19歳 7月

「夕さ、期末テストいけそう?」

「まあ単位は取れるんじゃないかな。早苗は?」

「私はもう専門科目とか結構あってさ。結構厳しいかも」

「早苗の学部は結構忙しそうだね」

 コーヒーチェーンのバイトにももう随分と慣れた。シフトがしょっちゅう被る早苗とも親しくなり、バイト終わりにはこうやって、まかないでもらったテイクアウトのコーヒーを片手に駅前のベンチで駄弁ることが習慣となっていた。厳しい門限があった実家暮らしの頃からは考えられなかった生活だ。当時は絶対的なものだと思っていた実家の鎖も、こうやって離れてしまえばたいしたことはなかったんだなと思わされる。

「あ、やばい、もう十一時になっちゃう。そろそろ帰ろっか」

 早苗がスマホの画面を見て、ぱっと立ち上がる。その勢いそのままに、彼女は駅の反対側へと駆けていった。半身をひねってこちらに手を振りながら。僕もひらひらと手を振りかえして、彼女の背中が見えなくなったあたりで僕も帰路についた。騒がしい早苗と別れると途端に、夜の街は静かで暗い場所になった。するとさっきまで忘れていたことが、忘れられていたことが、急速に脳内を支配した。僕は零花さんのことを考えていた。今日は、僕より先に帰っているだろうか。僕より先に、帰っていてくれるだろうか。

 アパートのドアにカギを差し入れ、回した。そこには確かな感触があった。ドアは閉まっていたのだ。ということは、まだ彼女は帰ってきていない。重たいドアを開ける。藍色に似た暗闇が部屋全体を覆っていた。そして足を一歩踏み入れると、あの黴の匂いが鼻についた。どうしてこの部屋はこんなに黴臭いのだろう。この部屋は物が少ない上に、きちんと整頓もしてあるのに。水回りの掃除もこまめにしているはずだ。それなのに、まるで死臭みたいな黴臭さがこの部屋を薄く充満していた。僕は換気扇を回して、シャワーを浴びた。


 結局、彼女が帰ってきたのは僕がシャワーを浴び終えた後だった。十一時五十分。彼女の髪型やメイクは少し崩れていた。ここ数日ずっとだった。最近色々忙しいと、彼女は言っている。

「僕、もう寝ますよ」

 僕がそう声をかけると、彼女はいつもと同じように、一年前と同じように、自然な様子で僕のもとへと近寄った。外見上は何も変わらないはずなのに、彼女の内心が、僕には少しずつわからなくなっていた。僕らの唇が触れた。直感でわかる。彼女は今日、男と寝てきたことを。それも、前までのとは違う男と。

 僕らは唇を離した。彼女はもう、僕と目を合わせてくれなくなった。

「僕じゃダメなんですか」

 僕はふいに彼女にもたれかかって、そう呟いた。彼女の首元に香る女の匂いが、今になってはどうしようもなく苛立たしかった。

「どういうこと?」

「わかるでしょ、とぼけないでよ」

「私は君のことを大切に思ってるよ」

「それならどうしてキスするんですか」

 彼女は何も返さなかった。僕の背中に腕を回すこともなく、ただ、真っ直ぐに突っ立っていた。僕は、数秒経ってから彼女から身体を離した。彼女が今何を考えているのか、僕にはわからなかった。ただ、彼女は、いつかに、何かしらの理由で、何か別のものへと変わってしまったということだけが、僕には理解された。

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