第15話【ユーカリクライシス】

 便りのないのは良い便り、ということわざがあるが、これはまさに言い得て妙だと思う。何も起こらない日常こそが、実は最も平穏でありがたいものなのだ。

 もっとも、そうした静かな日々に限って、予期せぬ知らせは唐突にやってくる。

 そして今日、それは大原家にも訪れた。


「えぇーっ!」

「どうしたのお母さん?」

「さっき届いた銀ちゃんの餌の中に、こんな手紙が入ってたのよ」

「手紙? なんて書いてあったの?」

「それが……」


『拝啓 大原様 

 猛暑の毎日でございますが、いかがお過ごしでしょうか。

 さて、このたび大変申し上げにくいことがあり、ご連絡を差し上げました。

 実は、動物園の取り壊しが当初の予定より早まり、備蓄していた動物用の餌類も、急ぎ処分しなければならなくなってしまいました。

 つきましては、今月末までに最後のユーカリをお送りする予定です。

 誠に心苦しい限りですが、これが最後の配給となります。

 今後は、ご家族で銀仁朗くんの餌をご用意いただきますよう、お願い申し上げます。

 暑さ厳しき折、どうかお体ご自愛くださいませ。 敬具』


「……だって」

「え? じゃあこれから、銀ちゃんの餌は自分たちでどうにかしなきゃいけないってこと?」

「そうなるわねぇ……」

「でも、餌用のユーカリなんて売ってないよね?」

「観葉植物なら見かけるけど、それを銀ちゃんにあげるわけにはいかないし……」


 そんな深刻なやり取りを近くで聞いていた銀仁朗が、ぽてぽてと近づいてくる。

「どないしたんや?」

「あぁ、銀ちゃん。な、何でもないわよ」

「そうか? なんや、わしの餌の話しとったんとちゃうんか?」

「あぁ、聞こえてたのね……。じゃあ正直にお話するけど、あなたの餌、もうすぐ尽きちゃいそうなの」


「……やっぱりな」

「やっぱりって……知ってたの?」

「いや、まぁ、いずれそうなるんちゃうかなと思ってただけやけどな」

「銀ちゃんのご飯、これからどうしましょう……」

「わし、別にユーカリやのぉてもええで」

「えっ?」

「せやから、ユーカリやなくても、食べられるもんあるさかい」


「た、例えば?」

「そやなぁ……ほうれん草とか小松菜とかは、まぁまぁ食べとったな。人参の葉っぱもええけど、茎はあかん。あれは口に合わんねん。笹も試したことあるけど、あれはイマイチやったな……。あ、せや、オリーブの葉も割と好きやったで。苦味のあるユーカリに味が似とったさかい」


「へぇ、結構いろんなもの食べられるんだね。よかったわ……」

 英莉子は胸をなでおろすと、さらに質問を重ねる。

「レタスとかキャベツはどう?」


「あー、水分の多いんはあまり好きやないな。食べると腹壊してまうねん。果物なら、バナナが好きやな。りんごと、みかんもイケる口やな。こっちも食べ過ぎるとお腹ピーピーなるから、控えめにせなあかんけど」


「じゃあ、スーパーで買える食料も結構あるってことね。それ聞いて一安心だわ」

 その会話を横で聞いていた玲は、何か思いついたようで、口を開いた。


「ねぇ、お母さん。もしかしたら、銀ちゃんの餌、もらえるかもしれない」

「え? 一体どこから?」

「麻美のおじいちゃん、小豆島でオリーブ育ててるって言ってたよね。収穫するのは実だけなら、葉っぱは……もしかしたら、もらえるかもって思ったんだけど」


「うーん、どうなんでしょう。でも、ご無理は言えないし……」

「ダメ元で麻美に聞くだけ聞いてみてもいいかな?」

「絶対に無理強いはしちゃダメよ。オリーブの葉も、私たちの知らない使い道があるのかもしれないし」


「うん、わかった。それとなく聞いてみるね」

 玲が自室へ向かおうとしたとき、英莉子はふと声をかけた。

「玲!」

「なに?」

「ありがとね、銀ちゃんのこと、いろいろ考えてくれて」

「だって……家族のことだもん! 連絡取れたらまた報告するね!」


 自室に戻っていく玲の後ろ姿を見送った英莉子は、娘の成長をひしひしと感じ、思わず目を潤ませた。

「母上、どないしたんや?」

「ううん、なんでもないよ」

「でも、泣いて——」

「子どもの成長を喜ばない親なんていないでしょ! レディに涙の理由を聞くのは不躾ぶしつけってもんよ、銀ちゃん」


「あぁ、すまんすまん」

「ほんと、子どもってあっという間に成長しちゃうのね……。嬉しいけど、ちょっと寂しいわ」

「コアラのメスには、お腹に赤ん坊を入れる袋があんねや。カンガルーとかと一緒やな」

「そうなの? 知らなかったわ」


「赤ん坊は、おかーちゃんの袋の中で大きくなるまで育つんんや。お乳も袋の中で飲めるんやで」

「袋の中でお乳飲むんだ! 知らないことだらけだわ」

「動物も多種多様やからな。ある程度大きくなるまで、ずっとそこにおるんや。やがて、自分から外の世界に興味持って、ぴょこっり顔出すんや。そんで、タイミングが来たら……袋から飛び出して行くんや」


「カンガルーの赤ちゃんが袋から出てくる映像なら、テレビで見たことあるわ。なんだか、子どもの巣立ちそのものね……」

「わし、妹がおってな。おかんに、妹が袋ん中におった時のことを聞いたことがあんねん」

「子育てのことにまで興味があったの? ほんと好奇心の塊ね……」

「わしには腹の袋がないさかい、どんなもんなんか気になってな」


「それで、お母様は何て?」

「毎日ずっと袋の中におるから、子どもが育ってる実感あんまなかったらしい。ほんで、いざ子どもが外に出た時に初めて気づくんやて。こんなに重かったんや〜って」


「体が軽くなって初めて、成長の重さを実感するのね……」

「そういうことや。子どもの成長っちゅうのは、親の元を離れんと実感できひんもんなのかもしれんなぁ」

「子どもの成長を一番感じる瞬間は、親の元を離れる時か……。嬉しくもあり、何とも寂しく感じる瞬間ね」

「まさに、板挟みっちゅうやっちゃな」


「その通りね。でも、私自身が親として成長して、子どもの成長をもっと喜んであげられるようにならなくちゃね!」

「親が子離れせんことには、子どもの成長の阻害になってまうからなぁ」

「よぉし、私も頑張るぞー」


 英莉子の子離れ宣言をした直後、遊びに出ていた桜が帰宅した。

「たでーまー」

「あ、おかえり桜~! ママがぎゅーしてあげるわねぇ~」

「ママ、急にどうしたの?」

、まだ離れなくてもいいよねぇ~」

「何の話してるの、ママ?」

「ママの大切がちょっぴり減っちゃいそうだったから、桜をギューして補給してるのよ~」


「よくわかんないけど、ママのギュー大好きだから、もっとしてもいいよ!」

「ちょいちょい、お二人さん。挟まってまっせ、コアラさんが。ギューなってまっせ」

「あ、ごめー銀ちゃん。桜で心のスキマを埋めるのに夢中で気づかなかったわ」

「板挟みならぬ、やな。こりゃ、子離れには、まだまだ時間かかりそうやなぁ」



 夕食前、麻美と連絡を取り終えた玲が、弾んだ足取りで英莉子のもとへやってきた。

「お母さん、麻美から返事きたよ!」

「なんて言ってたの?」

「それがさ、ちょうど来週お兄さんと小豆島に行く予定なんだって。毎年、畑仕事とかのお手伝いをしに行ってるらしくて」


「まぁ、偉いわね! それで?」

「それでね、よかったら私も一緒に来ないかって誘われたんだけど……」

「それはさすがにご迷惑でしょう?」

「だよねー。一応、桜も一緒に来てもいいって言ってくれてるんだけど」


 いつぞやと同じく、自室にいたはずの桜が、話を聞きつけてやってきた。

「なになにー? 桜が何だってー?」

「あんたは、地獄耳か」

「で、何のお話してたのかなぁ?」

「麻美がね、小豆島に一緒に行かないかって誘ってくれてるのよ」

「マジ? 行く行く! 絶対行く‼」


 娘たちの気持ちも分かるが、相手方の負担を考えると、背中を押すのを憚れた。

「でもねぇ……。ありがたいお誘いではあるけど、やっぱりご迷惑だと思うのよねぇ」

「麻美のお母さんはオッケーって言ってくれてるらしいよ。あと、お兄さんも問題ないって」

「お兄さんって、おいくつなのかしら?」

「大学三年生で、二十一歳らしい。去年も車で行ったらしいから、運転も慣れてるって」


「なるほどね……。じゃあ、ママが麻美ちゃんのお母さんと直接お話しして、きちんと承諾を得られたら、小豆島行きを考えましょうかね」

「やったー! 旅行だー!」

 両手を上げて歓喜する娘をたしなめる。

「桜、喜ぶにはまだ早いってば! まだ行けるとは決まってないからね」

「じゃあ、麻美に電話してみるね。今は家に居るって言ってたし」

「繋がったら私に代わってちょうだい」


 玲が電話をかけると、すぐに麻美が応答した。

「もしもし麻美? さっきの件、お母さんにしたら、麻美のお母さんと話がしたいって言ってるんだけど、今お電話できるかな?」

「いいよ~。ちょっと待ってて~。ねぇママ~。玲から電話なんだけど、小豆島の話したら、玲ママからお話したいって言われてるんだけど~」


 しばらくして、落ち着いた声が電話越しに響いた。

「あ、もしもし、お電話代わりました。麻美の母です」

「あ、いつもありがとう、じゃなかった。お、お世話になっております。大原玲です」

「あ、玲ちゃんか。こんにちは。いつも麻美と仲良くしてくれてありがとね。あの子、いつも騒がしいから、迷惑かけてない?」


「いえいえ、いつも麻美の明るさに元気もらってます」

「そう言ってくれて嬉しいわ。お母様から何かお話があるって聞いたけど、ど小豆島の件かな?」

「あ、そうだった。ちょっと母に代わります」

 そう言うと、玲は英莉子に電話を渡した。


「あ、もしもし。いつもお世話になってます、玲の母です」

「こんにちは。この間は麻美がお家にお邪魔させて頂いて、ありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそです。あ、そうだ。お土産で頂いたお素麺、本当に美味しかったです。お気遣いありがとうございました」


「喜んでいただけてよかったです」

「それで、先程玲から伺ったのですが、娘達が麻美ちゃん達と小豆島に行くとかなんとか……」

「毎年家族で行ってるんですが、今年も旦那の仕事の都合が合わなくて、息子と麻美と二人で行かせる予定にしてたんです。ご都合さえ良ければ、うちは全然来て頂いて構わないですよ」


「ご迷惑にはなりませんか?」

「全然! うちの父も賑やかなのが好きですし、田舎だから部屋も余ってます。麻美も、是非一緒に行きたいって言ってますから!」

「そう言って頂けると、ほんとうにありがたいです。それでは、お言葉に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか?」


「もちろんです! 父には連絡しておきますので、どうぞお気兼ねなくいらっしゃってください」

「ありがとうございます! では、よろしくお願い致します」

「こちらこそ、よろしくお願いしますね」


 電話を切ると、英莉子は玲と桜の顔を見て、にっこりと微笑んだ。その笑顔がオッケーサインなのは言うまでもない。 

 二人は揃って歓喜の声を出し、思わずハイタッチした。

 かくして、玲と桜は、小豆島行きの切符を手に入れたのだった。

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