18歳 9月
解夏の夕暮れは晴れていた。夏の茹だるような暑さも八月と共に通り過ぎて、街を歩く僕らの間には時折涼しい風が流れた。隣を歩く彼女は、涼しげな白いノースリーブワンピースを着ていた。
「夕くん、だいぶ勉強できるようになってきたね」
「数学はダメダメですけど」
「国語と英語はできてるんだから、そこを見ないと。夏休みに猛特訓した甲斐があったよ」
「零花さんのおかげです」
「どういたしまして」
あの雨の日、僕の十八歳の誕生日以降も、僕らの関係は、ひとつを除いてほとんど何も変わらなかった。少なくとも、僕にとっては変わらないように見えた。週に一回、親たちの会合にあわせて、どちらかの家で彼女に勉強を教わる。その形自体は何も変わらない。「私たちは同じ傘の中にいる」、その彼女の言葉の意味は、ずっと明かされていなかった。
彼女と話しながら歩いていると、いつのまにか僕の家の手前にある曲がり角に着いていた。そう、唯一変わったこととしては、授業が終わった後に互いの家まで相手を送る習慣がついたことだった。今日は彼女の家で授業があったため、彼女が僕を家の前まで送ってくれた。そして僕らはいつも電柱の陰で立ち止まる。横並びだった二人が、正面に向かい合う。僕らはどちらからともなく顔を近づけて、キスをした。それは唇がやさしく触れ合う程度の、ささやかなものだった。僕らは互いを見送って、別れ際に数秒間のキスをする。それが新たな習慣になっていた。彼女のあの言葉と同様に、この行為の意味も、僕にはまだわからない。
この街に台風が近づいてきたのは、その次の週だった。直撃はしない予報だったし、風はそれほど酷くなかったけれど、そこそこしっかりした雨が降った。僕らはそんな空模様を僕の部屋の窓から眺めながら、英語の参考書をみっちり二時間半かけて進めた。
「なんか最近は英語をやることが多いですね」
僕は参考書を本棚に戻しながら言った。授業の進め方は完全に彼女に任している。今までは英国数を満遍なく進めていたけれど、夏あたりから英国の占める範囲が大きくなっていた。
「そうだね、まあ」
彼女はそう濁しながら立ち上がった。そしてかばんを肩にかけながら、僕の方を振り返り見た。
「今日雨だし、私の家まで送ってもらわなくていいから、手前の電柱のところまでは来てくれない?」
彼女はそう言った。その声音は、いつもより少しだけ緊張を含んでいるように聞こえた。
そして僕らはいつも通り電柱の陰で、一つの傘に入りながらキスをした。そして二つの唇が離れた後も、彼女は僕の目をじっと見つめて離さなかった。
「夕くんってさ、どの大学に行きたいかはこだわりないんだよね」
彼女の突然の問いかけに、僕はとりあえず頷いた。僕には、大学でやりたい勉強も特になかった。それだから今、父親が勧める地元の国立大をさしあたり目指している。
「最近、国語と英語ばかりやるようになったのはなんでだと思う?」
「長所を伸ばす、的なやつですか?」
「ちがうよ」
彼女はそう言いながら背伸びをして、僕の耳もとに顔を近づけた。彼女の温かな吐息が顔にかかって、思わずどきりとする。
「ねえ、夕くんも東京にくる?」
彼女はささやくようにそう呟いた。僕はその言葉の内容をうまく飲み込めなかった。
「来年の一月に仙台で模試があるでしょ? それを使えば、私がやったのと同じようなことができると思う。君のお父さんにはうまいこと言ってあげるから、その日に東京の私大の入試受けてきなよ。仙台にも会場があるらしいから。それで合格して、一緒に東京に行こう。この街から一緒に逃げよう」
「でも、僕、東京に身寄りなんてないですよ」
「いいよ、私のアパートに住まわせてあげる。だから学費のぶんだけバイトで頑張って稼いで。入学金は、まぁ、ちょっとならサポートできると思う。あぁあと、お年玉を貯めた貯金があるって前に言ってたよね」
彼女の提案は、酷く魅力的だった。自分の計画を成功させた彼女の計画なら、信頼できるとも思った。このまま彼女に頷けば、この街の鎖から解き放たれることもできるかもしれない。でも。
「どうして」
「ん?」
「どうして、僕のためにそんなにしてくれるんですか」
僕の疑問に彼女は少し笑って、そして再び顔を近づけた。唇を擦り合わせて数秒、彼女は顔を離して僕の目を見つめた。
「私たちは同じ傘の中にいるからだよ」
彼女は確信めいた声音で言った。
「私たちの頭上には確かな傘があるんだよ。あとは君の確かな意志だけ」
意志。いし。その言葉がとても印象的に響いた。呼吸が浅くなって、胸のあたりが締められたように痛んだ。少し顔を上げると、雨でぼやけた視界の先に色づき始めた山が見えた。僕は木陰で雨宿りする鳥のことを思った。
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