17歳 4月
平泉はにわか雨が多い。周囲を山に囲まれた内陸の街だから、当たり前と言えば当たり前かもしれない。しかしその性質は事あるたびに僕を憂鬱にさせた。僕にはなぜか折りたたみ傘を持ち運ぶという習慣が定着せず、そのせいで僕はたびたび雨の中をびしょ濡れになって走るはめになるからだ。完全に自分が悪いということはわかっていながらも、いや、わかっているから、僕はそのとき酷く惨めな気持ちになる。自分以外の、用意周到な人たちは皆傘を差し、安全圏に収まりながら僕を見るのだ。醜くもずぶ濡れになった僕を、哀れみの目で。それはあるいは自意識過剰なのかもしれない。でも、当の僕にはそのようなことは関係がなかった。実際に見られていることと、見られているように思うこととの間には、一体どんな違いがあるというのだろう? とにかく僕は、にわか雨に濡れることが嫌いだった。それはひとえにどうしようもない疎外感と惨めさを覚えるからだ。雨の日にはこの古い遺産の街に黴の匂いが立ちこめるのも、その理由の一列に付け加えてもいいのかもしれない。
「私はかつて、鳥がこの世で最も自由な存在だと信じていた」
零花さんは、まるで歌うような声音でそう言った。僕は手もとのテキストから顔を上げて、彼女の方を見た。彼女は薄曇りのような笑顔でこちらを見つめていた。その背景にある窓の向こうでは、一匹の鳥も停まっていない一本の電線が力なく弛んでいた。僕は少し考えてから、口を開いた。
「I used to believe that birds were the freest beings in the world.」
「正解。でも、今のは問題じゃないの」
彼女はゆっくりと首を回して、その柔らかな髪を掻き上げた。背中にまで伸びる彼女の黒髪は、そのすぐ隣に座っていた僕に香水の香りを届けるのには十分だった。彼女は大人の女性の香りがした。実際に彼女は僕より四歳年上の、紛うことなき大人の女性だった。
「夕くんは、何がいちばん自由な存在だと思う?」
「問題ですか?」
「ううん、雑談」
僕はもう一度手もとに視線を下ろして、少し考えた。彼女はどうやら僕にある種の信頼を寄せているようだった。それは家庭教師先の生徒としてもそうだし、おそらくそれ以上のものとしても。そして僕は当たり前の感情としてそれに応えたかった。だから僕はそれなりにちゃんと悩んで、悩んだなりの答えを口に出した。
「一番はわからないけど、やっぱり少なくとも、人間よりは鳥の方が自由なんだと思います」
「どうしてそう思うの?」
「鳥は生身で空を飛べます。木の高い枝に停まることも、夜の星に近づくこともできます。あるいは、人間が自分の脚で行くよりは簡単に、山を越えられるかもしれない。そのぶん、鳥は自由なんだと思う」
そして鳥は、人間的なしがらみからも自由だ。それは思っただけで口に出さなかった。隣の部屋には僕の父親と彼女の父親がいるし、核心に触れることを言わないのは僕たちが少しずつ築き上げてきた大切なルールでもあった。でも彼女は、僕の言いたいことの全部をきちんと理解したようだった。彼女は概ね満足したような表情で「そうだね」と呟いた。
「きっとそれも事実の一側面を表しているんだと思う。私もかつてはそう思っていた。でも私は、人間が一番自由な存在だと信じている」
「自由意志を持っているから」
「それもある。大事なことだよ。私が思うに、人間の一番自由なところは傘を差せるところなんだ」
隣の部屋から、二人の男の笑い声が聞こえた。また他所の県議の悪口でも言っているんだろう。僕は声のボリュームを抑えながら、「傘?」と訊ねた。彼女はやっぱり小さな声で、「そう、傘」と悪戯っぽく答えた。
「鳥は自由に飛べる。でもそれは晴れの日だけ。雨の日は飛べないんだよ。翼が濡れちゃうからね。それに対して人間は傘を発明して、それを使うことができる。そうすれば雨の日でも安全に移動することができる」
「傘を差していても、濡れることはありますよ」
「うん。だからいつか、もっとちゃんと雨から身を守れる傘が開発されるんじゃないかな。現状を変えることができるのが、人間の持つ自由さの本質なんだと思う」
僕は頷いた。彼女の主張に言い返そうと思えばいくらでも言い返すことができるけれど、そうする必要はない。これは授業の合間に挟まれたただの雑談なのだ。それに、僕らにとっての本当の話は別の水準できちんと動いている。
「人間は雨の日でも、あの山を越えることができますか?」
僕は窓の向こうを見やった。そこには平泉の街を取り囲むような大きく青い山があった。
「うん、きっと。十分な強さの傘と、意志があれば」
「零花さんは?」
「準備してる、ちゃんと」
彼女ははっきりとした口調でそう言った。彼女は、零花さんは、この街から逃げ出す準備を進めていた。
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