第36話〈ロストグラフ王国編 最終話〉 「ロストグラフ出立・後編」

 出立の日の早朝。

 俺はブリガンディに呼び出されていた。

 昨日すでに彼女を含む主立った面々には挨拶を済ませていたのだが、まだ何か話があるのだろうか。


 ニュトとの別れからすっかりシナシナにしおれていた俺だったが、いつまでもメソメソしていたらみっともない。

 よし、と頬を叩き、約束の場所へ向かった。


**


「おす、ツキト。今日も元気なさそうだなー」


 ニカッ、と爽やかな笑顔で俺を迎えると、開口一番、彼女はそう言った。


「見えてないだろ」


 一部だけ透明な姿を誰かに見られたらまずいので、最近外に出るときは大体全身を服で覆っている。


「うひひ、アタシくらいになると、姿勢でそいつの気分が分かるんだよ。まあそれでもちょっとはシャキッとしてきてくれたんだな。嬉しいぜー」


「まあ……そりゃお前には世話になったし、最後くらいは情けない顔なんて見せられないからな」


「顔、見えないけどな」


「だな」


 ははは、と彼女が快活に笑うと、なんだか俺も笑いがこみ上げてきた。

 ブリガンディには人を元気にする力がある。間違いなく。


 城内の敷地の隅にある空き地。

 ここでよくブリガンディやバスタークと作戦会議をしたな。


「それで用って? グランデル王とシスティーユには昨日挨拶したし、単なる特使の出立で六王兵が見送るのもおかしいから、今日はひとり孤独に旅立つ予定だったんだが」


「んー、まあ、それなんだけどな。なんつったらいいか……」


 ブリガンディはにこやかな笑顔のまま、けれどらしくもなくモジモジとしながら言い淀む。

 視線が泳いで、頬をぽりぽり掻いたりして、およそ「赤鬼」らしくない。


 なんだ?


 えーっと……。


 いや、これってもしかして……あれか?


 俺のこと気に入ってるって何度も言ってくれるし、ひょっとするとひょっとする……のか?


 「ツキトのことが好きだ!」なんて言うんじゃ……。


 つまり告白……──


 ──そのとき、不意に過去のトラウマ。


 今や半年よりもっと前に思える、日本の最後の記憶が蘇る。


 罰ゲームで告白してきた学校の先輩。

 すっかり舞い上がった俺。

 この場から消え去りたいなんて考えて……


 あれはほんとしんどかったよなぁ……。


 ……。


 ……いや。


 ……しんどかったか?


 そりゃもう消えたいとは思ったが、そのあとすぐにこの世界へ転移して、ニュトに会ってバスタークと戦って、無我夢中で半年間駆け抜けて……


 人が死ぬのも見た。


 自分自身も死にかけた。


 でも俺は今ここで生きている。


 ロストグラフで経験したことが壮絶すぎて、あんなのトラウマに入らないじゃないか。

 むしろ感謝したいくらいだ。

 あのおかげで、俺は自分の生き甲斐を見つけられたんだから。


 生き甲斐。


 すなわち、ニュトを救うこと──。


 ……。


 生き甲斐か……。


「あのな」


 俺が空想の世界に入ってしまってると、ブリガンディがやっと口を開いた。

 いかんな。姿を消している時間が長いと人に認識されないから、つい思考の展開が癖になる。


 ブリガンディはじっと俺を見ていた。プラチナレッドの瞳がキラキラ光ってる。


「アタシ、ツキトが好きだ」


 ──ドキッ。


「陛下への敬意とも、姫様への敬慕とも違う。こんな感情は初めてだ。ツキトのことを考えると頰が熱くなって、鼓動が速くなる」


 ブリガンディが一歩近づく。


「らしくねーって思うだろー? でも、それだけじゃないんだ。ツキトといるとワクワクするんだよな……。姫様と稽古をしたり、蛮族を狩ったりするのの延長だ。っていうと、ロマンチックじゃないけどさ。あのな、不謹慎だから言わなかったけど、アタシお前と一緒にボドと戦ったとき、少しワクワクしちゃったんだよ」


 それは、ブリガンディらしいと言えばらしいが……。


「アタシは兄ちゃんが三人いるんだけどさ、弟がいたらツキトみたいな奴がいいなー、なんて思ってた。でも、やっぱ違った」


 ずい、とまた近寄る。

 俺は壁際へ詰められる。


 ブリガンディは俺より背が高い。

 このドキドキが告白されたからなのか、何かされそうだからなのか、それも不安なのか期待なのか──はたまた全部なのか、分からない。


「だってツキトを見てると、発情するもん」


「はっ、発情!?」


 慌てて体がのけぞるが、後頭部を壁にぶつけただけだった。


「しょ、しょっちゅうじゃないぞ? 夜中に二人で会うときとか、顔を近づけて話すときとか……アタシも初めての経験だから最初は怖かったけどさ、あ、これってそういう感情なんだ──って、だんだん分かるようになってきて。ツキトのこと思いっきり抱きしめたくなるんだよな。

 ……あははー、ストレートすぎてちょっと引いたか? ……でもアタシ、この気持ちに嘘はつきたくないなって思って……」


「……うん」


「出立の日に言うのは卑怯だって分かってたけど、明日からお前がいないってことが逆に背中を押してくれたっていうか……旅立つ前に言っときたかったんだ。

 いつものアタシならそんなこと気にせずバーンと言っちゃう気がするんだけどなー。本当に、らしくないって分かってる」


 俺はハッとした。

 ブリガンディの目は、かすかに潤んでいた。

 どんな苦境にあっても涙ひとつ見せなかったブリガンディが……。


 彼女は、心底俺を想ってくれて、悩んで、勇気を出してくれたんだ。

 それって、決して簡単なことじゃないよな……。


「勘違いするなよ。引き止めるわけじゃないんだ。ただ、ツキトのことを遠くロストグラフで想ってるヤツがいるってこと、伝えときたくて。そしたら旅の間も、今よりもっと私のこと思い出してくれるかもしれないだろ?

 だから、言っておきたかった。それだけ。

 今すぐ夫になってほしいとか、そういうのじゃないから──」


 ブリガンディは今まさに自分が俺を壁際に追い詰めていたことに気づくと、ハッとして一歩下がった。


「──あ、悪い……なんか必死になっちゃって……あはは、けっこう緊張したけど、言い切った! 偉いぞアタシー!」


 この誠意に、俺はちゃんと向き合わなきゃ駄目だ。

 そう思った。


「ありがとう、ブリガンディ」


「お、おう……」


「お前にそんな風に想ってもらえること、心の底から嬉しいよ。お前は優しくて、頼りになるし、たくさん世話になった。すごい綺麗なのに、透明人間なんて外見すら無いやつを好きだなんて言ってくれる。

 ……でも、ごめんな。俺は今、自分がやろうと思ってることでいっぱいいっぱいで、すぐにその気持ちには応えられないし、いつか応えられるかも分からない」


「……うん」


 なんなら、俺がいない間に他の好きな人が出来てしまったとしても、俺にどうこう言えることじゃ無いだろう。


 けど、それを言うのはブリガンディの気持ちを蔑ろにする気がした。


 さっきまで内心バクバクだったのに、彼女も同じなんだと思うと落ち着いてきた。


「……ただ、遠くへ行っても絶対にブリガンディのこと、忘れない。俺を好きだって言ってくれたこと、忘れないよ。辛いことがあっても、お前みたいな素敵な人が好意を寄せてくれたんだって、それだけで自分に自信を持てる気がする。

 ……今はそんな曖昧な言い方になっちゃうけど……本当に、ありがとうな」


「……ううん。茶化したり逃げたりせず、真っ直ぐ向き合ってくれて、こっちこそありがとな。多分、『俺がいない間に他の誰かを好きになってもしょうがない』とか思ってるんだろうけどー」


 ──ぎくり。


 やはりブリガンディは察しが良い。


 彼女は白い歯を見せて、またニッと笑った。


「残念だけど、アタシ一途なんだよな! それと鬼人オーガは人間より寿命も長いから、余裕で待っててやるよ! 待ちながらモヤモヤするのも、初めての体験で興味深いぞー!」


「はは……すごいな、ブリガンディは。敵わないよ」


 メンタル無敵だな。


「──ま、ツキトの答えは分かっていての前置きだったし。そりゃちょっとはロストグラフに残ってくれるかもー、なんて期待してないわけじゃなかったけど……バカタークの前じゃ『今のアタシたちじゃ駄目なんだ』ってカッコつけたくせにな。……やっぱニュトのため、お前は行くんだな」


「我ながら変な使命感に駆られてるなって思うよ。誰にもそんなこと頼まれてないのにさ」


「いや、アタシはそんなアンタが好きだよ」


 そんな好き好き言われるとマジで残りたくなるんだが。


「……オホン。それじゃブリガンディ、少しだけお別れだ」


 握手を求めて手を出す。


 しかし彼女は、両手を上げて「今はしない」のポーズを取った。


「後で門のところまで見送るよ。名残惜しいからなー」


「六王兵が来たら目立つだろうが」


「ツキトみたいに顔隠していくから安心しろよ。じゃ、またなー!」


 一方的にそう言うと、ブリガンディは走って行ってしまった。


 その後ろ姿が小さくなるのが、寂しかった。

 こんな機会、もう二度と無いかもしれないのに俺も馬鹿だな。


 はあ。


 出発前からこんな調子じゃいかんなと溜め息をついた。

 ブリガンディが好きになってくれた俺でいないとな。



**



 城下町の北門近くの小料理屋で朝食を済ませると、俺は荷物を背負った。


「よお仮面の兄ちゃん、これから旅行かい? やっと外へ出られるもんなぁ!」


「はい、ジャルバダールへ行く予定です」


 店の主人らしいおっちゃんがにこやかに声を掛けてくれた。


「いいねえ! ロストグラフはお祭り騒ぎの大賑わいだって教えてやってくれよ!」


「たくさん交易商が来るよう、宣伝しますよ」


 主人に手を振って店を出る。


 ひと月経って少しは落ち着いてきたものの、今もまだ町は賑やかだ。

 レンガ造りの家々は花や風船で可愛く飾られ、表通りも裏通りも人々が楽しそうに笑い合っている。

 子供がワイワイと走り回り、それを犬が追って、その後ろを更に小さな子供が追う。

 北門まで数百メートルばかり。この景色を堪能しながら行くことにした。



「──ツキト・ハギノです。グランデル王の特使としてジャルバダールへ向かいます。その後も他国へ回る予定です」


 門番たちにロストグラフ王家の印章が押された書状を見せると、彼らは背筋を伸ばして敬礼した。


「解放したばかりで任務とは大変だと思いますが、頑張ってください。ジャルバダールへ向かった特使はまだ誰も戻ってきておりません」


「その原因も探ってきます」


 二人の門番は顔を見合わせると、どこか尊敬の眼差しで俺を見た。


「……あの、特使が戻ってこないというのに、たった一人で任に出られるというのは、やはり国王陛下に強く信頼されたお方なのでしょうか……。失礼ですが、今ご紹介いただくまでお名前を存じ上げませんでした」


「あ、いえ。単純に家族もいないんで外へ出しやすかった、というだけですよ。一人なのも気楽なんで自分から申し出たんです」


「それはそれは。ユナシア大平原では獣も出ます。お気をつけて」


 ありがとう、と言って門を抜けようとする。


 結局ブリガンディは来なかったな。

 用事でも入ったんだろうか。


 その時だった。



「──兄貴!」



 ん?


 なんか今、バスタークの声がしたような……。


「兄貴、待ってくださいよ兄貴!」


 気のせいじゃない、間違いなくバスタークだ。


 後ろを振り向くと、二メートル近くの巨体がズシン、ズシンと走って来る。


「兄貴ー!」


「うおっ、あぶねえ!」


 飛んできたバスタークの巨体をよけると、彼は地面に頭から着地した。


 ──ズズン。


「うう……なんでよけるんすか……!」


「いや、そりゃよけるわ」


 体をパッパッ、と払って、バスタークは俺を見下ろした。

 なんかバスタークが俺と同じように着けている仮面がズレている。


「良かったっす……間に合って」


「いや、お前……気持ちは嬉しいけど、六王兵が来ちゃダメだろ」


 早速門番たちが目をひん剥いてこっち見てる。


「ば、ばば……バスターク将軍?」

「どど、どうしてここに……」


 ほら目立ちまくってるじゃねーか。


 するとその後方から、更に三人ほどが歩いて来た。


「まったく、あれほどコッソリしろって言ったのにアホなやつー」


「脳みそまで魔素が行き渡ってないんじゃないかな?」


 大柄で赤髪の女性。

 フードを被った小柄なシルエット。


「ブリガンディ……ファンダリンまで……」


 しまった名前呼んじまった、と口を押さえたが、バスタークがこれだけ目立ってしまったのだから今更だった。

 二人も、ここまで来ればもういいか、みたいな感じで仮面を外した。


「へへ……本当はアタシ一人で行くつもりだったんだけど、みんな同じこと思ってたみたいでさー」


「つっきーにお別れのチューくらいしてあげようと思ったのに、居館の出口で出くわしてね。仕方ないからみんなでゾロゾロ来たってわけ」


「どいつも忙しくて時間無いって言ってたくせに、コソコソと調整してやがったんすよ」


「みんな……」


 なんだか泣きそうだ。


 俺のためにわざわざお別れの時間を作ってくれたなんて。


「あわわわわ……バスターク将軍だけじゃなく、ブリガンディ将軍まで……?」


「それにあのフードの方のこと、ファンダリン将軍って言ってましたよ。い、一体何者なんでしょうか、あのツキトって方は……」


 門番の二人だけじゃなく、次第に町の人たちもざわざわし始めた。


 うひー、すげえ目立ってる。

 ちょっと恥ずかしい。


「兄貴、オレ、本当に会えて良かったっす」

 バスタークが手を出したので握手に応じると、彼は両手を被せて、頭を下げた。


「兄貴に何かあったら、オレ真っ先に駆けつけますから!」

「ああ……ありがとな」

 目元をこするバスタークに、腕の辺りをポンポンしてやった。


「ほれほれ、時間無いんだからどいたどいた」

 ファンダリンがぐいぐいとバスタークを押し、同じように手を差し出した。

 その小さな手を握る。


「つっきーは今まででイチバン興味深い研究対象だったよ。その体を大切にしないと、ファンちゃんが許さないからな」

「ありがとう、気をつけるよ」

「つっきーが旅に出てる間も、アンタの力を調べとくよ」


 手を振ったファンダリンに替わり、次はブリガンディが前に出る。

「へへ……アタシはもう言いたいこと言ったからなー。その時間は、この方に譲るよ」


 意味深長な言葉に首をひねる。

 するとブリガンディの後ろから女性が前に出て──


 ──彼女が兜を脱ぐと、俺は思わずあんぐりと口を開けた。


「し……システィーユ! ──様……。ど、どうして……!」


 彼女ら金色の美しい髪をなびかせ、いつものクールな表情で俺を見た。


 周りの群衆はあんぐりと口を開けたが、騒ぎ立てるより、むしろシンと静かになった。

 彼女が放つオーラは人々を硬直させる。


「ツキト。あなたには本当にお世話になりました。見送りくらいさせてもらうのが礼儀というものでしょう」


 いやもちろん気持ちは嬉しいですが……。

 というか、そう言いながらこの方、やはり俺を睨んでるんだが。


「姫さま、お顔が強張っておりますよ」

 そこへブリガンディがにこやかに口を出した。

「ツキトがいなくなるので寂しいのは分かりますが、最後は笑顔で送り出した方があとあと後悔しません。不躾ぶしつけながら助言を」


 寂しい……?


「わ、私は寂しいなど……!

 …………。

 ……いえ、そうですね。

 ……ツキト、あなたが国を出てしまうので、きっと私は寂しいのです……」


 俺はまた驚いて口を開けた。


「……このところ、つれない態度を取ってしまっていてすみませんでした……。駄目ですね、私は……きっと甘えん坊なのでしょう」


「い、いえそんな……こちらこそ、見送りに来ていただけるなんて恐れ多く……。あ、あの、こんな国の端っこまで来てしまって大丈夫ですか? 安全とか……」


「ブリガンディやバスタークを相手にして私を襲おうと考える者はいませんよ。それにご安心ください、民衆に混ざり、他にも兵士らが目を光らせております」


 それもそうか、と内心で頷く。

 しかし周りの人だかりはどんどん大きくなり、何かのパフォーマンスとでも思っているのか、見物客が増えていく。


「ツキト。あなたは真の英雄であり、我らの仲間であり、そして……私の良き友人でした。この国だけでなく……私と陛下の……お父様とのわだかまりも解いてくださいました」


「いや、それは偶然ですよ。姫様を真に想う陛下のお気持ちが、あのとき一心不乱にあなたの元へ向かわせたのです」


「でもきっかけを作ってくれたのはあなたですわ。……実はお父様の枕元に、私が幼い頃に作ったオルゴールがあるのを見つけました。自分がいかに甘えん坊だったかを思い知ったのです。

 ……優しい父と頼もしい部下を持って、自分がどれだけ恵まれているのかを実感いたしました。

 ──もうこれからは、弱音を吐きません。私はロストグラフの王女として、精一杯この国のために生きていきます」


「姫様……」


「あなたと過ごした日々、楽しかったですよ──ムーン・・・


「……! ──はい、私も」


 システィーユは他の皆と同じように手を差し出した。


 握手は失礼か?

 膝をついて手の甲にキスだろうか。

 ……でも仮面を取らなきゃいけないしな。

 そもそもそんな文化ロストグラフにあったかな……


「手を両手でそっと包んで、優しくさするんだよ」


 ファンダリンがコソッと耳打ちしてくれたので、俺はその通りにシスティーユの手を取り、両手で優しく撫でた。


「──……っ!? …………」


 ──と、システィーユはかあぁっ、と耳まで赤くして、そっと手を引いた。


 あれ?


 なんか違うのか?


「さ、さすが兄貴っす……システィーユ様に『深い情愛の敬意』を示すなんて……!」


 ……は?


 ワアアッ、と民衆たちから歓声が上がる。

 中には非難の声もあったが、ブリガンディたちも笑っていたためすぐに治まった。


 おいファンダリン……恨むぞ。


 ジロリといたずら者を睨むと、当人はキャッキャッとおかしそうにはしゃいでいた。

 このクソガキの言うことは二度と信用しないでおこう。


「いいなー、アタシにもしてくれよツキトぉー」


「これ以上ややこしくしないでくれブリガンディ……」


 システィーユはサッサッと髪を整え、平静を取り戻した。

 さすがだ。

 いい加減頭がパンクしそうだったので、俺は無理やり切り上げることにした。


「さ、さあ、ではそろそろこのへんで……。システィーユ様、わざわざここまでご足労いただき感謝します。これからも遠くからロストグラフの平穏を願っております」


「ええ……名残惜しいですが、体に気をつけて」


 深々と頭を下げ、俺は後ろを振り向いた。


 さあ、今度こそ本当に出発だ。

 この世界で初めて訪れた国、ロストグラフ。

 勝手ではあるけど、俺は故郷のように思っている。

 旅立ちは孤独なもの。

 故郷に背を向けるのだから当然だ。


 行こう、新たな国へ。



「……」


 ふと。



 目の前に一人の少女が立っているのが目に入った。



 小柄だ。


 小さな体で、大きな荷物を背負っている。


 ふわふわのブロンドに、コバルトブルーの瞳。


 けれど顔は少し伏せがちに、唇を噛み締めている。

 両手でギュッと服の裾を掴みながら、不安げな視線をそっとこっちに向けている。



「──やっぱりどうしても、お前と一緒がいいんだってさ、ツキト」


 ブリガンディの優しい声が後ろから聞こえた。


「この一週間、あの子もすごく頑張ってたみたいなんだけど、雇い主が言ってたよ。『こんなに見ていてツラい笑顔は初めてだ』って」


 ブリガンディの方を向く。

 彼女は頷いた。バスタークやファンダリンも笑っていた。


 システィーユが口を開いた。


「私たちは彼女を不幸にしてきました。だからせめて──そんな資格は無いかもしれないけれど、これからの幸せを願いたい。あなたといることが、彼女の幸せなんですよ、ツキト様」


 その言葉を受けて、俺はもう一度向き直る。

 彼女に目線を合わせるよう、地面に膝をついた。


「……大変な旅になるぞ」


 少女は頷いた。


「危険だっていっぱいあるかも」


 少女はまた頷いた。


「……また粗末なご飯に逆戻りだぞ」


「それでも……それでも、ちゅきとといっしょにいきたい!」


 少女は──ニュトは、必死に走って、そして──がばっ、と、俺の首に抱きついた。



「……ああ、一緒に行こう、ニュト」



 曇り空はひび割れて、


 人だかりは何も知らずに拍手を送る。


 バスタークやブリガンディ、システィーユやファンダリンも俺の名前を呼んでいる。


 腕の中の少女の体は温かい。


 俺の、生きる理由。

 生き甲斐。



 この世界に、俺は生きている──。

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