第1話 結婚なんてまっぴらです
「ルミナ‼ そ、その髪は一体どうしたの⁉」
穏やかな昼下がり。魔師御三家、キルシュタイン家の邸宅に、耳をつんざく悲鳴が響き渡った。奥方の金切り声に驚いて駆けつけたメイドたちは、部屋の真ん中ではさみを手にして、誇らしげな笑みを浮かべるお嬢様を目にすることになった。
「あら、お母様。なにをそんなに驚いているのかしら? 私はずっと前から警告していましたよね。無理やり結婚させるなら修道院に入るって」
「ルミナ、馬鹿なことは今すぐやめなさい。あなたは――」
「ちっとも馬鹿なことじゃないわ!」
母の懇願もよそに、ルミナはスツールに腰を下ろして鏡を覗き込む。
「好きでもない男と結婚するくらいなら、修道院で一生過ごした方がましだもの」
騒ぎを聞きつけた父が駆け付け、母と同じようにルミナを見るなり顔を青くした。
「ル、ルミナ。フランクリンもそれほど悪い男では……」
「お父様」
父親の言葉を遮り、ルミナは大きくため息をついた。ちっともわかっていない。母親譲りの白に近い豊かな金髪を切り落とし、父と同じ深い紫の瞳を険しくさせている理由を。
「フランクリンは私の能力に惚れているだけなの。治癒魔法の使い手の妻を持って、自分が気持ちよくなりたいだけなの。あの薄汚いカエルみたいな……」
「ルミナ! そんな言葉づかいはよして! お母様、もう倒れそうよ」
そう言って唇を震わせている母は、本当に倒れそうに顔を真っ青にしている。もともとちょっとしたことで失神する母だが、今倒れられるのは困る。ルミナは攻撃をやめ、ため息をつくにとどめた。
父も母も何も知らないのだ。あの男がどんな目でルミナを見てきたか。急にルミナと婚約しようとしたのも、ルミナが珍しい治癒魔法を使えることが分かったからだ。
(魔力を明かすまでは私に見向きもしなかったくせに)
かといって、別にあの男に恋愛感情があったわけじゃない。最初からあの男のことは嫌いだった。キルシュタイン家の傍系のくせに偉そうで、何かとつけてはルミナを馬鹿にしてきた男だ。一見するとルミナは穏やかな美少女に見える。しかしその実態は、魔法学校で仕込まれた聞くに堪えない暴言の数々と、だれにも止められない反骨精神をため込んだような少女だ。
16歳でデビュタントを果たしてから早1年。舞踏場では誰もがルミナと踊りたがった。清楚な身のこなしと、天使のような美貌。女にしては背が高いが、それすらも逆に目を惹きつけられる要素になっていた。
要するに、ルミナは外面がいい。誰もが予想を裏切られる――しかも悪い方に――17歳。それがルミナ・キルシュタインという女だ。深窓の令嬢たちや令息、御三家の面々からは疎まれがちなルミナだったが、本人はまったく気にしていない。ルミナを受け入れられないならそれでいい。他人に好かれるために自分を曲げる意味がルミナにはわからなかった。
母のような弱々しい女にはなりたくなかった。父の機嫌を窺い、気味の悪い作り笑いを始終浮かべている。野兎みたいにびくびくして、どうしたら人から嫌われないかばかりを考えている女々しい女性。母親として大切にはしていたが、心の底では母にいつも苛々していた。
父もそうだ。守護魔法ならキルシュタインが一番を張れるというのに、攻撃魔法に優れているせいで、戦争では常に第一線で目立っているアンベール家や、社交的であけっぴろげに見えて腹黒いヴァレンタイン家にどこか気を使っている。社交界でアンベールの無表情な頭首との会話で顔を曇らせ、ヴァレンタインの妙に陽気な頭首にぎこちない笑いを浮かべて言葉を詰まらせている父。
――ほんとうになんなの?
我慢できなかった。祖父の時代はキルシュタインはなくてはならない力を持つ家として敬われていたのに。ルミナはそんなキルシュタインが好きだった。結界魔法や盾魔法、そして治癒魔法は高度な技術が必要だし、戦いには必要不可欠なのに。どうして父は自信がないのだろう。
ルミナは諦めることにした。ルミナが好きなキルシュタインの風格はどこかに行ってしまったのだ。もういい。そして、両親に疲弊していたところに婚約の申し出ときた。しかも、キルシュタインの傍系から。その意図など一つしかないだろうに。弱体化した本家を乗っ取り、自分たちで仕切ろうとしているのだ。めったにない治癒魔法の持ち主と結婚すれば、自慢もできるし子孫繁栄にも期待できる。
さすがに縁談を破棄するだろうと信じていたが、その期待もあっけなく砕かれることになる。ルミナにおずおずと結婚してはどうかと提案してきたとき、もう少しで夕食のステーキの皿をひっくり返すところだった。どうにか怒りを抑え、歯を食いしばり、額まで真っ赤にしながらまっぴらごめんだと言い放つことに成功したが、それでも両親が信じられなかった。
矜持も誇りも何もないではないか。
心底、心底がっかりした。
だからルミナは修道院へ入ることにした。一生を寺院の中で過ごすのも気が狂いそうになるだろうが、一生こんな人たちに振り回され、気持ちをかき乱されるほうが死にたくなるに違いない。それに、修道女になれば結婚もしなくていい。
出発は深夜すぎだった。必要最低限の荷物だけを持ち、シーツやドレス、寝間着を割いて作ったロープで窓から庭に降りる。一度だけ邸を見上げると、ルミナはひらりと門を飛び越えて表通りを歩いて行った。もう、振り返らなかった。
◇◇◇
修道院は、黒いレンガ造りの重々しい建物だった。一晩中歩いて修道院にたどり着いたころには、もう日が昇りかけていた。鉄で作られた門を引き開け、庭に入ると、その圧倒的な静けさにルミナは圧倒された。石畳みの小道が両開きの扉までまっすぐ続き、小さな噴水がある庭にはマリーゴールドやパンジーなどの小さな花がたくさん植えられていた。
両開きの扉――入口までたどり着くと、ルミナは思い切って扉を開けた。扉を開けた先は、大きな礼拝堂だった。信じられないほど高い天井は、ルミナの靴音を吸い込んで響かせる。真ん中に伸びた通路を挟むように、いくつもの長椅子が整然と並べられていた。突き当たりには祭壇があり、アストレイアで信仰される星の女神エウレカの石像が飾られている。目を閉じ、やわらかな微笑を浮かべるエウレカは、彼女の象徴である白鳥を腕に抱いていた。
ぼうっとそれを見つめていると、不意に後ろから驚いた声がかけられた。
「あの、朝の礼拝の時間にはまだ早いのですが」
びくりと振り返ると、そこにはルミナと同い年くらいの少女が立っていた。左手に雑巾がかけられた鉄のバケツを下げている。どうやら掃除をしていたらしく、修道服の裾が濡れていた。
「私は修道院長様にお会いしたいのですが」
ルミナはできるだけ控えめな笑みを唇に浮かべてみせる。外面が良いのはルミナの強みである。不審な表情を浮かべていた彼女は、小さな笑みを返してくれた。
「そうですか。では、一緒に行きましょう。私はシスター・ジェシカです」
麦わら色の髪と、鼻のあたりに散ったそばかすが印象的な彼女――シスター・ジェシカは小さく頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます