「あいしている」といって

「あいしている」といって

「あなたのためを想っていっているのよ」

 呆然と立ちすくむシルヴィの目の前で彼女はいいました。


 強く風の吹きぬける王都の港には、シルヴィと彼女以外に誰の姿もありません。ざざあと音を立てて砕ける波の音が、周囲にひびくばかりでした。


「このナイフであの王子の胸を刺しなさい。その心臓から流れ出た血でヒレを洗うのです。そうすれば、あなたにかけられた死に結びつく呪いは解けるわ」


 手にしていた赤い刀のナイフをシルヴィに強く握らせ、その手を引き寄せながら彼女はことばを続けます。


「わたしたちの愚かでかわいい弟のために、皆で相談して魔女に頼んだのよ。契約で縛られれば、海をすべる魔女でさえうそをつくことは出来ないわ。あなたはまた、元の人魚の姿へ戻って皆と一緒に幸せに暮らすことができる」

「っ……」


 それをきいたシルヴィは、とても苦しそうに首を横に振ります。

 シルヴィのいのちを救おうとしてくれている彼女たちの優しさも、そして自分ではどうしようもないこの状況も理解しています。けれど、自分のいのち欲しさにあの優しい王子様をころすだなんて、シルヴィにはとてもできそうにありません。

 そんなシルヴィに彼女はとても悲しそうな顔をすると、上半身を大きく海から出して顔を近づけていいます。


「そんな弱気ではだめよ。あなたがどれだけあの王子を愛しているか……いのちを削ってまで会いに行ったのに、それを理解もせずあの王子は別の女と結ばれようとしている。この数か月、シルヴィと共に過ごした時間をないがしろにするような男、死んで当然だわ」


 そして、泣きそうになっているシルヴィの顔に頬を寄せながら彼女はいいました。


「いいこと、シルヴィ? あなたとあの王子との関係は終わったの。だからあなたはそのちっぽけな世界から解放されるべきよ。それは当然の流れだわ。……はやく、帰ってきてね。皆まっているわ」


 そういってシルヴィの額に長い口付けをおくると、彼女は翻るように海へと帰っていきました。一度も振り返ることなく、この後シルヴィが選ぶであろう現実から目を逸らすように。


 シルヴィは人魚姫とさえ称されるような人魚でした。

 雄ではありましたが、その美しく愛らしい彼を誰もがほめそやして可愛がりました。すくすくと成長して嫁を娶れる頃になると、彼の美しさは雌に引けをとらないほど洗練され、雌ばかりでなく雄でさえもが彼に結婚を申し込むようになりました。

 しかしその頃、彼には想い人が居りました。あらしの夜、彼が気まぐれで助けた人間の王子です。美しくしなやかな彼とは違って、雄らしい魅力にあふれた凛々しい青年です。


 ――女神様……。


 ぐったりとしたその体をおかに上げた時。微かに目を開いた彼の真っ直ぐなその眼差しに射止められてしまったのです。

 海の底のような、深い蒼色の目でした。

 その瞳が、いつまで経ってもシルヴィの頭から消えてくれません。その時のことを思い出してはため息をつくことが増え、姉たちからは何度も心配されました。そしてある日、彼はとうとう姉の一人に相談したのです。


――僕、あるひとのことが忘れられないんだ。この前僕が助けた人間で……。


 彼女はひどく驚きました。シルヴィは今まで恋をしたことがありません。それなのにまさか、同じ人魚ではなく人間が相手だとは。

 彼女は、父と共にシルヴィに詰め寄りました。違う種族に、ましてや人間に対する恋だなんてやめなさいと。あのような野蛮で残酷な種族に、自分たちの綺麗な心が分かるはずもないと。

 しかしシルヴィは頑なでした。人間がみな残酷なはずがないと。綺麗な心を持つ人間もきっといるはずだと。

 あの、素直で優しいシルヴィが姉や父のことばにすら耳を傾けようとはしません。何日も話し合いを重ね、その覚悟を思い知った二人はシルヴィにあることを教えます。


――北の洞窟にいる海の魔女に相談しなさい。ただし、あの魔女は狡猾で残忍だ。安易に契約してはいけないよ。もし手に負えない条件を出されたら、何をいわれようとも契約せずに戻ってきなさい。必ずだよ。絶対に、信用してはいけないよ――


 そうして、初めての恋に立ち向かうシルヴィを二人は見送りました。海の魔女は信用出来ませんが、その力は確かなものです。嵐を起こしたり、海の怪物を従わせて人間から海を守ってきたのは彼なのです。何もしない者たちに危害を加えることもありません。彼はまさしく魔女なのです。


 だから二人はシルヴィの幸せを願いながら。

 彼の背をいつまでも見つめ続けました。

 まさかそれが、彼の地獄の始まりだとも知らずに。


 シルヴィは一人で魔女と契約を交わし、人間の脚を手に入れるのと同時にその美しい声を差し出しました。そして、人間の王子と結ばれなければ泡となって消えてしまうという呪いをその身に受けながら。

 不安はありましたが、シルヴィは頑張りました。そして彼の美しさも手伝い、見事王子と親密な仲になることができたのです。

 王子と共に過ごした日々は、とても幸せでかけがえのないものになりました。おかでしか経験することのできない出来事や食べ物、美しい自然。シルヴィはたちまち人間の国に夢中になりました。

 彼に与えられた王宮からは海も森もみることができましたが、暇をみつけてはずっと、森ばかり眺めておりました。王宮からみえる位置に姉たちが来ていることにもほとんど気付きません。人魚の姉たちに何度かことばをかけられましたが、シルヴィはそれに笑顔で応えるばかりで忠告すら頭には入ってきません。

 このまま王子と結婚し、共におかで幸せに暮らし続けるのだ。彼はそう信じて疑いませんでした。


 しかし、そんなシルヴィの想いとは裏腹に、突然その幸せは崩れ始めます。

 ある人間の国の王女が、王子に会いに来たのです。

 自分はあなたの探している恩人に違いない、そういって王子に婚約を申し込み、王子とその王女の結婚が決まってしまいました――。



 真夜中。

 シルヴィはそのナイフを隠し持ち、王子の寝室へと忍び込みました。夜に何度も訪れたことのある王子の寝室です。その口から愛のことばを囁かれたこともある寝室です。まさかそれが、ただの出まかせに過ぎなかったとは。裏切られたシルヴィの心はずっと、血を流しながら静かに泣いています。


(ユリアン……助けたあの日からずっと、君のことが好きだった。君から愛しているといわれながら抱かれて、僕はとても幸せだった。ずっとずっと、その日々が続くと……愚かにも思っていたよ)


 ぐっすりと眠った美しく男らしい彼の姿を前に、シルヴィは立ちつくします。どきどきと高鳴る胸の上に、ナイフを持った両手を当てながら彼との思い出を振り返ります。


(大好きなんだ。……裏切られても、それでも僕は今でも君が好きなんだ。初めて、好きになったひとだから)


 気付けばシルヴィは、その目から涙をこぼしていました。月明かりに照らされ、宝石のように輝いた涙がその手の上にはらはらと落ちていきます。


(っ――ダメだ、僕にはできない……君のいのちを奪ってまでいきるだなんて――)


 そう思いながらそっと、シルヴィはナイフを下ろしました。

 はらはらと涙を流しながらたたずむその姿はひどく儚く、美しいものでした。窓から漏れる月明かりだけが、その姿を見ていました。

 しかしその時のことです。突然、シルヴィの耳元で声がしました。


「おや、君は本当に意気地がない」


 シルヴィは、その声に驚いて思わず尻もちをついてしまいました。手から離れたナイフが、ふかふかの絨毯の上を滑っていきます。

 一体誰がいつの間に。先ほどまでは自分と王子の姿しかなかったはずなのに。シルヴィは、その声の主を見上げました。

 そこに立っていたのは、どこか見覚えのある男でした。王子よりはすらりと細長くて、その長い髪の毛を後ろでゆるくひとつにまとめています。


「私は君にいったはずだよ。王子の愛を手に入れられなければ、その身は泡となって消えてしまう……魔法の薬には代償がつきものだ。それはそういう類の薬だと、私は説明した」

「!」


 その話で気が付きました。その男は、シルヴィが取引をした魔女でした。

 今代こんだいの海の魔女。男でありながら魔女と呼ばれるほど偉大な力を持った海の魔女。どこかシルヴィと似た性質を持ったような、なまめかしくも妖艶な男でした。

 彼はシルヴィの持っていたナイフを拾うと、その手に握らせながら耳元で話しかけます。


「このナイフであの男の心臓を刺し、その血を浴びさえすれば何事もなかったことにできる」


 魔女は更に、シルヴィの背にその腕を回しながら優しく抱き寄せました。


「それを君の姉たちも望んだのではなかったかな? 彼女らはその美しい髪を私に差し出してまで、君の本当の幸せを願っていたよ。君はそんな家族の気持ちを裏切るのかい? こんな薄情な男のために?」


 ハッと息を呑むシルヴィに、魔女は更にことばを続けます。


「王子は最初から分かっていたはずだ。男である君と結ばれるのをこの国の王が許すはずもないと。それなのに、王子は君の心も身体ももてあそんだんだ。すべて分かっていたはずなのに。君の気持ちにさえきっと。だからわざと逃げられないよう、君に向かって愛のことばを囁いたんだろう?」


 魔女のことばは不思議と、シルヴィの心の中にするりと入り込んできます。シルヴィの考えてきたことの全て、何もかもを分かったような魔女のことばが、無垢なシルヴィの心の中へ毒のように広がってゆきました。


「そんな男のために、君は本当に死ななければならないのかい? 分かっていながら君の心をもてあそんだ男に、君がいのちを捧げるほどの価値が本当にあると思っているのかい? 純粋で愚か、可哀想な人魚の子よ――」


 魔女はそういってシルヴィの頬を優しく撫でます。そういう彼の甘い誘惑が、傷ついたシルヴィの心に癒しとして入り込んでいきました。今までに感じたことのない激情がシルヴィの心を駆け巡ります。


(家族を裏切ってまで、僕がいのちをかけるほどなのかどうか……みんな知っていて、その上で僕にあんなことをしたユリウスに……)

「そう、そうだよ。家族を悲しませるよりも、君は君の人生を歩むべきだ。あの時、この王子のいのちを救ったのは君なんだ。確実に死んでいたはずのこの王子を君がどうしようが、君の勝手だとは思わないかい? 少しばかり生きながらえることができたんだ、むしろ感謝してもらうようなことじゃないか」

(……そう、そうだ……僕がいなければユリウスは死んでいた。だから、何もかもが元に戻るだけ……ユリウスはずっと僕だけの……)

「ははっ、その意気だよ。さあシルヴィ、ナイフを握って立ち上がりなさい。私が君を手伝ってあげよう」


 魔女に手をひかれながらシルヴィは立ち上がり、再び王子の身体の前に立ちました。先ほどまでとは違い、シルヴィのその瞳には決意がにじんでいます。どす黒く、まがまがしい感情が渦巻いています。まるで人間のように。

 そうしてシルヴィは、魔女と共にナイフを振り上げると。背を押されるがまま、それを振り下ろしました。

 突き刺さったそこから、ナイフと同じようなあかい液体が噴き出してゆきます。

 王子のいのちが、その身から流れ出してゆきます。

 その光景の生々しさに、シルヴィは耐えきれず目を逸らしました。

 そんな時です。突然、それを見た魔女がどうしてだか、くつくつと奇妙な笑い声を上げ始めました。


「ふふ……、ふふふ、やったね、君はやってしまった」

 横目にシルヴィを見ている彼の、冷ややかな視線にぞくりとしたものが背筋を駆け抜けます。

「あっはっはっは! 君はひどく愚かでそして救いようがない! そういう愚か者は好きだよ」

 そんなことを言う魔女が途端に怖くなり、シルヴィはじりじりと後ずさりました。魔女は笑顔で、そんなシルヴィの後を追いかけます。

「ほら見てごらん、あの王子、心底愛するひとに刺されて天に召される。とても残酷で悲しい、美しい最期だと思わないかい?」

(え……なに、なにをいって――?)


 魔女のいったことばの意味が分からず、シルヴィは王子の血で濡れている両手で胸元を押さえ後ずさり続けます。頭の中は真っ白でした。


「ふふ、まさか本当に気付いていなかったとは……君の泡になる呪いだが、とうに解かれてれているよ」

「!!」

「あの王子の真実の愛によってね」


 その言葉を聞いた瞬間、シルヴィの心臓が痛いほど跳ね上がりました。魔女のことばが本当なのかどうか、シルヴィには確かめるすべもありません。

 しかしこの時、同時にシルヴィは気が付いてしまいました。

 魔女のことばが本当かどうか――王子が自分を愛してはいないといったそのことばすら真実かどうか分からないではありませんか。

 もし、先程の『王子はシルヴィを愛してはいない』といった魔女のことばが嘘で、『本当は愛していた』といったそのことばが真実だとすれば。

 自分は何か取り返しのつかない思い違いをしてしまったのではないか。シルヴィの顔から、さあっと一気に血の気が失われました。


(そ、んな……そんなの、嘘だ――ッ!!)

「嘘かどうか……ならばこの後試してみようじゃないか。君はその脚に王子の血をまったく浴びていないだろう? このまま私が君をここから連れ去り、それでも君がいきていられるかどうか……」

(い、いや、いやだ……ユリウスッ!!)


 シルヴィは王子のもとへ駆け寄ろうとしました。今にも息絶えそうな彼に、シルヴィができることは何もありません。それでもどうしてだか、彼の側に行きたくて仕方ありませんでした。

 しかしそれよりも早く魔女に捕まり、シルヴィは空中へと持ち上げられてしまいます。


「さあ、人間の国では王子をころしたお尋ね者となり、人間の身体では人魚の国ですら生きることのできなくなった哀れな君はもう私のものだ。私と一緒に家に帰ろう。その身が朽ちるまで、愚かな君を私が愛してあげるよ」

(あ……あ、ああっ、うわあああああああああああっ――!!)


 声なき声で泣き叫びながら、シルヴィは血を流し続けているユリウスの方へ手を伸ばします。

 その時、シルヴィは見てしまいました。

 辛うじて生きていた王子が、今にもなくなりそうな意識の中、シルヴィの方へ手を伸ばしていることに。

「     」

 その声は聞こえませんでしたが、彼が何といったのか、シルヴィには見えてしまいました。

 深い深い絶望を感じながら、王子に愛されたシルヴィは、その場から連れ去られてしまいました。


 それっきり、美しい人魚と魔女の姿をみた者はありませんでした。



【了】

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