第23話【SOS】

 夏休みも終わりに近づいていたある日の午後、桜が市民プールから遊び疲れて帰って来ると、家の中で事件が発生していた。


「たでーまー。って、今日はママもお仕事で、お姉ちゃんも部活行ってるから誰もいないのかぁ。銀ちゃんは起きてるかなぁー……って、ウギャー‼」


 リビングには、大きな段ボール箱が開封されている状態で無造作に置かれていた。そして、その横には床に突っ伏した銀仁朗の姿があった。その指先は、床に落ちたオリーブの葉を指している。


「こ、こ、これって、コ◯ンで見た事のある、『ダイニング・メッセージ』とかいうやつじゃないのか⁉」


「ゔ、ゔぅ〜」


「あ、銀ちゃん生きてんの?」


「い、いぎでるでぇ……」


「なぁんだ」


「な、なんでそこで落ち込むんや」


「だって、生きてちゃダイニング・メッセージじゃなくなるじゃん」


「そ、それを言うなら、『ダイイング・メッセージ』やろ……がい。ダイニング・メッセージ言うたら、オカンが『チンして食べてね』って書いた、置き手紙、みたいに、なって、まう……やろがい」


 そう言い残すと、銀仁朗は、再び倒れこんでしまった。


「ぎ、銀ちゃん? え、え、これ普通にヤバいやつじゃね⁈ どどど、どーしよぉー」


 桜は、この緊急事態にパニック状態におちいってしまった。リビング中を頭を抱えながらグルグルと歩き回っていると、目が回りだし、仕舞いには机の脚につまづき転んでしまった。だか、逆にこれが功を奏したのか、少し正気を取り戻し、パッと良いアイデアが浮かんだ。


「ゔ〜、イテテテ。あ、そうだ! 博士先生に相談しよう! スマホスマホ〜、ってあれれ〜、おっかしいぞ〜。スマホが鞄の中に無いよ〜って、あっそうだ! プールに持って行こうと思って忘れて部屋に置きっぱなしだったんだ」


 急いで部屋からスマホを持ってくると、検索バーに『博士先生』と入力した。


「これで、電話番号を調べて電話しよう! えっと……あれ? 博士先生の病院出てこないぞ、何でだ? う~ん……あっ! 博士先生って呼んでるの桜だけだったー。凡ミス凡ミス〜って、そんなん言ってる場合じゃないよあたし‼ えっと、ABC動物病院っと。あ、これだABO動物病院。あ、また凡ミスしてたわ……。とにかく、見つけられたらから問題なしなし! 電話番号は、これだ! よし、掛けてみよう……」


 桜は、家族以外に電話を掛けるのが、これが人生で初めての経験だった。内心かなり緊張しており、通話ボタンを押すのを暫時ざんじ躊躇ためらった。しかし、目の前で倒れている銀仁朗を見て、自分がしっかりしなくては、と奮起ふんきし通話ボタンに手をかけた。


 数秒間の呼び出し音の後、女性の声がスマホから聞こえて来た。


「はい、こちらABO動物クリニックです」


「あ、こ、こんにちは」


「(子どもからの電話なんて珍しいな)こんにちは、どうかなさいましたか?」


「あと、えーっと、うちの銀ちゃ、いや、ペットが——」


「銀ちゃ……ってもしかして、大原さんですか?」


「あ、はい! あ、受付のお姉さんですか?」


「そうよ。桜ちゃん、だっけ?」


「はい、そうです!」


「どうしたの? コア、じゃなくて、ご家族に何かありましたか?」


「そうなんです! 今、家に帰ったら、うずくまって倒れてたんです‼」


「えっ⁉ い、息はありますか?」


「うん、さっき少しだけお話し出来ました」


「ちょっと待ってて、今先生に代わるから」


 受付のお姉さんがそう言い残すと、保留音の『エリーゼのために』が流れてきた。銀仁朗が大変な事になっていることや、初めての電話などで、桜の心臓は、エリーゼのためにの穏やかな音色とは反比例するように、パンクロックのような、猛烈な勢いでビートを刻み続けていた。待つ事数十秒。聞き覚えのある男性の声がスマホから聞こえてきた。


「こんにちは、お嬢ちゃん。銀ちゃんの具合が悪いそうじゃが、どんな状況か説明できるかい?」


「あ、えっと、は、はい。今、桜の目の前で床に倒れてます」


「意識はあると聞いておるが、今はどんな感じじゃ?」


「ずっと苦しそうな声を出してます」


「近くにお父さんやお母さんはおらんのか?」


「はい。今はお仕事で、お姉ちゃんも学校に行ってて、桜しかいないです」


「そうか……。ご自宅はここから近かったかの?」


「うん。自転車で五分くらいです」


「……わかった。今は昼休憩じゃから、特別に、わしが今からそっちへ向かおう」


「ホントに! ありがとう博士先生‼」


「子どもだけでアレを隠しながらこちらへ来るのは難しいじゃろうしの。少し準備が必要じゃから、十五分から二十分くらいは掛かる。それまで銀ちゃんを宜しく診ておいてもらえるかい?」


「うん、わかった。宜しくお願いします!」


「うむ。ではしばしの間、看病を頼んだぞ、嬢ちゃん」


「はい!」


 電話を切った後、桜は英莉子と玲に電話を掛けてみたが、二人とも繋がらなかった。正直、一人でこの空間にいる事がとても辛かった。しかし、博士先生に銀仁朗の看病を頼まれた事を思い出し、その責務を全うしようと、自らを鼓舞こぶし続けた。




 電話を切ってから二十分程が経った頃、ようやく待ち人が来たことを告げるチャイムの音が鳴った。


「はーい」


「阿保です、大原さん宅であっとるかね?」


「うん、今開けます!」


 エレベーターが混んでいたのか、エントランスのチャイムが鳴ってから、博士先生が家に到着するまで三分程かかった。その間桜は落ち着かず、玄関前で右往左往していた。


 ようやく先生がドアの前のチャイムを鳴らすと、その音が全て鳴り止む前に鍵を開け、先生を銀仁朗の元へと案内した。


「博士先生、こっちです!」


「よし、お邪魔するぞ」


「銀ちゃん、博士先生が診に来てくれたよ! 大丈夫?」


「ゔー、ゔーん……」


「随分と苦しそうじゃ。ちょいと仰向けに姿勢を変えるぞ」


「ゔー、ぐるじ~ぃ」


「(ん? 今、苦しいと言わんかったか? いや、気のせいか)よし、では触診しょくしんを始めよう。ふむ……腹部がかなり張っておるな。少し発汗もあるが、発熱しとる訳ではなさそうじゃ。嬢ちゃん、最近銀ちゃんの周りで、普段と何か変わった事は無かったかの?」


「うーん、特に何も変わらないと思うけどなぁ」


「そうか。何か普段食べない物を食べたとかも無いか?」


「最近は、ユーカリが少なくなってきたんで、よくオリーブの葉っぱを食べてます。この間お話したと思うけど、小豆島まで行って貰ってきたんだよ! でも、それ食べてお腹壊した事は今まで無かったです」


「ほぉ。ユーカリだけでなく、オリーブの葉も食べとるのか。コアラがオリーブの葉を食べるなど、あまり聞かん話じゃが——」


 先生が桜に銀仁朗の事について問診していると、玄関の扉が開く音が聞こえて来た。


「ただいま。桜帰ってる見たいね……って、何これ? 誰の靴⁈ さ、桜、大丈夫⁉」


「あ、ママ! 大変なんだよぉ~」


 英莉子が帰宅した事に気付くと、桜は猛ダッシュで玄関へと向かい、英莉子に抱きついた。その瞬間、今まで張り詰めていた糸がプツンと切れたように体が弛緩しかんし、目からは大量の涙が溢れ出した。


「ど、どうしたの? 何で泣いてるの? てゆうか、今誰か来てるの?」


「ぶぇ〜ん! 銀ぢゃんぐぁ〜、だおれででー、ぜんぜーがぎでぐれだのぉ〜」


「ちょ、ちょっと、落ち着いて桜。銀ちゃんがどうしたって?」


「こんにちは、大原さん。お邪魔しとるよ」


「……はっ? えっ、な、何で阿保先生が家に——」


「お嬢ちゃんからSOSの電話が来てのぉ、銀ちゃんが倒れとると」


「ぎ、銀ちゃんが倒れたですって⁉」


「あぁ、今様子を診ておった所じゃ」


「わ、わざわざ御足労頂いたんですか? も、申し訳ございません」


 英莉子は姿勢を正し、深く頭を下げた。姿勢を戻すと、心配そうな表情を浮かべながら先生に質問した。


「それで、銀ちゃんは……」


「うーむ。診た所によると……食べ過ぎじゃな」


 その拍子抜けな一言に、英莉子と桜は、同時に「はっ?」と言って、フリーズした。


「そ、それだけですか? 他に悪い所は無いんですか?」


「おそらく、健康体そのものじゃ。健康過ぎて、食欲が旺盛になり過ぎたのかもじゃな。わっはっはー」


「ママ、博士先生……なんかごめん」


「先生、お騒がせして、本当に申し訳ございません」


 英莉子は、先ほどよりも更に深々と頭を下げて謝罪した。桜も、英莉子をならい平身低頭して謝った。


「よいよい。二人とも、頭を上げてくだされ。今回は命に別条無かったが、本当に何かあったのなら、取り返しがつかんかったかもじゃしの。嬢ちゃんの勇敢な行動力に免じて、おとがめ無しという事にしようじゃないか。わっはっはー」


「そう言って頂けると助かります」


「とはいえ、食事管理はきちんとせんとじゃな」


「いつもは、食べ過ぎるなんて事しないはずなのに……って、あ! 今朝届いた段ボールが開いてる……。桜が開けたの?」


「ううん、桜が帰ってきた時から開いてたよ。これ、中に何が入ってるの?」


「小豆島から、中矢さんが送ってきてくれたオリーブの葉よ」


「あぁっ! 銀ちゃんが倒れてたとこに、オリーブの葉っぱが落ちてたけど、あれってもしかして、銀ちゃんが勝手に段ボール開けて食べてたやつなんじゃない?」


 それまで床の上で眠り込んでいた銀仁朗は、ゆっくりと上体を起こすと、観念したように事のあらましを白状しだした。


「す……すまん。ちょっと、一口だけ思て味見しよったら、これが美味ぁてなぁ。ほんで……つい、止まらんなってもうたんや」


「ダメでしょ、銀ちゃん! せっかく食糧危機が去ったと思ったら、食べ過ぎて無くなりました~、なんて笑えないでしょ‼」


「いや、はい、仰る通りで、返す言葉もございません」


「元はと言えば、私が仕事に行く前にきちんと荷物を管理してなかったのもいけなかったから、今回はお説教だけで済ませてあげるけど」


「説教はあるんやな……」


「当たり前でしょ! 先生にはわざわざうちに来てもらってるし、桜にも心配させて泣かせたんだからね‼」


「そだそだー! 桜がどんだけ不安だったか分かるぅ⁉」


 英莉子と桜からの叱責しっせきに堪え兼ね、銀仁朗は土下座をしながら「ほんっまに、すまんかった!」と叫んだ。


 一連の会話を傍から見ていた先生はというと、先程から口があんぐりと開きっぱなしの状態で硬直していた。それに気付いた桜が、先生の白衣の袖をチョイチョイっと引っ張り「大丈夫、先生?」と問いかけた。すると、少し意識を取り戻したのか、小さな声でつぶやいた。


「……何故コアラが普通にしゃべっとる? それに二人とも、さぞそれが当たり前かの様に会話しておるのは一体……」


「銀ちゃんお話出来るって、こないだ病院で言わなかったかなぁ?」


「た、確か鳴き声がどうとかいう話はしたような……」


「銀ちゃんは鳴かないよー。見ての通り、普通に喋れるから」


「わ、わしは動物医じゃ。もう四十年近くこの職に就いておる。そのわしが断言する……銀ちゃんはコアラじゃない!」


「いや、コアラやで。可愛い〜いコアラやで」


 銀仁朗は、自分なりの可愛いポーズを決めながらそう言った。


「うーん、そんなに可愛くはないけどー、確かにコアラだよ!」


「桜っこ、そこは否定すなや」


「銀ちゃんは、可愛いと言うか、愛嬌があるって感じよね」


「母上まで!」


「可愛いか可愛くないかとか、そんなのどうでもえぇんじゃ!」


「まさかの先生までも……」


「コアラが喋るとか、世界が驚愕きょうがくするレベルの一大ニュースじゃぞ! まぁ、一般家庭でコアラ飼ってる時点で異常なんじゃが……」


 久々に世間一般的な発言を耳にした英莉子は、深く共感した。


「ですよねぇ~。タブー扱いですよねぇ~」


「うぅむ……。これは個人的には、とても興味深い事案なんじゃが、銀ちゃんや大原さん達の事を考慮すると、世に出さん事が最も無難な選択なんじゃろうな……」


「桜達は、世界でただ一匹のしゃべるコアラをかくまってるって事だね。そう考えると、そそるねぇ~」


「何がそそるねぇ~、ですか! どこでそんな言葉と顔を覚えて来るのやら」


「わっはっはー。やはり、嬢ちゃんは面白いのぉ。とにかく、こないだ病院で伝えた通りじゃが、彼の存在は大っぴらには絶対にせんように、細心の注意を払うようにの」


「はい、その様に致します」


「おお、そうじゃった。銀ちゃんの具合じゃが、診た感じだと今は特に問題なさそうじゃから、安静にしておけばいずれ元通りになるじゃろう」


「せやな、今はまだ腹パンパンで苦しいけど、もう少し寝とったら収まるやろ」


 先生は、普段物を言わない動物を相手にしている為、診断結果について動物側からのコメントが返って来ると「お、おぅ、そうじゃな……」と、かなり調子が狂った様子で、こめかみをかきながら呟くのだった。


「今回は、本当にすまんかった。今後はこんな事にならん様に、摂生せっせい致します」


「銀ちゃん。こういう事態はあなただけの問題じゃないのよ。出来る限り、不要な心配はかけないで下さいね! あと、桜も」


「なーんでそこで桜の名前が出るのさ」


「今回はあなたが機転を利かせてくれたお陰で先生が来て下さった訳だけど、こんな事は本当に特別なんだからね!」


「でも、ママがスマホを家に忘れて無かったら、博士先生に来てもらわなくてもよかったかもしれないじゃん!」


「ぐぅっ……」


 先ほど桜が電話を掛けても繋がらなかったのは、英莉子がトイレにスマホを置いたまま仕事に行っていたからであった。思わぬところで娘からのカウンターパンチを喰らった英莉子は、ぐうの音を発してしまった。気を取り直そうと、すかさず話題を変えた。


「そ、そうだ先生。診療費はいかほどお支払いすれば宜しいでしょうか?」


「ん? ああ、そんなもんは不要じゃよ。別段悪い所は無かった訳じゃし、私は何もしておらんしのぉ」


「さっすが博士先生、太っ腹!」


 先生は、桜の言葉に「そうじゃろう!」と応えながら、その本当に太い腹部をポンポンと叩きながら大仰おおぎょうに笑った。


「先生、ほんまありがとう。そしてすまなんだ。また何かあった時は、家族共々宜しゅう頼んます」


「あー、動物側から頼まれ事をされるのも生まれて初めての経験じゃな。やはり調子が狂う……。まぁ、君の口から家族という言葉が出てきておる所をみると、ご家族と良好な関係が築けておるのじゃろうな。私はそこが一番嬉しく思う」


「銀ちゃんは、桜達の大事な大事な家族だよ! だから、この先もずっと大切にしていきたいです。だから、病気になったら、博士先生がすぐ治してあげてね!」


「うむ。善処すると約束しよう! では、これからも銀ちゃんを大事にしてあげるのじゃぞ」


 先生は、さっと片付けを済ませると、午後診療の準備があるという事で大原家を後にした。その帰り道、改めてコアラを一般家庭で飼う事への様々なリスクをかんがみて「やはり、犬猫を飼うのとは、全く異なる難しさがあるのぉ。しかも人語を喋るとか……。まぁ何にせよ、何も無い事が一番の便り、No news is good news.じゃな」と、独り言を呟いた。

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