首を横に振った。

「あんな紙屑。みんな、ほんの少しだけ視線を向けるだけで、すぐに興味を失せてコートなりマフラーなりに顔を埋めて下を向いて去っていくだけ。だーれも、なーんにも反応がなかったわ」

 肩を竦め、「ほんと、つまらない人達よね」と文句を言いつつ、一歩一歩、ゆっくりとこちらに近付いて来る。

「でもさ。君だけは、何故かあそこで立ち止まって、顔を上げたんだよ」

 目の前までやって来た彼女は、ぼくを見上げた。

「しかも、その後、カメラであの景色を撮っているのを見てさ。“ああ。この人はわたしと同じだ”“この人と話したい”って直感的に思ったの」

 ドキリとしたのは、吸い込まれるような黒い瞳にジッと見つめられたからだけではない。

 ぼくもまた、あの情景を生み出した彼女と話がしたいと思っていたからだ。

 家族のことといい、今の話といい、性格も性別も全く違うのに、どこか似通う部分がある彼女のことをもっと知りたいと強く感じた。

「ただ、君の話を聞いて思ったんだ。やっぱり、わたしと君は違うんだって」

 否定的な言葉ではあるが、ぼくは何故かショックを受けることはなかった。

 それはきっと、彼女が好奇心旺盛な子供のような顔をしていたからだろう。

 彼女は嬉しそうに口角をあげた。

「だってさ、わたしはあの時、雪を降らせようと思って屋上から紙屑を飛ばしたのに、君は桜吹雪だと思ったんでしょう?」

 ここでようやく、ぼくは彼女が何を言いたいのか理解した。

「見る角度じゃなく、見方が変われば見え方も変わるのか……」

「もっと言うなら、見る人が変われば見え方は変わる。要するに、世界は人の数だけ見え方があるってこと」

「で、そんなことを伝えたいだけで、ぼくをここに呼んだわけじゃないんだよね?」

「勿論」

 鼻息荒く頷いた彼女は、両手に持った画用紙をぼくへ突き出した。

「ここに描かれてある絵を見てどう思う?」

 真剣な眼差しを受け、「いいんじゃない?」「上手いと思う」なんていう言葉を軽々しく言うべきではないと察した。

 受け取った画用紙は乾いているものもあれば、まだ、僅かに湿っているものもあった。

 いくら水彩画とはいえ、これだけの量を短時間で描くには、相当な集中力と情熱がなければ無理だ。

 彼女がぼくを選んだ理由。

 それはきっと、ぼくがカメラを手にしていたからだ。

 そして、あの時、迷うことなくシャッターを切ったのを見ていたのだろう。

 ぼくと彼女に似ている部分があるというならば、それは感性だといえる。

 些細なことにも感動し、そこからの閃きや想像力を大事にする部分に期待して、彼女はぼくを指名した。

 ならば、ぼくは彼女の願いに真摯に向き合うべきだ。

 グッと手に力を入れて、一枚一枚丁寧に見る。

 描かれている殆どのものが、ここから見える街並みや、建造物ばかり。

 上手い下手かを聞かれたら「上手い」と誰だって言うだろう。

 どれもが特徴をしっかりと捉えてあり、デッサンの狂いもない。

 ここまで描けるということは、相当絵の勉強をし、努力してきた人なのだと伺える。

 でも、ただそれだけだ。

 他にはなにもない。

 ただ一つだけ、ただ綺麗なだけの絵と違うところは、その独特な色使いだ。

 だが、それをプラスに加算したとしても、魅力的かと問われれば、言葉に詰まる。

 それは何故か。

 彼女の絵を見ても、胸に響くものや、何か訴えかけてくるようなものが一枚もなかったからだ。

 ぼくはどう答えるべきか悩んだ末、正直に思ったままのことを伝えた。

「やっぱりわたしが見込んだだけのことはあるね」

 途中で口を挟むことなく、最後までぼくの感想を聞き終えた彼女は、パッと明るい表情を見せた。

「これで‶上手だね″とか言われたら、君に失望するところだったよ」

 他人からの評価など気にしないぼくが、彼女のその言葉を聞いて内心ほっとした。けれど、それを悟られたくなくて、ぼくは照れ隠しに悪態をつく。

「なんだよ。ぼくがそんな優しい人に見えたの?」

 済ました顔をして、ツンと答えると、彼女は一瞬だけ目を丸くし、大きく口を開いた。

「全然。君ならそう言ってくれると思っていた」

 そう言った途端、豪快にカッカッカッと笑った。

「でもさ。だから破り捨てたんだよね」

「え?」

 スッキリとした顔をしている彼女に、‶まさか″という気持ちが込み上げる。

「ほら、わたし。雪を降らせたいって言ったでしょ? 何の意味もなさないこの絵も、雪のように溶けて無くなってしまえないいのにって思ったの」

「それはどういう……」

 戸惑うような声が自然と漏れた。彼女の絵からは何も感じられなくても、彼女自身からは絵への強い情熱が伝わる。

 それなのに彼女が言おうとしている言葉は――

「これでも結構いろいろな賞を獲ったり、有名な画家に評価されたりもしてきたんだけどね。ここんとこ、スランプに陥っちゃって……思うような絵が描けなくなったんだ」

「それで、スランプを乗り越えようと?」

 ぼくは彼女にそんな気がないことを知っていながら、わざと問い掛けると、案の定首を横に振った。

「もう絵はやめようと思う」

「それは駄目だよっ!」

 思いのほか大きな声を出してしまい、びっくりしたのは彼女よりもぼくの方だった。

 なぜ自分にも他人にも興味がなかったぼくが、彼女に対してはこんなにも熱くなるのか。

 その答えはあくまでもぼくの自己満足でしかない。

 彼女にとってはどうでもいいことなのだから言う必要はないのだが、それでは絵をやめないように説得するにはどうすればいいのか。

 ぼくが咄嗟に頭をフル回転させて絞り出した答えが、「だって、これじゃあぼくが君に印籠をつきつけたみたいで後味が悪いじゃないか」という間抜けなもの。

 でも考えてもみてくれ。

 もともと彼女は絵をやめようと思っていたのかもしれないが、最終的な結論を出すきっかけになったのが、著名な美術評論家や画家ではなく、絵に関して何の知識もないド素人なぼくの感想が原因だとすれば、後々、世間が黙っちゃいないかもしれないじゃないか。

 何気に説得力のある言い訳が出来たと自分自身で満足していると、あの独特な笑い声が木霊した。

「カッカッカッ! 確かにっ」

 大口を開けて笑う彼女は、ぼくの言葉に何の疑問も不信感を抱いてはいない様子。

 むしろ、本気でおかしいといった感じで爆笑している。

「君の言う通り。これじゃあ、わたしが絵をやめた責任を君に背負わせてしまうことになっちゃうね」

「そうだよ。そんな重いものを今日会ったばかりの人間に押し付けないでくれよ」

 またもや特有の笑い声をあげる彼女からは、もう自分の好きな道を諦めるような言葉は出てこないような気がした。

 ぼくはホッとして、彼女に気付かれないよう息を吐くと、悪戯っ子のような笑みを浮かべた彼女と目が合った。

「ならさ、ちょっと手伝ってよ」

「は?」

「どうせ乗りかかった船じゃん?」

「いったい何を言って……」

「わたし、冬休みが終わるまでこっちにいるからさ。その間、リハビリ手伝ってよ」

「リハビリ?」

 いきなり何を言い出すのか見当もつかず小首を傾げる。

 彼女はどこも悪そうには見えない。

 察しの悪いぼくに痺れを切らした彼女は頬を膨らませた。

「だーかーら。絵のリハビリ! やめるのをやめさせたんだから手伝ってくれるよね?」

 なんだか理不尽な要求な気がしたけれど、詰め寄って来る彼女の圧に負けたが、ほんの少し、ワクワクしているのは彼女には秘密だ。

 ただし、ぼくはまだ学校もあるし、塾もある。

 それに友人や家族との予定だってある。

 空いた時間だけでよければという条件付きで彼女のリハビリとやらに付き合うことを約束し、お互いに連絡先を交換した。

 彼女との初対面の話はここまで。

 翌日から数日間。

 ぼくはあんなに濃い日を過ごす事になろうとは、この時はまだ知る由もなかった。

 

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