第20話 「いざ英雄ボドの間へ」
今朝は特に寒かった。
吐く息が見えていたら、きっと真っ白に景色をぼかしたことだろう。
改めて装備を確認する。
身軽さと防御性を兼ね備えた、皮の服と鉄の胸当ての組み合わせ。
皮のブーツと、髪の毛が落ちないための布の帽子。
布の手袋と、右の腰にはポシェット。
ポシェットの中にはメモ帳とペン(木炭の切れ端)、多少の食糧。
左の腰には念のためナイフがひと振り。
これらは、ほとんどがブリガンディが用意してくれたものだ。
ロストグラフにはペンとインクもあるそうだが、インクは持ち運びづらいので、これだけは自前の木炭にした。
本当は
──いよいよ、英雄ボドの部屋に忍び込む。
今度こそ命懸けだ。
何が起こるか分からない。
ニュトには、しばらく差し入れを持って来れないかもしれないと頭を下げ、代わりに、壁に掘った穴に保存食が隠してあることを伝えた。
彼女は曇りひとつ無い笑顔で「頑張って、ちゅきと」と言ってくれた。
檻の向こうにいる彼女は、今もスヤスヤと寝ている。
俺だけの命じゃない。ニュトやロストグラフの人たちの命運も、この
グランデル王の病状のこともある。いよいよのんびりしていられない。
地下牢から上階へ出る前に、もう一度ファンダリンに教わったことを頭で
自分の力を整理して、把握しておこう。
「
それが俺の大元の力。
魔素に干渉して、自分と世界の間に境界を作ることで、感知されない存在になる。
不可視化は「シェード・オフ」。
可視化は「シェード・オン」。
消音は「サウンド・カーム」。
音を出すのは「サウンド・ウェーブ」。
匂いを消すのは「アロマ・スナッフ」。
匂いを出すのは「アロマ・フロー」。
──よし。昨日準備をしているあいだ、ずっと復習していた甲斐があった。改めて頭に浮かべなくても、スッと切り替えが出来る。
またファンダリンが言っていた通り、すでに効果が出ている。
行こう。リスクは怖いが、反面、楽しみでもある。
ボド──お前の弱点、必ず見つけてやるぞ。
**
英雄ボドの部屋は居館の五階にある。七階が最上階だから、王室の二つ下ということになる。
ただしこれは、あくまでボドによる
ブリガンディから仕入れた情報では、ボドの部屋は窓ひとつ無いフロアの真ん中にあり、入り口は北と南にひとつずつ。
十四人の「親衛隊」が二人ずつローテーションを組んで、常に見張っているという。
彼らも人質を取られているのだから必死だ。ネズミ一匹通さない覚悟である。
実はこの階にも、六王兵の隠し通路が通じている。おかげで一人の衛兵にも会うことなく上がって来れる。
五階の廊下に出ると、通路は二手に分かれている。ボドの部屋や、その他親衛隊らの部屋などを、広い廊下がぐるりと囲う形だ。
廊下は静寂に包まれ、人ひとりいない。窓が無く、全ての明かりが松明なのはボドが暗がりを好むためだという。
まずは右へ進み、角を左に折れると、北側の扉に親衛隊が二人立っているのが見えた。
戻って今度は反対側へ行くと、やはり南側の扉にも二人の親衛隊が守っている。
扉はどちらも両開きで、かなり大きい。巨体のボドでも少し屈めば入れるだろう。
バスタークやブリガンディの話から得た情報によると、ボドの部屋はもともと王族らの会議室だったらしく、北側が王と姫の入る扉、南側がその他の王族用だそうだ。
こういう、王を尊重する伝統は国の端々に見られ、王への敬意が見て取れる。
あまり城内で王族を見かけないのは、ボドに恐れをなして部屋に引っ込んでいるからだと思っていたが、ブリガンディによるとそれは誤解らしい。
グランデル王が彼らを危険にさらさないよう外出を控えさせ、王族は従順に命令を守っているのだ。
王のカリスマは本物だし、同じく王族から一人娘であるシスティーユ姫への恭順も確かだという。
そんな王族の忠心を示す大事な場所を、ボドは踏みにじっているということだ。
入る方法は、もはやツキト・ハギノの得意技となった「料理と一緒にお邪魔します」で行く。
どんなヤツでも生きている限り飯を食わなきゃならないってのは、透明人間にとって実に好都合だ。なにせ牢屋から要人の部屋まで出入りできるのだ。
ここは今までに訪れたどの場所よりもずっと静かだし、親衛隊もネズミの足音まで耳を澄ましているだろうが、そのために「サウンド・カーム」をマスターしたんだ。
そろそろ朝食の時間だろう。
俺は廊下の角に座り込み、料理が運ばれてくるのをじっと待った。
はたして料理はすぐに運ばれてきた。
豪華な
ガラガラと鳴る音に足音を紛れさせ、俺もそろりと台車の後をつけた。
台車は北側の廊下を進んだ。
扉の前まで来ると、二人の親衛隊がコックの身体検査をする。毒見はしない。ボドは不死身らしいから、毒も効かないのだとブリガンディが教えてくれた。
これまでに毒殺も何回か試し、失敗し、二人のコックを殺されているそうだ。
いよいよボドの部屋の前だ。
緊張して体が震える。
親衛隊が扉をノックしようとして──しかし扉はバン、と中から開けられた。
「──おお、もう朝食の時間だったか。グハハ、ちょうど良い、腹が減っていたのだ」
その──威圧感。
恐怖。
思わず唾を呑み込みそうになって、音が気になり喉仏だけが動く。
でかい。やはり。屈んで頭を出すだけでも、怪物が覗き込んでいるようだ。
だが、恐るべきは奴の次の行動だった。
ボドは毛むくじゃらな太い腕をぬうっ、と出し、手に掴んだ、ボロ布に包まれた何かを、ポイッ、と捨てた。
ボロ布が床に落ちると、「うっ」と小さく
「コイツはもう飽きたからいらんぞ。だいぶ前から喋りもしなくなった。捨てておけ」
ボドは親衛隊にそう言った。
女性か男性か定かじゃないが……このカイブツは、一晩中
「もうしばらくオモチャはいらんなぁ。どいつもこいつも簡単に壊れる。やはり壊すなら簡単じゃないものの方がいい。……例えば──グランデル王とかな。ぐははっ」
ぞわり。
全身が総毛立つ。
恐怖からではない。
怒りでだ。
コックはその場で帰され、親衛隊の一人がボドに捨てられた人を担ぐ。
顔を覆う兜の隙間から、親衛隊の目が見えた。
泣いてすらいない。
罪も無い人が犠牲になりながら、自分の主君を笑われながら、悲しむことも出来ないのだ。
その目は、ただ虚ろに濁っているだけだ。
もう一人が台車を室内へ入れた。俺は彼と共に部屋の中へ入った。
いよいよボドの私室に潜入だ。
不死身の秘密……魔女を捕らえる理由……弱点、何でもいい。とにかく奴に関する情報を仕入れなければ。
王でも姫でも、六王兵でも叶わない──これは透明人間である俺にしか出来ないのだから。
**
扉が閉められ、再び静寂が戻った。
部屋は、ロストグラフ中の財宝がここへ集まったのではと思うほど、それはもう
金銀に飾り立てられた家具。
ボドのために設えられた巨大な椅子とテーブル、ベッド。
壁には、職人が何年もかけて作ったであろうタペストリーの数々。
金貨の詰まった宝箱や宝石いっぱいの首飾りなど、漫画やゲームでしか見ないような宝も固めて置かれていた。
だが、一番に目を引いたのは、部屋の端にある、恐ろしく悪趣味な扉だった。
表面には
おそらく──あの中でお気に入りの人間をもてあそぶのだろう。
吐き気がする。
俺は「サウンド・カーム」で音を消し去ると、巨大なソファーの裏に隠れた。そこからは椅子やベッド、
ボドは中央に据えられた椅子にどっかりと座り、テーブルの上の料理をぱくぱく食べ始めた。
さあ、ここからはひたすら待つだけだ。
誰もが知らない、英雄ボドの私生活を知る。
俺の存在がばれたら、それで終わり。
全部終わりだ。
俺は息を潜め、じっとボドを観察した──。
朝食が終わり、
昼になり、
料理が運ばれてボドは昼食をとり、
やがて日が暮れて夜になり、
ボドは夕食を食べ終えた。
この一日で、変わったことは何も無かった。
時間が過ぎるごとに、俺は失意の中へと沈んでいった。
もちろん、いきなり運良くボドの弱点を掴めるなんて甘い考えを持っていたわけじゃない。
でも、俺に出来ることはこれだけだ。誰にもばれないよう、そこに存在するだけ。戦うことも、護ることも出来ない。
ここで成果を上げられなかったら、俺には何の価値も無い。
ニュトは牢屋でひもじいまま。協力してくれたバスタークやブリガンディ、ファンダリンは失望するだろう。グランデル王やシスティーユ姫はボドのオモチャにされ、やがてロストグラフは完全にヤツの手に落ちる。
地獄だ。
もう夜も深まった頃だろうな。
この部屋にも窓が無いから、外は見えない。
俺は自分の小指をぎゅっと握った。
──捨て鉢になるな。
根気強く粘れ。この小指でお前は約束しただろう。きっとニュトを助けてみせると。
焦りは油断を生む。焦るな。焦るな。
やがてボドは蝋燭を消し、ベッドに移った。
想像通り、長丁場になりそうだ。
覚悟してきたことだ。
いつまでだって、ここに居座ってやる。
そのとき不意に──空腹感が襲ってきた。
まずい。
結局、今日は何も食べなかったのだ。腹の音は意図的に出すものじゃない。勝手に出てしまう。ここで音を出てしまったら、一気に気付かれてしまうぞ。
すぐに「サウンド・カーム」の状態に入る。かなり集中力を使うので、
目の端からボドの姿を離さないようにして、急いでポシェットからパンと干し肉を出した。
パンくずがこぼれないよう細心の注意を払いながら一気に口に入れ、モグモグと食べる。
時計が無いのが不便だな。思えばスマホにはストップウォッチが付いていて便利だった。
物を食べながら、頭では時間をカウントしないといけない。急いで食べすぎでも消化の時に音が鳴るのだが、そちらの方がまだ小さい。すぐに消音すれば気付かれないはずだ。
こんなにも味気ない食事は久し振りだった。
やっと食べ終わった時には、神経が
俺はボドの部屋で、何かが起きるのをじっと待った。
じっと待ち続けた。
どこまでも、粘ってやる──。
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