第5話【博士先生】
金曜日の夕食後、三人は先日電話で予約をした動物病院に向かう準備をしていた。
「二人とも、そろそろ病院に行くわよ」
「お父さんは?」
「仕事終わりに直接向かうって言ってたから、駅前で落ち合う予定」
「銀ちゃんは連れて行かないのー?」
「今日は先生にお話しを伺うだけだし、銀ちゃんもさっき寝たとこだから、お留守番しててもらおうかなって思ってる」
「そかー。じゃあ、ひとまず三人で向いますかー」
時刻は十八時五十分。最寄りの駅前のロータリーに着いた三人は、健志の帰りを待っていた。
「あ、あれパパじゃない? おーい、パパ~」
「みんなお待たせ。少し電車が遅れてたんだけど、予約の時間にはまだ余裕がありそうだね。ちょっと早いけど、すぐそこだし行こっか」
健志はそう言って、駅の南改札を出て右側にある、白い二階建ての建物を指さした。その指先の方向を見た桜は言った。
「あぁー、ここか。ここなら前からあるの知ってたけど、『ABOアニマルクリニック』って看板だから、ずっと読み方『エービーオー』だと思ってた」
「昔は『アボどうぶつクリニック』って表記だったんだよ。でも、どこぞの悪ガキがイタズラしちゃってね、アボの『ボ』の字の点々を取っちゃったらしいんだ。そうなると、どうなるか分かるよね」
「最低だねー。どの時代も、下らないことするおバカさんがいるんだなぁー」
「ママも、全然笑えない事して、身内でバカ騒ぎしてる男子って本当嫌いだわ」
「分かるー。うちのクラスにも、大きい声で叫んでたら何でも面白いと思ってる男子かいるんだけど、普通に
「いつの時代も、男子はアホな生き物なんだよな。でも、いつか気付くんだ……。これじゃ女子にモテないんだって事に!」
「パパは、それに早く気付けたから、ママと結婚できたってことだねー」
「そ、そうかもしれないなぁ」
「パパがアホじゃなくてよかったー。そうじゃなきゃ、桜はこの世に生まれて来れなかった訳だしねー」
「そうねぇ。私もアホな男子は嫌いだから、パパがアホちゃんだったら見向きもしてなかったかもだわ」
英莉子の言葉に、健志は胸をなで下ろした。
「アホな事せず、真面目に生きてきて良かったです~」
端から聞いていると、ちょっと
「ねぇ。入口の前で喋ってたら邪魔だし、そろそろ中に入らない?」
三人は顔を見合わせ、苦笑いと共に、同時に「そうだね」と応えた。
入り口の自動ドアが開くと、健志を先頭に病院の中へと入っていった。入店者に気付いたピンクのユニフォームを着た受付の女性が、笑顔で元気よく挨拶をしてくれた。
「いらっしゃいませ、こんばんは」
「十九時に予約していた大原と申します」
「あ、お電話頂いた件ですね。えっと、十九時までまだ少しありますが、今は
「ありがとうございます」
「あの……今日は、連れて来られて無いのですか?」
「え? あ、あぁ、今日は先生に色々とお話を伺えればと思いまして、私たちだけで来させて頂きました。ご迷惑をおかけします」
「いえいえ。私も興味……と言いますか、ちょっと拝見してみたかっただけですので」
「で、ですよねぇ。また何かありましたら連れて来させて頂きますので」
「是非‼ あ、すみません、大きい声出しちゃいました……。んんっ、どうぞこちらへ」
受付の女性は、診察室前まで案内してくれた。白いスライド式のドアをコンコンと二回ノックし、先生へと来訪者の到着をお知らせした。
「先生、例のご予約の方々が来られました」
「はいどうぞー」
「失礼致します。阿保先生、お久しぶりです。以前、ポロンがお世話になっておりました大原です」
「あぁ、柴のミックス犬じゃったのぉ。覚えとるよ。長生きしてくれた子じゃな。君も当時は中学生くらいじゃったが、随分大きくなったようで何よりじゃな」
「はい、お陰様で。先生に覚えていて貰えて光栄です。今日は、先日妻からお電話でもお伝えしているかと思いますが……、うちでコアラを飼うことになりまして。飼育に差し当たって、何かアドバイスなどをお聞きできたらと思い参りました」
「いやぁ、その電話を貰った時、正直イタズラ電話だと思ったんじゃよ。でも奥さんからポロンちゃんの話を聞いて、あの大原さんがそんなイタズラなどして来んじゃろうと思って、こうやってお話をお受けしたんじゃよ。ほっほっほ」
「あなた、ポロンちゃん様々ね」
「そうだね。今度実家に帰ったら、ポロンの好きだったチーズをお供えしておくよ」
「とはいえじゃ。私も長いこと獣医をやらせてもらっておるが、さすがにコアラを診たことは無い。アドバイスと言っても、大した事は出来んかもじゃぞ」
「そうですよね。犬猫とは全く違いますもんね。本当に無理を言ってしまい、申し訳ございません」
「じゃが、私の旧友に東京の方で動物園獣医師をやっとる奴がおってのぉ。昨日電話で話を聞いてみたんじゃよ」
「お手間をお掛けして恐縮です」
「いやいや、久々に旧友の元気そうな声を聞けたんで、私も嬉しい限りじゃったよ。そやつに事情を話したら、やっぱりイタズラを疑われたがの。ほっほっほ」
「あはははは……」
先生は、何やら資料を机から取り出し、それを見ながら話始めた。
「さて、まずはコアラの生態から話していこうかの。コアラという名は、アボリジニという、オーストラリアに元々住んでいる人々の、『水を飲まない』という意味の言葉に由来しているそうじゃ。その意味の通り、直接水を飲むことは殆どせん。コアラの主食はユーカリという木の葉っぱで、それを食べることで水分補給をしておるんじゃ。じゃが、ユーカリの葉には油分が多く、食用には向かない上に、毒まであるときた。それでもコアラがユーカリを主食に選んだのは、野生下で生存率を上げる為、他の動物や虫達すら食べない物を敢えて選ぶ事によって、食糧危機が起こらないようにしたんじゃな。その点で言うと、パンダが竹や笹を食べるようになったのと同じじゃの。さて、ここで一つお嬢ちゃん達に問題じゃ。パンダとコアラに共通する事は何じゃろうか?」
「えー、何だろ? 可愛いとか」
「言うと思った。パンダは中国で、コアラはオーストラリアに生息してて……。うーん、何だろ。分かりません」
「妹さんの言った可愛いってのは、あながち間違いじゃないぞ」
「マジか、やった!」
小さくガッツポーズを作る桜の姿を見て、先生は微笑んだ。
「ほっほっほ。さて、パンダとコアラに共通する事の答えとは……ズバリ弱いことじゃ」
「あー確かに。強いイメージは全然無いなぁー」
「でも、何で両方ともあんなに可愛い姿になったのかな?」
「お姉さんの疑問に関しては、これと言った正解は分かっていない。じゃが、私が考えるには、パンダもコアラも、多くの人間が彼らの保護活動をしておる。もしかしたら、そうやって人の手を借りることで、さらに生存確率を上げられるように、保護してあげたいと思わせられる容姿に神様がしてくださったのかもしれないのぉ」
「可愛いは正義だもんねー」
「可愛いは正義か。面白い表現じゃな」
桜は、先ほどから阿保先生を見ていて、ふとある事に気が付いた。それを伝える為に玲の耳に顔を近づけて
「……ねぇお姉ちゃん。ずっと思ってたんだけど、先生ってアレに似てない?」
玲も小声で聞き返す。
「アレって何?」
「あの、名探偵コ◯ンに出てくる博士だよ」
「あ、似てるー!」
玲は、小声で会話をしている事を忘れ、思わず大きな声で同調の意を示してしまった。
「こら、あなた達、少し静かにしてなさい!」
「わっはっはっはー。それは、阿◯博士のことかい?」
「あ、ヤバ。全部聞こえちゃってたみたい」
「実はのぉ、よく言われるんじゃよ。昔、小さい子が待合室に置いてある名探偵コ〇ンの五巻を持ってきて『この後ろに書いてある絵って、先生だよね』と言ってそのイラストを見させられた時は、みんなしてゲラゲラ笑ったよ」
「ですよねー! しゃべり方とか、なんなら名前もちょっと似てるし!」
「こら、桜! 先生に失礼でしょ。どうも、すみません」
「いいんじゃよ、問題無い。では、コアラの話の続きに戻ろうかの」
健志は頭を下げ、先生へ話の続行を求めた。
「娘達が話の腰を折って申し訳ございません。続きをお願いします」
「うむ。コアラはとても弱い生き物じゃ。故に食べ物で別の動物と取り合いになったら絶対に負けてしまう。だから誰も食べようとしない物を敢えて選んで、それらをエネルギーとして消化吸収できるように進化したんじゃ」
「なんか可哀そうだなぁー」
「お嬢ちゃんの気持ちも分かるが、それがコアラ達が選んだ生き方なんじゃよ」
玲は、質問をする為に小さく手を挙げた。
「先生、質問してもいいですか?」
「はい、どうぞ」
「ユーカリ以外にコアラの食べられる物ってあるんですか?」
「いい質問じゃな。聞くところによると、ユーカリ以外にも、アカシアやティーツリーを好んで食べる個体もおるそうじゃ。基本的には草食動物なんで、肉や魚は厳禁じゃな。もし食べてしまったら消化不良を起こしてしまうぞ。当然ながら人間の食べとるような、パンやお菓子なんかも与えてはならん。コアラ自身が好き好んで食したいと思う野菜や果物なんかがあれば、
「分かりました。ありがとうございます」
「他には何か気になる点はあるかの?」
「私からも一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい、奥さん。一つでも二つでもどうぞ」
「うちの子が病気になった際は、こちらにお世話になっても宜しいのでしょうか」
「それは勿論構わんですよ。私の知識でどうにか出来たらええんじゃが……。必要とあらば、友の助力も借りるかもしれんがの」
「そう仰って頂けると大変助かります」
「ちょっとでも心配事があれば、いつでも来て下さい」
「そうさせて頂きます」
再度、玲が手を挙げ尋ねる。
「先生、ちょっと変な質問してもいいですかね」
「ん? 変な質問とな。私に答えられるかのぉ」
「あの、コアラって、喋ります……か?」
「ほぉ? コアラが鳴くか、という事なら鳴くことも当然ある。見た目に反して、とても低音で鳴きよるぞ。近所迷惑になるような音量を出すことは、まず考えられんがの」
「あ、あ、はい。あ、安心しました。ははは」
玲の期待した回答ではなかったが、それ以上聞くべきではないと悟り、苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「最後に一番大事な助言をしておこう。良いか、
「桜喋っちゃいそう……。コアラ飼ってるなんて絶対自慢したいじゃん」
「そうじゃのぉ……。なら、こういうのはどうじゃ。知り合いから、おじいちゃんウサギを引き取って飼う事になったと話せばよい。この話をお友達にしたら、きっとウサギさんを見てみたいと言われるじゃろう。そしたらこう言う。『おじいちゃんウサギさんだから、人が沢山くるとビックリして死んじゃうかもしれないって動物病院の先生に言われてるからダメなんだー』って。こう言えば分かってくれよう。お友達に少し嘘を
「コアラをウサギに言い換えるんだね。それなら出来そう!」
「新しい家族を迎え入れたこと自体、あまり大きな声で他の人に言わない方が良いのは確かじゃ。気をつけなされよ」
「ありがとうございます、博士先生」
「博士先生とな。ほっほっほー。本当に面白い事を言う嬢ちゃんじゃのぉ。気に入った! 嬢ちゃんだけは特別に、これからも博士先生と呼ぶ事を許可しようじゃないか」
「ありがとー博士先生。これから銀ちゃんを宜しくお願いしまーす」
「銀ちゃん? あぁ、コアラの名前かの」
「そう、銀ちゃん。本名は銀仁朗って言うらしいけど、銀ちゃんの方が可愛いでしょ」
「なるほど。おそらく毛色に由来しておるのじゃろうな。では、ウサギさんの毛の色も銀色で話を通しておくとよいの。いいかい、これは人を
「わかった。頑張って銀ちゃん護ります。今日は本当にありがとうございました」
「また近々、銀ちゃんを連れて来なされ。私もコアラの生態には興味があるし、簡単な健康診断程度は私にも問題なく出来るじゃろうからの」
健志は椅子から立ち上がり、姿勢を正すと、深々とお辞儀をした。
「そう言って頂けると、本当に助かります。では、本日は貴重なお時間を頂きましてありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します」
「天国のポロンちゃんにも宜しくお伝え下され」
「はい、ありがとうございます。では、失礼いたします」
「健ちゃん、先生とてもいい人だったね」
「そうだね。本当に良い先生だよ、あの人は。昔に比べて、恰幅が良くなってたから……さらに阿〇博士にそっくりになってたな、はははっ」
「あなたまで……たしかに似てたけど」
「でしょー。始めっからずっと思ってたんだよ。どっかで見たことあるんだよなーって。誰だ誰だーって、めっちゃモヤモヤしてたんだよ。気付いた時は、そーだ、あの博士だーってなった!」
「アハ体験か。桜があんなこと言い出して、先生に怒られなくてほんと良かったわ」
「お姉ちゃんも、でっけー声で『似てるー』って騒いでたじゃん。でも、博士先生は優しいんだから良いのー」
「そ、それでも失礼なのは確かだよ! あんたはもう少し大人になりなさい」
「お姉ちゃんも、まだガキんちょでしょ」
「あんたよりは何倍も大人ですー」
「三年だけじゃん違いは」
「年齢の差じゃなくて、中身の問題ですー」
「二人とも、外で大きい声出さないの! まぁでも、阿保先生は本当に優しくて信頼できるお方だと思うわ。今度は銀ちゃんも連れて、改めてご挨拶に伺わないとだね」
「きっと受付のお姉さんが喜ぶねー。帰る時の圧が凄かったし……」
玲は動物病院を出る際に、受付にいたお姉さんが、次の来診予約を取ろうと必死になっていた姿を思い出す。
「あー、あのお姉さんね。相当見てみたいんだろうね、銀ちゃんのこと」
ワイワイと談笑しながら歩いている三人をよそに、健志は先生の言葉を回顧しながら小さな声で「何かを護る為に必要な嘘もある……か」と独り言ちた。
「どうしたの、健ちゃん?」
「いや、先生良い事言ってたなぁって思ってさ」
「……え、何急に? あなたもしかして、私たちに何か隠し事でもあるの?」
「いやいやいや、無いよそんなの」
「その慌てっぷり……逆に怪しいわね」
「だから無いって……たぶん」
「何よ、たぶんって」
「いや、ありません。全然。全く」
「そう。まぁそれが家族の
「勘弁して下さいよ〜」
「うちのパパって、本当ママに頭上がらないよねー」
「まぁ、そこが愛すべき所なんじゃないの、知らんけど」
「パパは、パンダとかコアラみたく可愛くはないけど、護ってあげたくなる感じが良かったのかもねー」
「お母さんは、お父さんの保護活動家って訳か……それウケるね!」
姉妹は、すっかり暗くなった街並みの中、とても明るい声で笑い合った。不思議と四人の周囲だけが、夜闇の中でほんのり明るく照らされているように感じた。
それは、とても暖かく優しい光であった。
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