第1章:「淡い吹雪に引き寄せられて」Ⅰ
「さみぃな……」
関東山地のお陰で、北からの季節風が直接入ってこないとはいえ、寒いものは寒い。
昇降口で上履きから靴に履き替え、外にでたぼくは、肌を突き刺すような空気に首をすくめる。それから、マフラーに顔を埋め、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ。
季節は十二月中旬。
手袋や厚手の靴下を履いていても手足が
けれど、これから更に寒さのピークに向かって気温が下がっていくのかと思うと、正直げんなりする。
学校から家までの通学ルートには、昔は武家屋敷が集まっていた場所がある。
とても風情あるのある小路だ。
今は閑静な住宅街ではあるものの、当時の趣がところどころ残っているだけでなく、何十本と植えられた桜並木道が東西に真っ直ぐ伸びている。
春になると薄桃色の花たちが道行く人を歓迎してくれるし、夏は鮮やかな緑の葉が繁り、刺すような日差しから守ってくれる。
ただし、冬はそうはいかない。
西から吹き抜ける風を妨げるものは何もなく、真正面から通行人に向かって体当たりをかましてくる。
心地よい海風だなんて呑気な台詞を言えるのは、観光客ぐらいなものであろう。
通い慣れた道を白い息を吐きながら足早に進む。
「ん? なんだ?」
風を避けるため、俯き加減でいたぼくの足元に、薄いピンク色をしたものが舞い落ちた。
それも一枚、二枚ではない。
小さく渦巻く風に乗り、くるくると回る小さな花弁。
どこから飛んできたのかと思わず顔を上げると、ぼくは自分自身の目を疑った。
「桜吹雪?」
まるで春の終わりを告げるように、数多の花びらが右から左へと流されている景色が広がっていた。
「嘘だろ……」
山から緩やかに下りてくる冷たい空気と、真正面から顔面を襲う風とがぶつかり合い、上へ上へと吹き上がると同時に、大地に落ちたはずの小さな花片も、再び息を吹き返したかのように舞い上がる。
つられて視線を空へと向けた。
やや灰色がかった空をキャンパスに、寂し気な枝がいくつも目に飛び込んできた。
慌てて左右を見渡せば、道の両側に立ち並ぶ木々は全て桜の木。
当たり前のことなのだが、そのどれにも花どころか蕾一つすらついてはいない。
季節外れの花吹雪に胸を高鳴らせたぼくは、咄嗟に鞄の中から常に磨き上げている黒く鈍い光沢を放つ相棒を取り出した。
たまたま運よく人通りも少ない。
ぼくは車にだけは気を付け、狭い道のど真ん中でカメラを構えた。
ファインダーから覗くと、より一層幻想的な世界が広がる。
淡いモノトーンの中で、ほのかに頬を染める妖精たちが楽しげに舞い踊る。
瞬間をおさめようと夢中になってシャッターを切る。
数十秒――否、数秒ほどで淡く色づいた世界は終わりを告げた。
接眼部から目を離すと、小さな黒いボディの上に、一枚の花弁がついていた。
よく見ると、それは小さく千切られた紙。
「なんだこれ?」
人差し指と親指で壊れないよう摘まみ上げた。
目の前に
幽霊の正体見たり枯れ尾花だとか、大山鳴動して鼠一匹だとか言うけれど、実体を確かめてみると、平凡……いや、平凡以下だというオチはよくあること。
芸術なんていうものは、往々にしてよくあることだし、むしろ、その平凡をいかに美しく、いかに情熱的に描くのかが作者の腕の見せ所だといっても過言ではないだろう。
僅かばかりの白昼夢を見たぼくは、自分が抱いた感動そのものをカメラに収めることが出来たかどうかが気になっていたのだが、道路一面に散らばる細かい紙の破片を目にして溜息をついた。
再び視線を上げ、紙吹雪の出処を探す。
風上へと顔を向け、そして斜め上へと目を向ける。
「青葉病院か……ん?」
桜並木沿いには住宅が立ち並んでいる。
その中で、周囲よりも頭一つ抜けた高さの真っ白な建物は、市内で一番大きな総合病院。
九階建ての建物を見上げると、屋上に設置された転落防止用のフェンス越しに両手を振っている人が目に入った。
「なんだありゃ?」
距離的に顔が見えそうでハッキリとは見えない。
ただ、女性であることは認識できた。
誰か知り合いでも見つけて手を振っているのだろうと思い、周りを見渡すが、俯き加減で風を避けたり、コートの襟を立たせて寒そうに身を縮めたりして道を行き交う人ばかりで、それらしき人は見当たらない。
それどころか、やけに自分の方に顔も体も向けられているような気がする。
なんなら、目も合っている気がしないでもない。
彼女を見上げたまま小首を傾げると、今度は両手でオイデオイデするようなジェスチャーをしだした。
「え? ぼく?」
聞こえる筈もない間抜けな音を出し、右手で自分自身を指差すと、上から楽しそうな声が降って来た。
「君だよ、君! 君に手を振ってるんだよーっ」
全身で飛び跳ね、大きく手を振る彼女は「ちょっとこっちに来なよー」と叫んでいる。
初対面――しかも、彼女もぼくも、はっきり顔が見える位置にいるわけではない。
それにも関わらず、ぼくを指差し、ぼくを呼ぶ。
自分以外……いいや、自分にすら興味のないぼくは、いつもなら得体の知れない相手からの誘いなど見向きもしない。
けれど、これが俗に言うところの運命だったのだろう。
それが仕組まれたものなのか、それとも偶然だったのかは、今ここでぼくが話すことではない。
ただ何故か、自分の環境が一変するような期待と好奇心で胸がドキドキするのを感じ、衝動的に彼女のもとに駆け出したことだけが、ぼくの中の事実として残っている。
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