第5話 「六王兵バスターク〈前編〉」
小さい頃から、漫画やアニメが好きだった。
まあそれは俺だけに限らないだろうが、親も友達もいなかった俺にとっては、そうした物語の世界こそが最も身近な存在だったんだ。
だから、長いこと不思議に思ってた。
物語には必ずヒーローが登場する。
けれど現実の世界じゃ、いじめられっ子を助けるいいヤツも、不良行為に正面からぶつかる熱血教師も、悪政に喝を唱える正義の政治家もほとんど存在しない。
漫画やアニメには、こんなにも沢山いるのに。
今なら、そんなの当たり前だと分かっている。
現実にヒーローがいないから、物語にヒーローを求めるのだと。
でも、他の人以上にそうした世界に浸かってきた俺の中には、いつしかやり切れない思いが燻るようになっていた。
もしも自分が何かと戦わなければならない時が来たら、勇気を持って立ち向かおう。
ヒーローに必要なのは、ただその覚悟一つだと。
ひょっとすると、ニュトを助けたいと思ったのには、同情心や仲間意識だけじゃなく、そうした思いから来る感情もあったのかもしれない。
──そして今。
俺は、目の前で起ころうとしている理不尽な出来事に、透明な体で何が出来るかを必死に考えている。
「六王兵のバスターク将軍……そのご高名は、私たち炊事婦のもとまで届いております」
ティナちゃんは相変わらず顔色ひとつ変えない。
「先の
そんなやべーやつなのかよ。
早くも覚悟が揺らぎそうだぞ。
食堂のおばちゃんたち、さっさと来てくれねぇかな……。
「……ですが、残念です。そんなお方が、不良兵士に従って、若い女一人を脅すとは。私が皆さまに付き従う理由など、何ひとつありません。どうか目を覚ましてください。『キオウ』の脅威が去った今、貴方がた兵士こそがロストグラフを支えていかねばならないのでしょう?」
キオウって何だ? 初めて聞く単語だ。
ひょっとして、それが英雄様が倒したという世界の敵だったのか?
ずい、と──宣言通り、六王兵の一人、バスターク将軍が、三馬鹿をどかしてティナちゃんの前に出た。
「……いい度胸だなぁ、嬢ちゃん。誘いに乗るどころか六王兵の俺に説教とはね。悪いが女に舐められちゃあ面目丸潰れなんだ。一発くらいは痛ぇの我慢してもらうぜ」
ずっと明後日の方向に視線を飛ばして興味が無さそうにしていたバスターク将軍は、ぐるりと首を回すと、やっとティナちゃんの顔を正視した。
しかしその瞬間──ピタリと、将軍の動きが止まった。
「……あ……あれ? アンタ……いや、貴女……」
いかにも飄々としていたバスタークが、見る見るうちに青ざめていく。
冷や汗もダラダラだ。
どうした? ティナちゃんが何だっていうんだ?
しかしその先を促したのは、驚くことに彼女の方だった。
「……ああ、余りに美人なので驚きましたか? 全く……美貌を隠すのに、眼鏡も三角巾も役に立ったものではありませんね。さあ、何をしているのですか、バスターク様? 早く私に『痛ぇのを一発』入れてみては?」
「いっ、いや――だが……──」
間違いなく将軍の様子がおかしい。
焦れてきた三馬鹿が将軍を煽る。
「どうしたんだじぇー、バスタークのダンナ!」
「うほほ、早いとこお仕置きしてやってほしいですよぉ」
「騎士に二言は無いひょろ〜?」
「うるせぇなぁ。他人のご機嫌伺いしか出来ねぇ三下どもがぁ!」
「バスターク様」
そしてティナちゃんは、とうとう将軍を眼光で射抜いた。
「この状況下──
「ううっ、うぐぐ……くそうっ……!」
バスターク将軍は、彼女の言葉に弾かれるように前へ進んだ。
どうやら彼はずいぶんとシンプルな性格らしい。
愚直と言うのだろうか。
考え方が直線的で、感情は直情的。
俺の人物評は当たる。遊ぶ友達がいなかったから、学校の休み時間中はずっと人間観察をしていたのだ。
将軍の右手が拳を作る。体も大柄なら手も大きく、それはまるで岩のように見えた。
もしもティナちゃんの細身に当たれば、ひとたまりもないだろう。下手をすればあばら骨が折れてしまうかもしれない。
それなのに彼女は依然として
バスタークはズンズンとティナちゃんに歩み寄って、そして──拳を振り上げた。
だが、そのパンチは打ち出されなかった。
構えた途端──バスタークは、見事なまでにすっ転んだのだ。
「──あだっ!?」
しかも、調理台の角に後頭部をぶつけるという手痛いオマケつき。
これは本当に痛そう。俺だったらその場で失神している。
いやー、不思議なこともあるもんだ。
バスタークが一歩を踏み出したとき、何故か忽然と
本当に不思議だ。
もちろん俺の仕業だけど。
麺棒を握ったまま透明化して、ギリギリまで床にひざまずいてタイミングを待つのは結構緊張したぜ。
「ダンナぁ! いきなり転んでどうしたんだじぇー!? ほらほら、もうこの女がオレたちに逆らわないよう、しっかり教えてやってほしいんだじぇえ!」
モンキーがさらに囃し立てる。
いやいや、今の見てたか?
完全に後頭葉にクリーンヒットしてたぞ。あれでノーダメージだったら人間じゃねぇよ。
だがバスターク将軍は後頭部をさすりながら平然と立ち上がった。
あっ、人外の方でしたか……。
見れば煉瓦造りの調理台の方が一部壊れている。
「六王兵」の実力は並大抵じゃない。
だが幸いにも、バスターク将軍はすっかり戦意喪失しているようだった。
おそらく今打とうとしたパンチも手加減しようとしたのだろう。だから俺も仕掛けやすかった。
しかし、なぜだ?
「こんなところに麺棒だと……? くそ、どうも今日は調子が悪い……日を改める」
「ふん、とんだおバカさんですね」
ティナちゃんに挑発されてもバスタークは苦々しい顔で背中を向け、なお殴ろうとはしなかった。
今の場は、完全にティナちゃんに支配されていた。
「調子が悪いって……パンチが無理ならそっちの剣を使えばいいじゃないんだじぇ?」
どうも三馬鹿は、今日こそは絶対にティナちゃんに痛い目を見せたかったらしい。
だがバスタークはモンキーの頭を片手で掴むと、そのままぐいっと持ち上げる。
「バカ野郎……剣は騎士の魂だ。
「ふひょっ。で、でもオレたちとのやくひょくは……」
「チッ、だからまた今度だっつってんだろ。これ以上しつこくすると、また三級兵士に降格させんぞ」
地位を落とされるのは相当イヤだったらしい。ようやく諦めた三馬鹿は、口惜しそうにティナちゃんを睨んで、それからスゴスゴとバスタークの後ろに付いていった。
やっぱりあのアホどもが二級兵士になれたのはゴマスリか。
ふー。
何はともあれ、彼女に何も無くて良かった。
そして最初のターゲットも決まったぞ。
俺が情報を集めるべき相手。
六王兵、バスターク将軍。
ロストグラフの内情を知るのに、これ以上無いほどの逸材だろう。
性格が単純そうなのがいい。もちろんあのパワーだから、油断は出来ないが。
もしもバスタークを上手く利用できれば、ニュトを解放する大きな足がかりになるはずだ。
ティナちゃんに対する妙な態度も気になる。
社会とは、突き詰めれば人間関係の集合体だ。人と人との繋がりを紐解いていけば、隅々まで見渡せるようになるはずだ。
早速バスタークの後を付けて、部屋の場所だけでも知っておくか。
その後は一旦ここに戻って、ニュトに朝飯を持って行って──
──と、脳内でプランを立てながら歩き出そうとした瞬間、不意に視線を感じる。
「……あなた、誰?」
ぬ?
「……誰って、訊いてるんだけど」
──目の前で俺をじっと見ていたのは、ティナちゃんだった。
眼鏡のレンズの奥で、理知的な光が宝石のように輝いている。
睫毛や肌までが光を散りばめていて、彼女が瞬きすると、それはスローモーションのようにゆっくりと見えた。
なぜだろう、その時──どこかで鐘の音が聞こえたような気がした。
**
まさか……俺が見えているのか?
何でだ?
バスタークや三馬鹿には気付かれなかったのに?
まずいぞ、どう返事をしたらいい──
「──……って、いるわけないか。……気のせいよね」
……。
……なんだ、言ってみただけか。
ふいー、緊張した。
この子、本当に妙な眼力があるな。うっかり声を上げちゃいそうだったぞ。
気づけば食堂のおばちゃんたちがドヤドヤと現れていて、ティナちゃんは何も無かったかのように掃除を続ける振りをした。
彼女のことも気になるが、俺は取りあえずバスタークを追うことにしよう。
食堂を出て一本道の長い廊下を進むと、城壁塔の扉が見えた。
いよいよだ。
この世界に来てから、初めて外に出る。
牢屋や食堂、詰め所や訓練所、どこにも窓が無かったから、正真正銘、初めての外だ。
異世界の風景。
一体どんな景色が広がっているんだろう。
――どこかワクワクしている。
扉は開かれていて、三馬鹿たちがバスタークの後ろ姿にヘコヘコと頭を下げていた。
奴らの横をこっそりと過ぎ、俺も将軍と一緒に外に出た。
――ロストグラフ城。
奥に
両脇には、おそらく王族の親戚や地位の高い兵士が住む場所である、レンガ造りの立派な別棟が建っている。
左手には礼拝堂らしきものや、神様の像っぽいものが置かれた広場がある。
世界が変わっても、人は信仰する生き物らしい。
遠くに見える山並みから察するに、この城はかなり高い場所にあるようだ。おそらく居館の逆側に城門があり、下れば立派な城下町が広がっていることだろう。
だが、これらの異世界的な風景は、たったひとつのありえない光景によって上書きされた。
灰色の絵の具を塗りたくったような曇り空。
そこに──
──
この世界に来て、ここが別世界であることを特に思い知らされた瞬間だった。
数本の亀裂が
広場を歩く貴族らしき夫婦も、居館の入り口を守る衛兵も、その光景に驚くことはない。
当然だろう、彼らにとってはこれが日常なのだから。
バスタークを追わなければという使命感も、自分が透明であることも忘れ、ただただその不気味な景色に感情が支配されていた。
自分が異分子であることを痛感した。
自分の姿が無いことに、今ほど不安を抱いたことは無かった。
俺はちゃんと存在しているのか?
ちゃんと、生きているのか?
だが、そんな時でも確かな思いがひとつだけある。
存在していようがいまいが、生きていようが死んでいようが、たったひとつだけ言えることがある。
ニュトには、俺しかいないんだ。
異世界に飛ばされて、妙ちきりんな生命体となってしまった俺に、
「大丈夫だよ」と、
「ここにいるよ」と──そう言ってくれた彼女の味方は、この世界に俺しかいない。
誰かに肯定されたことさえ、初めてだったかもしれない。
ならば今、自分がすべきことは何か。
萩野月人。
それは目の前のでかい背中を密やかに追うことだ。
俺は胸の中で「ラジャー」のサインを作ると、ヒビ割れた空から目を背けて六王兵バスタークの後を追った。
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