18歳 6月
「じゃあ、今日はこんな感じで終わりにしようか」
零花さんはそう言って数学の参考書を閉じた。その日は彼女の家の客間で授業は行われた。新しい畳の張られた、綺麗な客間。襖を隔てた向かいの部屋では、僕らの父親が飽きもせずいつも通りの会合を開いていた。僕は隣から漏れ出る愉快そうな話し声を冷ややかな気持ちで聞きながら、荷物をかばんの中に入れた。
「そういえばさ、夕くん、今日誕生日だよね」
そんな僕を眺めながら、彼女はそう言った。予想外のその言葉に、僕は「あ、はい」としか返せなかった。彼女はいつもよりは幼い表情で、「おめでとう」と笑った。
「知ってたんですね」
「うん、夕くんの家庭教師やるって決まったとき、君のお父さんに基本的な情報は教えてもらって。私、人の誕生日を覚えるのは結構得意なの」
「僕は零花さんの誕生日を知りませんよ」
「いいよ私のは知らなくて。二十歳を越えると、誕生日を迎えるのは階段を降りていくような気持ちになっちゃうの」
そういうもんですか、と僕は答えて、そういうもんだよ、と彼女は返した。それでも僕は彼女の誕生日が知りたかったけれど、そんな恥ずかしいことが言えるはずもなかった。だから僕はその代わりに襖を見つめた。
「もう何年も、誕生日を祝われたことはありませんでした」
「そうなの?」
「はい」
背後の彼女の顔は見えなかった。見えなくてよかったと思う。そして何よりも、彼女に僕の表情が見られなくてよかったと思う。
「僕は地主の子で、将来の遺産保全を担う跡継ぎなんです。父にとっての僕とはつまりそういったもので、それが全部なんです。母はそうじゃなかったと思うんですけど。もう幼い頃の記憶しかありません」
襖の奥は更に賑やかになっていた。おそらくお酒を飲んでいるんだろう。もちろん、聞き耳を立てなくてもわかるけれど、僕の誕生日について話している様子はない。
遺産を守るのはいい。それが世界的に価値を認められていることもわかっている。僕には理解しがたいけれど、この山に囲まれた小さな街で、遺産を守って生きていくことに人生の意味を見いだすのも父の勝手だ。僕がどうこう言うことじゃない。でも。身近な人の幸せさえ、つまり、幼い頃にはもういなくなってしまった母や、僕の幸せさえ守れずに、一体何を守ろうというのだろう。そこにどんな価値があるというのだろう。僕にはそれがどうしても理解できなかった。
「帰ろうか」
彼女はやさしく言った。「はい」と、僕はただ返事をした。
零花さんはいつも通り僕を玄関まで送ってくれた。そして僕は彼女に一礼して、引き戸を開けた。そこでようやく雨音に気づいた。この街にとってはおなじみの、にわか雨が降っていた。
「夕くん、傘持ってる?」
彼女の問いかけに僕は首を振った。おそらく折りたたみ傘は押し入れの奥底で息を潜めているだろう。
「どうしようね、もう暗いし」
「走って帰ります」
「だめだよ風邪引いちゃう。私の傘貸そっか?」
「でもそうしたら零花さんが一週間傘使えなくなっちゃいますよ」
「じゃあ、夕くんちまで一緒に入っていこうか」
帰りは私一人で傘使えばいいし。彼女はそう軽快な声音で言った。僕は驚いて彼女の方を向いた。彼女は僕の視線に気づくと、ちょっと照れくさそうに笑った。
「いや、さすがに僕んちまで一往復させるのは申し訳ないです」
「遠慮しないでよ、今日誕生日なんだし」
その言葉に僕は押し黙った。誕生日を祝われたことのない僕は、それに反論する言葉を持っていなかった。
僕らは雨の街を、一つの傘の中で歩いた。彼女の傘は女性用にしてはずいぶんと大きく、しっかりしていた。それでも歩くたびに、僕らの肩はやさしく触れ合った。授業をしているときよりも彼女との距離は近い。香水とシャンプーの甘い香りが絶え間なく僕の鼻腔をくすぐった。雨の日特有の黴の匂いは、今ばかりは感じなかった。
「こうやってふたりきりになるのは初めてだね」
彼女はそう言った。並んで歩くと彼女は意外と小柄で、その表情はよく見えない。
「いつもは近くに父親たちがいますからね」
「じゃあ心置きなく話せるね」
彼女はしかし、そう言ったきり黙ってしまった。心置きなく話せる。それは、普段暗号めいた比喩で話している彼女の計画についてだろう。この街から逃げ出す計画。彼女の父親から離れるための計画。僕はただ彼女の言葉の続きを待った。僕らの間には、雨が地面を打つ音と、傘に跳ね返る音と、わずかな衣擦れの音だけが鳴っていた。
「私、東京の会社に就職するの」
僕の家の前にある曲がり角で、彼女はそう言った。僕らは電柱の陰で立ち止まった。そこはうまいこと死角になっていた。
「この前、卒論の資料調査って嘘ついて、東京行って。そこで最終面接受けてきた。昨日内定のメールが来てて。だからもうお父さんの事務所には就職しない。この街も捨てる。東京行ったらもう実家には帰らないし、連絡も取らない」
彼女はそう言い切った。ああ、そうか。彼女はやりきったんだ。彼女の父親にばれないように就活をして、最終面接までこぎつけて。周到な準備をして、内定を手に入れた。この街以外でも、あの山の向こうでも、生きていけるつてを手に入れたのだ。たぶん雲隠れの仕方も考えているんだろう。誰にも感づかれずにこの街を去る方法を、彼女はきっと考えている。
「おめでとう、ございます」
口から言葉が漏れた。これはすばらしいことなんだろうと思う。何年もかけた計画が実を結んだのだから。これで彼女は解放される。僕だけが、この街に残る。僕はまた、この街に沈殿する閉塞感とか孤独感とか、親の欺瞞だとか黴の匂いだとかに囲まれながら、過去の遺物に縛られて生きていく。共犯者を失った僕は、無辜なシステムとして生涯を終える。
「おめでとう、ございます、ほんとうに」
自分の声が震えているのに気がついた。彼女は僕を見上げた。僕はそれが嫌だった。そうするのはフェアではないと思っていた。でも、喉の震えと涙を抑えることができなかった。僕は乱暴に涙を拭った。視界がぼやけて暗くなった。
すると、頬に温かな感触が伝わった。驚いて顔を上げると、彼女が僕の頬に手を添えていることに気がついた。彼女の指はやさしく僕の肌を撫で、涙の跡をなぞった。僕は、僕を見つめる彼女の穏やかな瞳から目が離せなかった。そのやわらかな吸引力に惹かれるように、僕の顔は彼女に近づいた。花の匂いがした。僕らは、唇を触れ合わせた。
「大丈夫、私たちは同じ傘の中にいるから」
雨はまだ止まなかった。
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