第2話 ロストグラフ編「彼女を助けるひとつの冴えたやりかた」
まずは看守たちのいる反対側──牢獄の奥の方へと歩き、人目がつかないところを探した。
透明人間だからって油断はできない。どんな原理でこうなったかは分からないが、行動する前に自分自身の特性をしっかり把握しておくべきだろう。ひょっとしたら透明になるのには制限時間があって、姿が現れることもあるかもしれない。
幸いにも牢屋のほとんどは空室で人目は無いようだった。
そうして一時間、俺は牢獄の奥の暗がりで色々なことを試した。
分かったことがいくつか。
その一。透明化が解ける、ということは、少なくとも一時間という制限の中では無いようだ。
また自分の姿をしっかりイメージしたり、体を揉んで肉体の存在を実感してみたりしたのだが、実体化することは無い。
透明人間という奇妙な存在になりながら、意外にも現状では一番ホッとした事実だった。
その二。どこまで存在が消えているのか。
五感という観点から見れば、
視覚──当然見えない。
聴覚──自分の声はハッキリ聞こえる。
嗅覚──肌の匂いは感じられない。
味覚──肌を舐めれば汗の味がする。
触覚──問題なく触れられるし、体温を感じる。
というわけで、見えず、匂わない、というのが俺の透明化のようだった。
匂わないというのは助かる。声を出したり人に触れるのは自分で制御できることだが、匂いをコントロールするのは難しいからな。
その三、透明になるのはどこまでか。
俺は
ならここで服を脱いだとき、それは透明なままなのか。
あるいは物を食べたとき、それはいつ透明化するのか。腹に入ったとき? 消化したとき? 排泄物は見えるのか?
まずは服を脱いでみた。これが割と早く透明化から解ける。脱ごうと思って袖から腕を抜いた辺りから、もう服が実体化しているのだ。
制服にはスマホやサイフやガムが入ったままだった。
スマホをミラーモードにしてガムを噛んでみる。
口に入れた辺りからガムの透明化が始まる。
周りを一度見回し、人目が無いことを確認してから空いている牢屋のトイレ──すなわち地面に掘られた深い穴に向けて静かに小便をした。尿は体から出た瞬間から実体化した。
結論。
やや曖昧な表現にはなるが、おそらく──俺が
これは少し慎重にならなければいけない事実だった。
例えばうっかり物を落としてしまったら、空中から何かが突然現れるように見えるのだ。透明人間の強みは、全て存在の希薄さに帰結する。そういう存在がいる、という事実さえ、今はまだ広まっていない方がいい。
俺はサイフとガムをトイレに捨てた。
スマホはまだ鏡やカメラ代わりに使えるかもしれないので、一番落としにくい腰のポケットに入れておく。
さてと。
「ニュト、戻ったぞ」
「ちゅきと! どこにいるの!?」
「しーっ。ここだここ」
カンカン、と小さく鉄柵を叩く。看守の姿は見えないが、用心するに越したことは無い。
「思ったより早かった。うれしー」
「まだ何もしてないんだ。でも、寂しがってるんじゃないかと思って一旦戻ってきた」
我ながらだいぶ情が移ってるな。
「えへへ……さびしかった」
柵から腕を伸ばして頭を撫でると、ニュトは嬉しそうに笑った。
「今度戻るのはもうちょっと遅くなる。いい子にしてるんだぞ」
「……ちゅきと」
ニュトは上目遣いにじっと見た。
と言っても、どこに俺の目があるか分からないから、いまいち焦点は定まっていないが。
「あのね、いい子にしてるから……ぎゅってしてほしー」
え?
「いや……そのためには中に入らなきゃ駄目なんだが」
「うん……ごめんなさい。やっぱりだいじょぶ。わがまま言っちゃった」
なんだよ、そんないじらしい顔をするなよ。
小さい頃に親を失ったんだ。こんな暗い場所で、頼る相手も無く一人きり……誰かに甘えたくて当たり前か。
俺は柵の隙間から両腕を入れ、ニュトの頭を抱き寄せた。
「ちゅきと……」
「すぐ戻らなかったら何でもするって言ったしな。次は俺も牢屋の中に入れるようになる予定だから、これで我慢してくれ」
「……うん、ありがとうちゅきと。……だいしゅき」
おおう、人生初告白。
心がこもった告白ってのはこんなに胸が温かくなるもんなのか。罰ゲームの告白とは全然違うんだな。
まあ、年齢的に妹から兄への好きみたいなもんだろうが、俄然やる気が湧いてきたぞ。
もう少し待っててくれよな、ニュト。
*
さて、透明人間の力を使って、まずやりたいことと言えば――もちろん、ニュトに美味しいものを食べさせてやることだ。
あんな水みたいなスープで、腹が膨れるわけがない。育ち盛りなんだぞ。
必要なのは、キッチンを探すこと、そしてニュトの牢屋に自由に出入り出来ることだ。
まず、キッチンはすぐに見つかった。
先ほどまでいた牢獄は地下三階という深い場所にあり、地下二階も牢獄で、こちらはある程度囚人がいた。地下一階は留置所のような役割を果たしており、そして一階にキッチンがあった。いい匂いがしたのですぐに分かった。
人目を避けながら見て回る。
牢獄や甲冑がある文明レベルで意外にも──と言ったら失礼かもしれないが、食材などの在庫のメモはしっかり残っており、定期的にこっそりくすねるのは難しいようだった。
となれば、調理中の食材や料理を盗むのが良いだろう。兵士は多く、料理も膨大だ。少しくらい減ってもバレないはず。幸い食器はたっぷりある。
初めは少しヒヤヒヤしたが、誰にもバレずに視察が済んだ。
食料の目処がついたら、次は牢屋の出入りだ。
こっちは少し考えがある。
城とは大勢の人間が住む場所で、元の世界で言えば巨大なルームシェアみたいなもんだ。トラブルがあった時は、もちろんそれに対応する専門家に登城させるのだろうが、城自体にも様々な雑用の用具が備わっているはずだ。
そして探してみると、思った通り地下の倉庫に、求める金ヤスリがあった。ヤスリの文化は古く、紀元前二千年にはあったと聞いたことがある。
こういうとき、いちいち物置に鍵が掛かってないのはありがたいな。
これを手に持ち、しっかりと「俺の一部だ」と思うことで透明化させる。
なんでヤスリが俺の一部なんだ、とか考えちゃいけない。まるで金細工職人のように、この道具は俺の手足なんだ、と疑わずに思うことが大切だ。
そしてそれは、深く考え過ぎない俺の性格的にはあまり難しいことでもなかった。
もう一度地下に戻り、看守室を覗く。
ニュトに夕飯を運ぶ気配は無い。だとすれば先ほどの差し入れが彼女の今日の最後の食事で、時間的には一日二食の可能性も高い。
……ウンザリするような話だ。
元の世界でも、中世じゃ一日二食だったと聞く。だがそれは毎食豪華で、おやつタイムとかもあっての二食だろう。
あんなスープ二杯じゃ、緩慢な殺人だ。
まあしかし個人的な感情は、一旦置いておこう。まずは牢屋の鍵だ。
今はそろそろ夜になる頃だが、ちょうど看守の交代があり、鍵束は直接次の当番へ手渡された。
そのため、一見、人の手から離れることは無いようだった。
しかし隙はあった。
トイレだ。
用を足す際、個室の前で看守は一度鎧を脱ぐ。そのとき、鍵束も台の上に置いてから中に入るのだ。
運がいいことに今夜の当番は下痢気味だったようで、本人が騒音を出しており、おかげで臭いさえ我慢すれば鍵束から簡単に鍵を抜くことが出来た。
ニュトが収監されている「64」号と、もうひとつは適当に「78」号の鍵。
地下三階の牢獄はニュト以外に囚人がおらず、その他の牢屋は長い間使われている形跡が無かった。
人は日常と無関係なものに無頓着になる。使われない鍵が無くなったところで気付く人は少ないだろうし、もし気付かれても誰かが失くしたと思われるだけだろう。
二つの鍵をポケットに入れると、それはすうっと宙に消えた。
俺はもう一度食堂へ戻った。
この近辺のことはだいぶ分かってきたが、牢獄や兵士用の食堂があるこの城は、いわゆる別館で、西洋の城でいう
王様や女王様が住むような本館、いわゆる
特にここの下層は兵士の詰め所にもなっており、王族が住む居住区ではない。
だからか兵士たちも遠慮なく喋ったり、訓練なんかをしていて、特に夕飯時の食堂は、間違いなくこの城で一番騒がしい場所である。
ここでなら“作業”が出来るだろう。
万が一、透明化が解けたときに備えて、部屋の隅っこの死角に隠れ、俺は二本の鍵と金ヤスリを取り出した。
続いてもうひとつの78号の鍵からも、「78」と刻まれたタグを外し、代わりに「64」のタグを付ける。
これで78号の鍵は、パッと見、64号の鍵になったわけだ。
元々の64号の鍵はタグを外したまま胸ポケットにしまい、「78」と刻まれたタグも胸ポケットに入れてしまう。
仕上げに、「64」のタグを付けた78号の鍵を、どこの鍵だか分からないように、先っぽを丸く金ヤスリで削る。
これで準備オーケーだ。
俺は食堂を出ると地下の倉庫に戻り、こっそり金ヤスリを戻した。
さらに看守の元へ戻り、再びトイレに立つのを待つ。下痢気味だったから、すぐにまた催すだろう。
予想通り、再び個室に籠もった看守の鍵束へ、下痢の騒音に紛れて「64」のタグが付いた、78号の鍵を戻す。
ニュトの牢屋に戻ると、彼女は眠っているようだった。
起こさないようにそうっと奥へ進み、一番奥の牢屋へ入る。
牢屋のトイレに「78」のタグを捨て、俺は朝を待った。
*
「おい、メシだ」
昨晩の看守から当番を引き継いだ兵士が、ニュトの牢屋へやってきた。
「64」と刻まれたタグの付いた鍵を取り出し、鍵穴へ差し込む。
くるり、と回すが、手応えが無いようだ。
「あん?」
くるり、くるり、何度回しても鍵は開かない。
看守が鍵を見ると、その先は滑らかに削れてしまっている。
「……くそ、使い過ぎで駄目になっちまってるじゃねぇか……。牢屋の場所を替えようにも、まずは魔女をここから出さなきゃいけねぇし」
ニュトはよく分からない様子で、首を傾げている。
「ああもう面倒くせぇ、こりゃ鍵屋呼ばないといけねぇな。おい魔女、残念だが飯は夕方までお預けだ」
看守はトレイを持ったまま帰ってしまった。
真後ろに俺が立っていたんだが、気付かなかったようだな。
あんな不味そうな粥でも、一日にたった二度の飯だ。ニュトの凹みようと言ったら、痛々しくて見てられないほどだった。
「……ちゅきと……」
グウゥ……。
俺は急いで牢獄の奥へ行き、布をかぶせた食器を携えて戻った。
「ニュト、帰ったぞ」
「ちゅ、ちゅき──」目をキラキラと輝かせて、けれど慌てて口を閉じ、小声になる。
「……ちゅきと……本当に帰ってきた……?」
「約束しただろ?」
タグの無い64号の鍵で扉を開けて中に入ると、ニュトは期待以上の驚きを見せてくれた。
なんで? なんでー? とほっぺたを赤くして不思議がった。
しかしそれ以上に、俺が持つものから漂う匂いに惹かれたようだった。
被せていた布を取り、食器の透明化を解くと、中に入った料理を差し出した。
塩味のきいたジャガイモやトウモロコシ、獣の肉、冷えてはいるが、ちゃんと穀物が入ったスープ――。
「こ、これっ、食べていいの!?」
「いいに決まってる。ニュトのために持ってきたんだ」
そしてニュトは──
「おっ、おい?」
──ボロボロと泣き出した。
「あ、ありがとう……ありがとうちゅきと……ぐすっ」
俺は思った。
この顔を見られただけで、あちこち歩き回った甲斐があったなと。
鉄柵の向こうを見張りながら俺は、小さな女の子がまともな食事をするという至極当たり前な光景に、生まれて初めてと言えるほどの感動を覚えていた。
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