「淡い吹雪に引き寄せられて」Ⅱ
病院というのは、怪我や病気の治療をする場所である。
健康な人間が足を踏み入れる理由としては、患者の付き添いや、入院患者へのお見舞い、それに、業者や病院関係者ぐらいなものだろう。
健康な人間が見知らぬ誰か……しかも、全身で飛び跳ね、大きな声を出している相手だ。
誰が見たって健康体にしか見えない赤の他人に呼ばれたからという理由で病院を訪れる人なんて、ぼくは聞いた事がない。
そんな馬鹿なことをする奴がいるのだとしたら、ぼくは〝何て不謹慎なヤツなんだ″と蔑んだ目で見るだろう。
それなのに、ぼくは何故、そんな馬鹿なことをしているのだろうか?
その理由は、たった一瞬とはいえ、冬に花吹雪が舞う景色を見せてくれたからなのかもしれない。あの幻想的な情景に、ぼくの
通常では見ることのできない光景を生みだしてくれた魔法使いに会いたいと、無意識レベルで感じたからなのだろう。
種明かしをすれば、それがただの紙屑であったとしても、確かにこの目に映り、心に刻まれたものは、ぼくにとっては衝撃的で、目を奪われるほど美しいものであったことには変わりはないのだから──。
好奇心と緊張感に胸をドキドキさせながら、ぼくは病院の中に足を踏み入れた。
夕方で混み合っている待合室を通り過ぎる。
奥にあるエレベーターがタイミングよくやってきた。
ここまで来ておいて、いまさらではあるが、ぼくは彼女が屋上に呼び寄せておきながら、自分はさっさとその場から立ち去っているのではないかという疑念と、もしも居たとしても、一体何を話せばいいのだろうかという妙な不安を抱えながらエレベーターに乗り込んだ。
*****
各駅停車ならぬ各階停止で、いつの間にか箱の中にはぼく一人となって屋上階に辿りついた。
扉が静かに開く。
ぼくはゆっくりと箱の中から外へと一歩踏み出さそうとした。
そこで急に黒い影が目の前に現れた。
「ワッ!」
「……」
ブワッと冷たい風が全身を襲うと同時に、大きな口を開けた女の子がぼくの前を立ち塞ぐかのように飛び出した。
見知らぬ女の子にからかわれたのではという疑問を持っていたぼくは、驚くよりも、本当に彼女が自分を待っていたことに拍子抜けした。
そして、ぼくはポカンとした表情で、彼女の顔を凝視したまま立ち尽くした。
「え? あれ? ちょっと、ちょっと、ちょっとぉぉぉ!」
急に慌てだした彼女は、壁にある乗降用押しボタンを押した。
閉まりかけた扉が、再び最大まで開く。
彼女の全身がしっかりと目に入った。
黒髪ロングヘアの綺麗な子だ。
前髪はパッツンで、癖のないストレートの髪はサラサラしていて清潔感がある。
制服を身に纏っていることと、彼女の容姿や雰囲気から、一つ二つは年が違うかもしれないが、同世代のように見えた。
見た目だけでいえば、清楚系に分類されるであろう彼女だが、性格は陽気なタイプなのだろう。
ド派手はピンクのマフラーを首に巻き、スカートの丈も少々短めだ。
彼女の勢いに圧倒されて、目を丸くしていれば、彼女が口を開く。
「どら焦ったわー」
聞き慣れない言葉が発せられると同時に、腕を引っ張られた。
「うわっ」
狭い空間から勢いよく外へ引っ張りだされた途端、彼女はカッカッカッと豪快に笑った。
「わたしの顔がイメージ通りじゃないから、君は階数を間違えたフリして、そのまま下に降りる気かと思ったてぇ~」
自己紹介をする前から、やけに慣れ慣れしく、人の肩をバシバシと叩いて笑う彼女に、つい疑問が口から漏れた。
「いまの言葉遣いって……」
「しまった! 君が焦らせるから方言出ちゃった」
小さく舌を出す彼女をよくよく見れば、ここら辺では見たことのない制服を着ている。
遠方からわざわざこの病院にやってきたようだ。
「誰かのお見舞い?」
見たところ、彼女は元気そのものだ。
身内か親しい人の見舞いに来たと推測したぼくは、思ったまんまを口にした。
案の定、彼女は首を縦に振る。
「そうなのっ! 今日から〝お母さん″がこの病院に入院したんだ」
あっけらかんとした表情で答える彼女に、ぼくは僅かに動揺した。
そんな僕のことなど気にする素振りもなく、彼女は続けた。
「本当は冬休みに入ってから付き添いに来るつもりだったんだけどね。でも、お父さんは仕事だから、付き添いできないしさ。わたしは、もう二学期のテストを終えているから、担任に事情を説明して、冬休みまでの残り数日を休ませてもらうことにしたんだ」
「それで一緒に?」
「うん。病院には看護士さんたちがいるから、わたしができることって、そんなにないと思うんだけどね。それでも、家族が傍にいれば、少しは支えになるかなーって……」
照れ臭いのか、視線を斜め下に下げ、こめかみを掻く彼女の耳は赤かった。
「へえ……でも、地元の病院じゃなく、なんでわざわざここに?」
ぼくの問いに、彼女は目を真ん丸にさせた。
「どうして遠くから来たってわかるの? やっぱりさっきの方言? 方言が田舎っぽかった?」
驚いたような声をあげ、彼女は僕の肩を揺さぶった。
「違うから落ち着いて」
肩に置かれた手をゆっくりと外した後、ぼくは彼女の制服を指差した。
「方言くらいなら親の転勤で転校してきた子だって当てはまるだろ? でも君の場合は……」
「あ! そっか。学校に届け出だして、そのまんまこっちに来たから、わたし、制服のまんまだったや」
自分の着ている服を確認した彼女は、再びカッカッカッと女の子らしからぬ声で笑い、「そりゃ、この地域の学校とは違う制服を着ていたら、まったく違う土地から来たって思うよね」と納得する。
ひとしきり笑ったあと、彼女はぼくからの質問に答えた。
「うちのお母さんの実家はこの街なんだ」
その答えにぼくは納得する。
病気の時は誰だって心細い。
今現在、旦那と一緒に住んでいるところにだって、義両親なり、知人友人なりがいるだろう。けれど、入院の世話をしてもらうとなると、血のつながった親兄弟姉妹や親類の方がいいに決まっている。
とくに、旦那自身が付き添えないのなら尚更だ。
わざわざ住んでいる場所から遠い場所にある病院を選んだことに合点がいったぼくは、そこでふと思った。
「新学期始まったらどうするの?」
素朴な疑問を投げかけた。すると、すぐに答えが返ってくる。
「多分、その頃には退院できるっぽい」
「ってことは、そこまで重い病気じゃ……」
「ないよー」
あっけらかんとした答えに、ぼくはホッと胸を撫でおろした。
考えてみれば、死に繋がるような病気だったら、彼女だってこんなに明るく振舞える筈がない。
出会ってまだ、たったの数分ではあるが、彼女は少々変わり者のようだが、家族とは仲が良く、母親想いの優しい子だということが理解できた。
「羨ましいよ……」
心の中で思っていたことが、思わず口からぽろりと漏れた。
冷たい空気の中に響くぼくの声に、彼女がキョトンとした顔をする。
その顔を見て、ぼくは自分が失言したことを悟り、慌てて否定する。
「いや、お母さんが入院していることに関してじゃないよ」
「はははは。それぐらい分かるよ。流石に
ぼくの言葉を責めるわけでもなく、笑いとばす彼女の懐の深さを感じてなのか、それとも、赤の他人である彼女になら、自分の胸の中に閉じ込めてきた想いをぶちまけても害がないと思ったからなのかは分からない。けれど、ぼくは自分が何故〝羨ましい″と思ったのかを、誤魔化すことなく自然と話し始めた。
「いや……なんかさ。学校を休んでまでお母さんの付き添いをするだなんて、本当に仲がいいんだなと思ってさ」
冬の寒空の下。
しかも、夕暮れ時の屋上に出る物好きなんて、彼女ぐらいなものだ。
周囲をチラリと見渡せば、綺麗に剪定された木々や花壇の間にベンチがところどころに設置されているのだが、そのどれにも人は座っていない。
ゆっくりと一番手前にあるベンチへと歩み寄る。ベンチの周囲に植えられた垣根が、ちょうど風よけになっていた。
ここなら落ち着いて話せる。
腰を下ろすと、黙って後ろをついて来ていた彼女も隣に腰かけた。
「名前も知らない君に話す事じゃないとは思うんだけど……」
一応、そう前置きすると、彼女は真剣な話だと察したようで、スッと姿勢を正した。
もっと軽いノリで聴くだろうと思っていたぼくにとって、これは意外だった。けれど、気持ちの切り替えが上手い人なのだろうと、ぼくは深く考えることなく話を続けた。
「実はうちの両親は離婚しているんだ。あれは中学校に上がる直前だったかな……母親はぼくを捨てて家を出て行ったんだよね」
隣に座っている彼女に向かって話しているというよりも、独り言をただ聞いて貰っているといった感じで、ぼくは真っ直ぐ前を向いて話す。
彼女は相槌を打つことなく、ただ、黙って聞き役に回ってくれた。それが却って、ぼくの想いを吐き出しやすい。
これまで誰にも相談できなかったことが口から溢れ出る。
「それから程なくして父は再婚した。美咲さん……あ、継母のことなんだけどさ。他人行儀ではあるけど、別に意地悪をされたことはないよ。家のことはきちんとしてくれるし、学校行事にだって来てくれる。世間から見たら、喧嘩一つなく、家族仲良く暮らしている〝幸せな家庭″なんだと思う」
初めて会った相手にこんな重い話をされて、どんな表情で聴いているのか気になったぼくは、チラリと横目で見る。
すると、彼女は背筋をピンッと伸ばし、顔だけはぼくに向けていた。
真剣な表情の彼女と目が合う。その途端、彼女は口を開いた。
「〝なんだと思う″ってことは、君はそうは思っていないんでしょ?」
ぼくの告白に、同情や憐れみといった言葉を投げかけることもなく、淡々とした口調で指摘した。その通りだったので絶句するぼくに、彼女は続ける。
「でも、その気持ち。わたしは理解出来るよ」
「え?」
母親が入院したとはいえ、彼女は本当の家族と幸せに暮らしている。
母に捨てられ、赤の他人と一緒に暮らしているぼくの気持ちのどこが彼女に分かるというのだろうか?
上っ面だけの慰めの言葉ほど心を抉るものはない。
さきほどまでは、自分とは全く違うタイプの彼女に、どこか惹かれるものを感じていたのだが、急に頭の中が冷えていく気がした。
これ以上話していたら、彼女に当たり散らしてしまいそうだと思ったぼくは、ベンチから腰を上げた。
溜息を吐き、そのまま立ち去ろうとするぼくの背中に、彼女の声が投げかけられる。
「ここに入院するお母さん。わたしの本当のお母さんじゃないもの」
抑揚も何もない声が風に乗って飛ばされた。
一瞬、聞き間違いだと思い、ぼくは振り返る。そして、未だベンチに座る彼女を見下ろした。
ゆっくりと顔を上げた彼女の顔は無表情を通り越し、何の感情も見出すことのできないほど冷めていた。
この時、ぼくは初めて嫉妬や憎悪に満ちた目よりも、漆黒の闇に呑み込まれそうになる「無」の色が一番恐ろしいと感じた。
多分それは、明るく、笑顔を絶やさない彼女が見せた表情だからこそ、余計にそう思えたのかもしれない。
彼女が何故そんな顔をしたのか。
答えは歴然だ。
彼女もまた、ぼくと同じで「幸せな家族」を演じているだけで、心の底から幸せだと感じていないのだ。
そのことに気がつき、ぼくは後悔した。
何気なく漏らしてしまったぼくの一言は、きっと彼女を深く傷つけた。
それを笑顔で受け流せる人がこの世にどれぐらいいるだろうか。
一度口から出した言葉は、もう二度と戻らないとはよく言ったものだ。
例え反省したところで、彼女の心に黒い染みを落としたことは消せやしない。
懺悔の気持ちから、ぼくは彼女の冷めた視線を受け止めた。
これから話されるであろう彼女の告白を聞く覚悟を決め、ゴクリと喉仏を上下させた。
「……ふっ……ふふふ……あはははははは」
張り詰めた空気を打ち破るように彼女が笑いだした。
突然の奇行にぼくは唖然とする。
ひとしきり笑うと、彼女は人懐っこい笑顔に戻っていた。
「他人行儀って言ったって、仕方ないよね。だって、お義母さんは、お父さんとは結婚して夫婦になったかもしれないけど、わたしからしてみたら、同じ家に住んでるってだけで、実際、赤の他人だもの。お義母さんだって、いきなりこんな大きな娘が出来たんだから、戸惑うのも無理はないし、‶いいお母さん″を演じるしかないじゃない?」
「え?」
「だーかーら。要するに、ちゃんと母親業をしてくれているだけ、うちらは有難いっていうこと」
「あー……」
「それに、実の子供を想わない母親なんていないものよ」
どこか寂しげに付け足した彼女の言葉は、ぼくへ向けてというよりも、自分自身に向けて言っているようであった。
ぼくと似たような境遇、似たような年頃でありながら、自分の意見を押し付けるのではなく、自分で自分を納得させているように話しているからこそ、彼女の言葉を素直に受け止められるのかもしれない。
母はぼくを捨てて出て行ったと思い込んでいたけれど、実は、ぼくを父の元に置いていくという選択肢しかなく、泣く泣く一人で立ち去ったのかもしれない。
そして、今もこの世界のどこかでぼくを想ってくれているのではないかと思うと、なんだか少し救われた気になった。
「というわけでえー。君がわたしを羨ましく思うことは何もないのだよ」
いつの間にか立っていた彼女は、あの独特な“カッカッカッ”という笑い声をたてて、ぼくの肩をポンポンッと叩いた。
「それじゃ、本題に入りましょっか」
ニヤリと口角を上げた彼女が、ぼくの肩に腕を回した。
「本題?」
小首を傾げると、不服そうに頬を膨らませる。
「もーう。迷える子羊ならぬ悩める青年の話を聴きだすために君を呼んだわけじゃないんだよ?」
拗ねるような顔をする彼女に、ぼくは「それもそうか」と苦笑する。
考えてみれば、離れた場所にいるぼくをわざわざ呼ぶということは、ぼくの悩みを解決したいなんていう善意からではなく、ぼくに何か用があるからに決まっている。
彼女に呼ばれたから、わざわざ病院の屋上まで来たんだよなと思いながら、ふと息を吐く。
LED照明のお陰で、屋上内は明るいが、空を見上げると、儚い紺青が広がっていた。
「深い蒼だなあ……」
小さな呟きに、思わず振り返る。すると、彼女もぼくと同じように空を見上げていた。ぼくは彼女が零した言葉がよく聞き取れず、再度聞き直す。
「え? なに?」
「あっ……ううん。もう、この場所、閉められちゃうのかなって思って」
どうやら彼女は、日の暮れた空をぼくが見上げたことで、この場所の閉鎖時間が迫っているのではと心配したようだ。
「いいや。ここは消灯時間の一時間前までは患者の癒しの場として開放されているっていう話だから、まだだよ」
「そっか、ならよかった」
「ぼくはあまりよくはないけどね」
胸を撫でおろした彼女とは反対に、ぼくは自分の腕に巻いた時計に目をやる。
今日は塾がある日だ。
いつもなら、家に帰宅してから、服を着替えて塾に行く。けれど、時刻は既に十七時半を過ぎている。ここから塾に直行しなければ開始時間に間に合わない。
時間を気にするぼくを見て、彼女が驚きの声をあげた。
「うそ! デートか何か予定があった? え? でも、そんな気配ないよね?」
「ちょっとそれは失礼じゃないかな」
十人中八人は綺麗だとか整っているだとかの評価を得るであろう彼女の顔面偏差値に比べたら、確かにぼくの顔は遠く及ばない。
けれど、中の上……いいや、せめて中の中……なんなら、中の下でもいい。
兎に角、不細工とまでは言われない容姿をしているはずだ。
それに、こういっちゃなんだが、過去に数人ほどではあるが、告白だってされている。ぼくの顔を見て、デートの相手すらいないと断言されるのは心外だ。
口を尖らせ、不機嫌さを露わにすると、彼女はぼくの気持ちを察してか、慌てて否定した。
「あ、違う違う。そうじゃなくって、彼女とかいるんならスマホをもっと気にするハズだし、こんな変な女の誘いになんて乗らないかなって思ってさ」
そこでぼくは「ああ」と短く返事をした。
この「ああ」という言葉にはぼくの深い思いが込められていた。
一つはぼくに彼女がいないと決めつけた理由に対して納得がいったという意味。
もう一つは、彼女自身、自分が変な子であることを自覚していたんだという、ある種の感嘆の溜息でもあったのだが、彼女は前者の意味だけ受け取ったらしい。
「君の話に付き合ったんだから、あと少しだけわたしに付き合って」
腕を掴まれ、有無を言わさず引っ張られるぼくは、一体彼女が何をしたいのか、何を見せてくれるのかというドキドキ感と、塾をサボった言い訳をどうしようかというハラハラ感で心臓がバクバクしているのであった。
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