第16話 赤ちゃんライフ(授乳編)
前世の記憶を取り戻した日から二週間が経っていた。
日当たりのいい縁側で、俺は優しい風に撫でられながら唸っていた。
「ん~……」
目の前にはよく手入れされた日本庭園が見える。丸みを帯びた低木が庭園を彩り、その手前の池には色とりどりの錦鯉が優雅に泳いでいた。
綺麗だ。ここから見える光景は絵に描いたように美しく、俺だって初めは情緒あふれるこの庭園を眺めて感動したものだ。
だがさすがに見飽きた。俺の関心はもう庭園にはなくて、すでに別の所にあった。
「無理だよな……」
誰に言うでもなく俺は呟いた。木目の床に両手をついて、足をのばして座ったまま池を眺め、はぁ……とため息をつく。
ここ数日で結構喋れるようになっていた。赤ちゃんの身でありながら喋れるのはありがたいが、だからこそ悩みが生まれたというか、早い話が美夜子に俺が転生したことを打ち明けたかった。
「あぁ……どうしようかなぁ……」
喋れるから今なら話せる。俺は真昼だよって、また一緒に暮らせるよって……やっぱりダメだ。
(言えない。転生したって信じてもらえるかどうかって話じゃない。そんなことじゃなくて、もし言ってしまったら美夜子を傷つけるかもしれないから……俺がそうだったからわかるんだ)
恋人が転生したら自分の子供だなんて悲劇だ。また会えたって最初は喜んでくれるかもしれないが、親子じゃ絶対に結ばれることはない。もう二度と、恋人には戻れないんだ。
その事実で俺は絶望した。胸が締め付けられる思いで悩み、前世の記憶を持っていると伝えられないもどかしさに悶々としていた。
「くそ……絶対言えないよな」
恋人を失って傷ついてる美夜子をこれ以上傷つけるなんてできない。
それにこんなこと話したら、特殊な赤ちゃんとして人体実験にされるなんてこともありえる。
「やっぱりこのことは、俺の心の中にしまっておこうかな……」
「赤ちゃんがなに一丁前に悩んでるんですか?」
子供らしい高めの声がした。首を回して見やれば、小学校低学年くらいの女児がこっちに歩み寄ってきていた。彼女の動きに合わせて薄い緑色のワンピースの裾が揺れる。
「お前か……
こいつは
凪の頭を見ると、獣系の魔族の証が見てとれた。チョコレート色の髪を一本の三つ編みにして背中に流しているその頭に丸っこい獣耳があった。
この耳は、凪が
「さっきからブツブツと言って耳障りなんですけど?」
「いいだろ、俺にだって悩みくらいあるんだよ」
「悩みって……相変わらず気持ち悪いですね。喋る赤ちゃんってだけでも気持ち悪いのに、悩む赤ちゃんって」
「鬼の子だからな。喋ったり悩んだりしても不思議じゃないだろ。普通の赤ちゃんじゃないんだから」
不快げに顔を歪ませる凪に落ち着いた調子で言葉を返す俺だったが、気づけば眉間に皺が寄っていた。
相変わらずはこっちのセリフだ。いつも俺を軽蔑して、気持ち悪いとか耳障りだとか、好き勝手言って……それだったら俺にだって言いたいことがある。
「お前だって生まれてまだ一歳と数カ月だろ。人のこと言えないよな? 小学校低学年くらいにしか見えないし、本当だったらオムツ姿でよちよち歩いてる歳だろ」
「ちっ」
「ああ……! 今舌打ちしたな……!」
やっぱりこいつ苦手だ。こうやって話せば口喧嘩ばかりだし、なんなんだコイツは。
「弁が立つ赤ちゃんですね。面倒です」
「お前だって弁が立つ幼児だろ」
「幼児じゃありません、女児です。獣系の魔族は成長が早いんですからこのくらい普通です」
「いいなー俺は赤ちゃんのままなのに……」
ぐぅぅぅ……。
「お腹空いてきたな……美夜子に用意してもらわないと」
「この変態。どうして美夜子さんみたいなすごい人からこんな気持ち悪い赤ちゃんが……」
凪がぐちぐち言ってるが無視する。
俺はおぎゃぁぁおぎゃぁぁと泣いて美夜子を呼んだ。
それを見た凪が、蔑みの視線を俺に向けてくる。
「うわぁ……ちゃんと喋れるくせにミルクを要求するときだけおぎゃおぎゃ泣いて赤ちゃんぶるなんて、本当に気持ち悪いですね」
言いたい放題だな……くそっ凪め。でも仕方ないだろ。赤ちゃんなんだからこうやって呼ぶ方が効率いいんだよ。
そう思いながらおぎゃおぎゃしていると廊下の方から、どうしたのー、という優しげな声が近づいてくる。
「よしよーし、ママが来たからもう大丈夫だよー」
和室から縁側に美夜子が歩み寄り、俺を抱き上げてくれた。
「ミルクかな? それともオムツ?」
「ミルクを用意してくれ」
「じゃあ待っててね、今あげるから……あ、もうお昼だ。ごめんね、お腹空いてたよね」
俺を抱えたまま美夜子は和室に戻ると、座卓の前で膝をついて座った。
「おっぱい飲もうねぇー、いっぱい飲んですくすく育つんだよぉー」
Tシャツをめくり上げ、白いブラジャーに包まれた豊満な胸を突き出してきた。
ああ、おっぱいだ……肌も白いし、大きさも十分、まさに美乳だ。
美夜子がブラジャーを外そうとしたところで、ぞっとするほど怖い声が聞こえてくる。
「変態変態変態このクズ。美夜子さんから授乳されるなんて代償として命をささげるべき行為です」
やばい! 殺気だ!
縁側の方から刺すような視線を感じ、俺は振り向いた。
殺意むき出しの目だ。凪がこれ以上ないくらい軽蔑した顔で俺を睨んでいる。
「美夜子、粉ミルクで頼む」
「えー、今日も飲んでくれないの?」
「頼むから、粉ミルクを用意してくれ」
「あぁ、うん、日向がそれでいいなら……じゃあ待っててね、用意してくるから」
俺を座布団の上に置き、台所に向かう美夜子の背を見送る。
ふー、あぶないところだった。凪は美夜子のこと大好きだもんな。もしあのままおっぱいにしゃぶりついていたら、なにされるかわかったもんじゃない。
こんな風に凪の邪魔はあるけど、美夜子に育てられる赤ちゃんライフを送っていた。
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