第35話 「ロストグラフ出立・中編」

 ボドを倒してから三週間。グランデル王のロストグラフ解放宣言から二週間。


 この間ずっと、俺とニュトは城の敷地にある城壁塔に住まわせてもらっていた。


 最高の三週間だった。


 システィーユ直属の使用人の皆さまが用立ててくれたニュトの服は、そりゃもう上品で。ふわふわのキラキラで。


 お風呂に入り、綺麗にいてもらったニュトの肌と髪は、サラサラのピカピカで。

 やっぱり将来はシスティーユ王女と並ぶくらいに……いや、王女すら超える美人さんになるかもなー、などと親バカ丸出しの感想を抱いてしまったほどである。


 ニュトと一緒に、おいしいご飯を三食さんしょく食べ、

 城の中を探検したり、お祭り騒ぎの城下町へ繰り出したり、

 いろんなことを話して笑い合い、

 たまには静かに時を過ごし、

 お風呂で体を洗い合い、

 ふかふかのベッドに寝転がってまた話し合い、

 明日はどうしようかと相談しているうちに眠る。


 もう、彼女を繋ぐ鎖も、閉じ込める鉄柵も無い。

 二人で自由を謳歌し、存分に楽しんだ。

 まさに夢のような日々だった。



 ──けれど、まだ彼女には話していないのだ。


 ニュトに新しい環境を用意したことを。

 そして、もうあと一週間で、俺はロストグラフを発ってしまうことを──。


 ニュトには、考え得る限り最高の環境を用意できたと思っている。

 本当に魔女がロストグラフで安心して暮らせるのか、という心配はあったのだが、それは杞憂きゆうだったようだ。


 まず、ボドが魔女を捕らえたことは広く知られていても、魔女の容姿までを知る人は数少ない。

 知っていても、髪が伸び放題で、あばら骨が浮くほどに痩せこけ、服は泥で汚れている不幸な少女と、しっかり食べて運動をし、健康な体と綺麗な身なりを手に入れた今の彼女では、同一人物だと分かる人はいないだろう。


 そのために、ニュトが魔女である事実は隠し、家族を失った一般人として再出発させることにしたのだ。

 ブリガンディの恩人の妹、ということになっている。


 身柄を託す相手は、ブリガンディやシスティーユが出してくれた候補の中から、俺が精査して決めた。

 反則だが、シェード・オフして一人ずつのプライベートをチェックした。

 さすがブリガンディたちが選んでくれた人ということで、誰しも問題は無かったのだが。

 むしろそんな手を使った俺が一番ずるい人間だったのだが。


 とにかく、ニュトの暮らす場所はロストグラフ城下町にある貴族のお屋敷になった。

 主人は夫を亡くして独り身の女性。

 かつてはロストグラフの内政にも携わった才女で、心優しい人だ。

 そこでニュトは歳の近い少女たち数人と寝食を共にし、女中メイドとして働かせてもらえる。

 そして週に一度は、全員で勉強をする時間もある。


 ブリガンディもシスティーユも気に掛けてくれるという。

 そもそも王や姫には、ボドの指示とはいえニュトを閉じ込めてきたことに罪悪感がある。償いのためにも、決して悪いようにはしないと約束してくれた。


 そう──だから、あっけないほどスムーズに、彼女の身柄は保障されたのだ。


 もう、牢屋の中でただ一人、ひもじい思いをすることは無い。

 彼女の前には明るい未来と青春が待っている。



 だから、早く言わなきゃいけないことは分かっていた。

 でも、それを伝えたら今の生活が壊れてしまうような気がしたのだ。


 やはり俺はずるい男なのかもしれない。

 せめて別れる日まで、今のままで過ごすことを願うなんて。



**



 ついに今日という日がやってきてしまった。


「ちゅきと、きょおはどこいくの? おしろ? おまちゅり?」


 ニュトはベッドに座る俺の横に並び、きゃっきゃとはしゃぎながら、ねえねえと急かすように足をぷらぷらさせた。


「今日は、大事な場所へ行くんだ」


 服だけを着た俺は、透明なままの顔で、卑怯にも顔色を窺わせずに答えた。


「だいじなばちょ?」

「そうだ」

 キョトン、とするニュトを抱き上げ、そっと床の上に降ろす。

「もうすぐ時間だよ」


 いくら透明になっていても、声の調子でいつもと違うことはばれているだろうな、と内心で思った。

 俺は靴を履き、手袋をはめ、カツラと仮面を被った。


 ニュトの荷物も、昨晩すでにまとめてある。

 この三週間で買った可愛い服や髪飾りなんかも入ってる。

 しっかり勉強できるように、紙とペンなども用意した。


 ニュトは賢い子だ。きっと上手くやっていけるだろう。


 ──でも、彼女は優しすぎる。いじめられたらどうしようか。親代わりの俺がいじめられた経験があるのだから、不安もある。

 やっぱりニュトを置いて行くのは薄情だろうか。

 俺の旅に連れて行く方が彼女も喜ぶだろうか。


 馬鹿を言うな。

 何が起こるかも分からない危険な旅だ。

 たかだか透明になれるだけの俺が、ニュトを護れるなんて自惚れだろう。


 ニュトの小さな手が俺の手を握る。

 心無しか、いつもよりぎゅっと握っているような気がして、俺はまた自分に言い聞かせる。


 これでいいんだ。

 親を亡くした彼女には、新しい居場所が必要だ。

 色んな人に出会い、色んなことを学び、色んなものに触れて豊かな人生を送るべきなんだ。



 ──トントン、とドアがノックされた。


「アタシだ。準備は出来てるか?」

「ああ、大丈夫だ」


 扉を開けて、ブリガンディが部屋に入って来た。

「おはようー、ツキト、ニュト。今日もいい朝だなー」

 相変わらずはつらつとした調子で、赤い髪を揺らしながらブリガンディが入って来た。


「ぶいあんでぃーおねえちゃん!」

 ニュトはトトッ、と走り、ブリガンディの横腹に抱きついた。


 俺より背の高いブリガンディと八歳にしては背の低いニュトの組み合わせは凸凹なんてもんじゃないが、お互い素直という意味で波長が合うのか、初めての顔合わせでニュトの方がすぐに懐いた。


「きょおは、さんにんであそぶの?」

 目がきらきらしてる。

 胃が痛む。


「ツキト……」

 ブリガンディが眉をひそめて俺を見た。

 分かってる。分かってるよ。


 俺が言わなきゃいけないんだろう。

 当然だ。


「ニュト。実はお前に話があるんだ──」



 俺は伝えた。


 ニュトの新しい居場所を。


 俺は旅に出てしまうことを。


 今日がお別れの日だということを──。



 部屋の窓から見える城下町は穏やかだ。

 ヒビ割れた曇り空もだいぶ見慣れた。


 けれど、景色はいつもより灰色に見えた。



「……ちゅきとは、うれしい?」


 俺の話をじっと黙って聞いたあと、ニュトはポツリとそんな風に尋ねた。


「ニュトがお屋敷にいって暮らしたら、うれしい?」


 コバルトブルーの瞳が俺を見つめる。

 キラキラと透き通るように潤んでいる。


「……ああ、嬉しいよ。とても」


 そう答えると、彼女はにこっ、と歯を見せて笑った。


「だったら、ニュトもうれしい」


 ──ズキン、と。

 胸の奥が痛んだ。


「ちゅきと、ぶいあんでぃーおねえちゃん、行こ? ニュト、すっごく楽しみ!」

 彼女は俺とブリガンディの手をそれぞれ握ると、真ん中に入ってまた笑った。

「ニュトにすてきなばちょを用意してくれてありがとお」


 ちょっとも駄々をこねようとしない。

 そうすれば俺が困るのを知っているからだ。

 八歳。まだまだわがまま盛りの子供なのに。


 作り笑顔。

 空元気。


 彼女のそんな優しさに騙されたフリをしなきゃいけない己の不甲斐なさに、これが今日まで黙ってきたことへの罰だと自分を諫めた。


 俺とブリガンディはニュトを城下町の屋敷へ連れて行った。

 その間、ニュトはずっとにこにこしていた。

 屋敷に着くと、これから一緒に働く女中メイド仲間や女主人までが玄関まで出迎えに来てくれた。

 俺とブリガンディが挨拶をする。ニュトも礼儀正しくお辞儀した。



「それじゃあ、元気でな。遠くにいても、いつもニュトのことを思ってる」


 頭を撫でると、彼女はくっと顔を上げて、それからいじらしく唇を噛んだ。


 涙を我慢してるんだ、と分かった。


 ここで泣いたら俺が困るから。


 だから唇を噛んで、そうしてニュトは、無理やり口角を上げた。


「ちゅきと、だいちゅき」


 かすれるような声だった。


「今までぜんぶ、ありがとお」


 震えていた。

 声も、体も。


 言いたいことは沢山あったに違いない。

 でも少しでも声に出せば止まらなくなる──きっとそう思って、彼女は今の言葉に全てを詰めた。


 本当にこれで良かったのか?


 馬鹿な──危険な旅に連れて行くつもりか?

 せっかく平穏な生活を手に入れた彼女を?


 両手の拳を、ぎゅっと強く握った。

 血が出そうなほどに、強く。


「俺は、透明だから」

 小さく、ニュトにだけ聞こえるように囁く。

「見えなくても、いつも傍にいる」


 こく、と彼女は頷いた。


 それから後ろを向いて、ニュトはゆっくりと歩いて行った。

 一度だけ、俺の方を振り向いた。

 俺は小さく手を振った。


 それだけだった。


 それだけで──あっさりと、彼女との時間は終わった。

 新しい仲間と、ご主人様と、大勢に囲まれて屋敷の中へ消えていく。



「……なあ、ツキト」

 付き添いのブリガンディも俺と同じように手を振りながら、小さく言った。

「本当に良かったのかー?」


「良かったんだよ」

 俺はロボットみたいに答えた。

 自分に言い聞かせるように。

「良かったに決まってるだろ」


「ツキトはニュトのこと、本当に大事に思ってんだなー」

 赤いポニーテールを揺らし、ブリガンディは頭の後ろで手を組んだ。


「……何が言いたいんだよ」


「大事に思ってるからこそ、見えてないこともあるかもだ」


 思わせぶりな調子で、彼女はバシン、と背中を叩いた。

「いてえ」

「ぺちんて叩いただけだろー」

「お前と違って俺は華奢きゃしゃなんだよ」


 ブリガンディなりの慰めだと分かっていた。


 へこむなよ。

 いつでも会えるじゃないか。

 何をめそめそしてるんだ、ツキト・ハギノ。


 俺はこのとき、初めて気づいたんだ。

 ニュトを大事に思ってるだけじゃない。

 俺もニュトにとって大事な立場にあることで、安心を得られていた。


 しばらく彼女には会えない。


 会えない。


 二年後か、三年後か。

 これからの旅が成功して、ロストグラフに帰ってきたとき。

 ニュトは成長して、

 背が伸びて、

 友達も出来て、

 好きな男の子なんかも出来て、

 俺を見て微笑むけれど、その笑顔はもう自分の知ってる彼女じゃない。


 ニュトの成長を見られない。



 見られないのか──。



 背中でじんじんとしびれる痛みが、帰り道で俺を叱っているようだった。

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