第26話 「それぞれの決戦前夜・3~システィーユ~」

 6・システィーユ


 ロストグラフの王女でありながら、英雄ボドの魔手から身を隠すため炊事婦になりすますシスティーユは、実のところ炊事場や戦士らのための食堂も嫌いではなかった。

 民の素顔を見、噂を聞き、空気を感じる。

 それは今しか出来ない貴重な体験だと捉えていた。これから国の上に立つ覚悟を、彼女は自然と身に付けていた。

 言い換えればそれは、いつかボドの支配から脱却するという未来を見続けていたということでもある。

 システィーユは、偉大な父にも負けない、王者の気質の持ち主だった。


 今夜も彼女は食堂にいた。


 この頃よく食堂を訪れるのだが、今日は「ムーン」と話すためではない。

 ある男に呼び出されたのである。


 その男は食堂にやってくると、闇夜に紛れて徐々に姿を現し、彼女に近付いた。


「こんばんは、姫君。夜遅くにすみません」


「こんばんは、ツキト。構いませんよ、今夜は誰かと話したい気分でしたから」


 ボドの支配から二年。

 独裁国家と化したロストグラフを革命すると豪語するその男は、透明な体を持つ不思議な青年だった。


「……本当に護衛がいなくとも良かったのですか? 例えばブリガンディとか……」


「いつでも私を殺せるあなたが、なぜ姿を見せている今、わざわざ危険を冒すのでしょうか」


 それもそうか、と独りごちてツキトは頷く。


 その姿に、華奢だなぁ、とシスティーユは思った。

 今日だけでなく、初めて会った日も思った。

 多分、人種が違うのだろう。甲冑のときも、普通の服のときも見たことがあるが、ロストグラフの一般的な兵士より細身で小柄だ。


 もちろん、生身の肉体は見たことが無いが。

 というより、透明だから見えないのだが。


 彼いわく、これでも数か月の間鍛えて、以前よりもかなりたくましくなったのだという。それなら前はどれだけヒョロかったのよ、とシスティーユは失礼なことを考えた。


 でも。


 でも、そんな青年が、なぜか大きく映る。


 まるで敬愛する父のように。


 ツキトは不思議な男だ、とシスティーユは考えていた。

 六王兵の中でも乱暴者なバスタークを大人しくさせ、

 男に興味なんて一切持たなかったブリガンディを夢中にさせ、

 王でも扱い切れなかったファンダリンをカンペキに味方につけ、

 そしてシスティーユやアレクトロをも懐柔した。


 声はあどけないし、様々な知識に精通しているというわけでもない。剣を持つ姿はあまりにへっぴり腰で、システィーユは笑ってしまったこともあった。

 しゃべっているとたまに噛むし、お腹の音が鳴るし、どうやら女性に慣れていないようで、私やブリガンディを間近で見ることが出来ない。――多分。

透明だから見えないが、声が真っ直ぐ聞こえないときは顔を逸らしているのだろう。


 なのに、なぜ堂々と、頼もしく見えるのだろうか。


 そして、なぜ──とても温かく、安心できる存在と思えるのだろう。


 多分、とシスティーユは考える。


 多分それは、他の皆が惹かれたのと同様──その一本気さから来るものだろう。

 バスタークのような、白黒の区別がつかない純粋さとはまた違う。

 ツキトにとって、道理の上での正義も悪も無い。

 ただ、幼い少女が捕らえられて、酷い仕打ちを受けている──それが許せないというだけなのだ。魔女の善悪など二の次なのだろう。

 彼女を救うため、そのためだけに、身ひとつでロストグラフを駆け回り、自分より遥かに大柄な戦士に挑み、この国のことを学んで、体を鍛えて、戦略を練る。彼自身の利は一切無い。


 システィーユ自身、ニュトに同情していないわけではなかったが、ヘイルデンや部下の兵士など、もっと身近な者たちが間を置かず不幸になっていたため、少女までを思いやる余裕は無かった。


 ツキトの素性は知れない。

 他国から来たと言っているが、知識が曖昧すぎるし、そもそもの風貌さえ分からない。得体の知れなさならボドにだって負けていない。


 悪気は無いが、頭をよぎったことが無いわけじゃない。

 彼は本当に魔女ニュトを救いたいだけなのか?

 私たちは同じこと・・・・を繰り返そうとしているのではないか、と。

 機王の脅威を払った「英雄」ボドを迎え入れたときのように、今回もボドを倒したところで、ツキトが新たな脅威となるのではないか……魔女の力を使い、ロストグラフを乗っ取ろうとするのではないか。


 だが、そんな考えはツキトを前にするとすぐに消えてしまうのだ。


 彼の顔も見えないのに、

 ああ、今は笑っているんだろうなあ、とか、

 照れているんだな、とか、

 呆れているんだろうな、とか──

 ──なぜか分かってしまって、邪気が無いことを確信する。


 そして改めて、彼がただ魔女を操り、力を振るいたいだけならば、もっと楽な方法がいくらでもあると思い直すのだ。

 ニュトを連れてロストグラフを出て、ボドの目など届かない場所で組織でも作ればいい。ツキトならそれが容易に出来るだろう。

 それをやらない理由は、やはりニュトのため。

 親を失った彼女にまっとうな生活をさせ、ちゃんとした教育を受けさせたいから。他にも色々な理由が後から出てきたが、ツキトにとってこの国を平和にしたい元々の思いはそこにある。


 システィーユは思う。


 少なくとも魔女ニュトにとって、ツキトこそが──真の「英雄」なのだろうと。



「……それにしてもわざわざ今夜会いたいとは、作戦決行前に済ませておきたいことなのですか?」


 とはいえ彼女はツキトに対して、つい試すような態度を取ってしまうことをやめられなかった。


「ええ、そうです。心残りというか……に姫様には大事な役を・・・・・・・・・・・負ってもらいますので・・・・・・・・・・、しこりが残ったままでは私の方がやりづらいと思ったので」


 二人は奥のテーブルに座り、窓から差す明かりで互いの顔を見ている。システィーユに見えるのは仮面だけだが、顔のうつむき方や首をひねる仕草で、ツキトの表情は読み取れる気がした。


 相変わらずの曇り空だが、雲の上は満月なのでそれなりに明るい。


「ずいぶんと大袈裟ですね。それは一体どのような?」


「はい、その……ええと……」


 ツキトはずいぶんと言いづらそうだった。

 こういうハッキリしない態度は、システィーユはあまり好きではない。


「なんですか、モジモジして。早く言ってください」


「はあ、まあ、その……ですね」



**



 今さらではあるが。

 ツキトは、うぶ・・だった。


 それもそのはず、生まれてこの方、交際経験は無く、姉妹もおらず、女性と話したことは非常に少ない。

 さらには告白ゲームでもてあそばれた先輩を始め、美人相手にはからかわれたり、無視されたり、酷いのでは「親無し」だと馬鹿にされたりした記憶しかない。


 ぐいぐい来るブリガンディならまだしも、プライドが高く賢明で、ホイホイ近寄ってくる男性を鼻で笑い飛ばしそうな美女とあっては、距離感を測りかねるのも無理からぬことだった。

 それもただの美女ではない。肌の色は白く、眼は幻想的な青色で、髪は金糸のようなブロンド。顔立ちは「綺麗」と「可愛い」の両方に掛かる奇跡的なバランスで整っており、睫毛が長くて唇は健康的に鮮やか。背はツキトと変わらないほどには高く、スタイルが良くて脚も長い。

 これに加えて一国の姫という立場なのだから、神のいたずらにしても度が過ぎている──ツキトは常々そう思っていた。


 しかも、そんな相手にこんな自分で、話すのはあのこと・・・・なのだ。

 口ごもるのも仕方あるまい。


「あの、ですね……姫様は──」


 だが、いよいよ言った。

 勇気を振り絞って口にした。


「──む、ムーン・・・という名をご存知かと思いますがっ──……!」


 震える語尾が息を呑む音と共に切れ、

 しばし食堂を静寂が満たした。



 システィーユは、一瞬何のことだか分からなかった。

 「ムーン」の名に思い当たることがあるとすれば一つだが……すなわち……──


 ──と、そこまで考えて、


 ハッ、と気付いて、口を押さえた。


 ツキトもまた口を押さえて固唾かたずを呑んだ。


 そこから二人の間には、なんとも微妙な空気が、じんわりと流れた。



「……う、う……」


 やがてシスティーユの口からうめき声が漏れ出る。


 なぜ今までその発想に至らなかったのか、彼女は自分を呪った。

 ツキトが透明人間ならば。そしてシスティーユが姫であることを知っていたのなら、当然ロストグラフの中心にいる自分のところへ偵察に来るだろう。

 それはつまり、一人きりだと油断して自分の素顔も弱みもさらけ出している時でも、ツキトは傍にいたのかもしれないということだ。


 かあっ……──と、システィーユは顔を赤らめた。

 ツキトが初めて見る、彼女の表情だった。


 姫は眉間にシワを寄せてツキトを睨み付ける。


「……どこまで知っているのですか……」


「ど、どこまでと言いますと……」


「私が『ムーン』に話した──どこまでを聞いてしまったのかと訊いているのです!」姫は小声だったが、明らかに動揺していた。「どっ、どこまで私の──私的な部分まで知ってしまったのですかっ!」


 ぐぐっ、と顔を寄せられ、ツキトは明らかにうろたえる。

「いえ、そそそそんなに深くまでは存じ上げません……!」


 嘘ではない。ツキトが「ムーン」として彼女の傍にいたときも、明らかにプライベートな内容だと判断したときはさっさと別のところへ移動していたからだ。それは遠慮というよりも、やることが多いツキトにとって情報の取捨選択が大事だったためである。


「信じられません──まさか決戦を明日に控えた夜に、わ、私を動揺させるなど──! 本当にあなたはこの国を変えようと──……」


 ツキトへの不信を露わにしかけたところで、はた、とシスティーユは動きを止めた。


 そうだ。

 元々「ムーン」を作ったのはなぜだったのか。


 あの時の奇跡的な状況を思い返す。


 単純バカのバスタークがシスティーユの命令と忠心の間で揺れていたとき、振り上げた拳を下ろす前になぜか無様にすっ転んだのだった。


 それだけじゃない。バスタークの金魚のフンだった三人組が変に調子を崩したこともあった。

 誰かに見守られているような気がして……そんな都合の良い存在と、孤独を紛らわせる理由を組み合わせて「ムーン」は生まれたのだった。


「…………」


 システィーユはツキトを睨み付けたまま、こちらからも試してやることにした。


「……ツキト、素直に答えてほしいのですが」


「は、はい……なんなりと……」


 ツキト自身は、思った以上に彼女を動揺させ、怒らせてしまったことに対して狼狽ろうばいすると同時に、あまりにも間近で見るシスティーユの美しい顔に彼女以上に動揺してしまい、もう何がなんだか分からず固まってしまっていた。


「……『麺棒』という言葉に何か覚えが?」


 ぎくり、とツキトは一瞬、腰を浮かせた。

 初めてシスティーユに間接的に関わったのは、バスタークを麺棒で転ばせたあのときだ。

 が、表情には出していないつもりだった。

 出していようがいまいが見えないのだが。


 しかし彼よりもよほど役者が上なシスティーユは、軽微けいびな反応で全てを悟った。


「……なるほど。よく分かりました。透明であることを利用して私情の盗み聞きとは趣味が悪いですね……」


 まったく反論できなかったが、しかし今のツキトにとってそれはもはやアイデンティティーの一部だし、その力のおかげでここまで来れたのだ。

 システィーユもそのことは重々承知の上で、しかし自身のプライバシーを相手にだけ知られて自分ばかりが弱い立場にいるのが我慢できず、ちょっとでも言い負かしてやりたかったのだ。


 ようするに、いかに彼女が賢明な王女であるとはいえ、年頃の少女に違いは無いのだった。


「す……すみません……」


 フン、とシスティーユは鼻でひとつ息をついて、それからすぐに謝った。

「いいえ、こちらこそ……何度も助けていただいたにも関わらず、失礼な態度を取りました……」

 彼女の頬はまだほんのり赤みが差していた。

「……とっ、とにかく『ムーン』の記憶は全て消してください。分かりましたね」


 体が消えるからと言ってそうそう都合よく記憶が消せるわけではないのだが、ここで「はい」と言えないわけが無かった。


「はい、承知しました……」

 と、ツキトは頷いた。

 あまりに素直だったので、システィーユはそれで毒気を抜かれたようだった。


「話はそれだけですか?」

「はい。もう心残りはありません」

「そうですか」


 不思議と、もうこれで彼と話すことは無いのだと思うと寂しい気持ちになった。


「では帰ってください。お互いしっかりと寝た方がいいでしょうから」

「かしこまりました」

「……本当に帰るのですか?」

 なぜかシスティーユは、少しぐずりたい気持ちになった。


「は?」

「いいえ、何でもありません」


 彼女の顔を見て、ツキトはふと思った。


 そうだ。


 最初にちゃんと会った時から、ずっとシスティーユと話しているときに違和感があったのだが、今その理由に思い当たった。

 今見ているこの顔が──「ムーン」と話していた時のようなこの顔が、自分の知るシスティーユなのだ。

 王女のプレッシャーに疲れ、ボドから身を隠すのに嫌気が差し、父親の愛を求めていじける、そんな少女だ。


「……姫様は歌がお上手でしたね」


 立ち上がろうとして、ぽつ、とツキトは囁いた。

 この言葉でシスティーユは、また思わず彼を睨み付けた。ツキトはたじろぐが、負けじと言い切る。


 自分はこの人の素顔を見てしまっている。ならば自分も飾らず、出来るだけ自然体で付き合った方がフェアじゃないだろうか。そんな風に思った。


「い、いつか偶然聞いてしまったのです……。それで、少し前に思い至ったことがあります」

「……何が言いたいのですか……」

「これで終わりではありません。今夜はニュトが待っているのでもう帰りますが、またぜひそのことをお話させてください」


 そう言うと、ハッ、と目を開くシスティーユに、思わずツキトは目を奪われた。

 彼女は一瞬笑って、すぐに視線を泳がせて口元を隠した。

 本当に可愛らしい人だな……──ツキトは目の前の人が王女だということを忘れ、彼女を見つめた。

 システィーユにツキトの視線は分からない。

 けれど、何故か自分をじっと見つめているような気がして、何ともヤキモキした気持ちになった。


「わ、分かりました……。そのためにも明日は絶対に成功させるのですよ」

「もちろんです。では、おやすみなさい」

「おっ……──」


 おやすみなさい、とモゴモゴつぶやいたとき、すでにツキトは姿を消してしまっていた。


 システィーユはぺちぺち、と二度ほど自分の頬を叩いて、

 それから自分も住み込みの寝間へと戻ることにした。

 どこか足元が浮ついていたが、それは明日の決戦において油断に繋がることはなく、むしろ自分の気力を満たすエネルギーになる確信があった──。

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