二十四日目の鐘

 ひとしきり笑い、もうこれ以上は呼吸が苦しくなりそうなところで、二人は同時に長く息を吐き出した。アウロラに誘われて寝台に腰掛けると、大きな硝子窓から星空がよく見える。

 腰を落ち着けたらまた話し出すと予想していたが、どちらもすぐには言葉が出なかった。星を眺めて沈黙を埋めているとそれで十分に感じる。

「また会ったら話したいと思っていたことたくさんあったはずなのに、変なの。何を話そうかわからなくなっちゃった」

「奇遇ね、同感だわ。笑うだけ笑ったら満足しちゃった」

「ほんと。あぁもうお腹痛い」

「私も。普段あんなに笑うことなんて無いんだもの。大臣の駄洒落は面白くないし」

「ひどい言われようね」

「本当のことよ」

 言っておいて再び同時に吹き出すと、またも二人してくすくすと肩を震わせる。しかし今度は短い間で気が済んだ。

 姿勢を正そうとアウロラが髪を耳にかけた拍子に、小さく硬質な音が立つ。

「あ、そうだわ」

 アウロラは手を髪から離すと、袖を引いて手首をウェスペルに向けた。

 そこに現れたのは、華奢な造りの腕時計だった。よく手入れしてもらっているのか、金属の金具にも文字盤を覆う硝子にも、傷や汚れはほんの一点も見当たらない。磨き上げられてすっかり新品さながらに見えるが、ウェスペルには見覚えがあるどころではない。

 もとはウェスペルが持っていた時計である。

「これ……」

 そっくりな二つの声が重なる。しかしそのうちの一つは、意外だと驚嘆を含んでいた。

 疑問に思ってアウロラを見ると、アウロラの目は時計の文字盤に釘付けになっている。何か起こったのかと視線を辿れば、星座の意匠が描かれた文字盤上で、淡い時計の針がもう少しで揃おうとしていた。

「動いてる?」

 アウロラが頷いた。確かに時計の秒針は、規則的な歩みを刻んでいる。

「止まっていたのよ。ウェスペルがいなくなってからずっと。それがまた動くなんて」

 停止した時計がひとりでに動くなど、現実的にはありえない。その針がいま再び時を刻んでいる原因があるとすれば、一つしかない。

 腕から時計を外し、アウロラはウェスペルへ差し出した。

「これを返さなきゃと思っていたの。ウェスペルの大事な宝物でしょう? それをずっと預かったままになってしまったから」

 腕時計はウェスペルが祖母から引き継いだ遺品だった。シレアでアウロラに託し、そのままシレアへ残したものだ。ウェスペルが去った後はアウロラが毎日身につけ、そうするうちにアウロラにとってもいわば御守りのようになっていた時計である。

 渡すのが名残惜しくないといえば嘘になるが、やはり謂れを思えばあるべきところに返さなければいけない。

 しかしウェスペルは首を振り、時計をアウロラの手のひらに載せた。

「アウロラが持っていて。私の大事なものだからこそ、シレアにあってくれたら嬉しい。そうしたら繋がっている気がするもの」

「でも」

 アウロラの眉が心底悪いと主張するように斜めに下がる。こうなったらなかなか承知しないだろう。だがウェスペルもアウロラの元にとどめておきたいのが本望だ。

 どうやって説得しようかと考えを巡らせ、思いついた。

「アドヴェントだし、それ、私からアウロラへのプレゼントっていうのはどう?」

「あどゔぇんと?」

「うん。私の世界の風習で——本来は宗教的な行事なのだけれど——冬の時期にね、贈り物を贈る習わしがあるの」

「宗教に関わるのだったら、信仰のない私が頂いたら失礼になったりしない?」

「大丈夫よ。大事な人を想って贈ることに神様は怒ったりしないわ。人々を想い合う日でもあるから、喜んでくださると思う」

 そう言いながらアウロラの指をそっと折り、腕時計を握らせる。アウロラはしばらく迷うように閉じられた手とウェスペルとを交互に見ていたが、遂には礼を言って自分でも握る手に力を込めた。

「何か私もウェスペルにお返しできたらいいのに。でも実体がないと何かあげるのは無理かしら」

「いらないわ。会えて話しただけで十分だもの」

「うーん、なんだか頂くだけ頂いちゃった感じ。物じゃなくてウェスペルのお願いを叶えられれば良いのだけれど……」

 そんなの気にしなくていいのにと思いながら、何か無いかときょろきょろ首を振るアウロラの仕草を目で追っていると、窓から望む城下町がウェスペルの視界に入った。

 わずかしか灯っていない街の灯の中心に、一際高く聳える塔がある。その塔は夜闇の中にあっても星明かりを受けて厳かな佇まいを見せ、最上層には白銀の文字盤上で、二つの針が天頂を指して揃おうとしていた。

 文字盤の一点には、遠目からでもその強さがよく分かる、薄桃色の宝玉——国を守るシレアの時計台。見る者に厳粛さと慈愛を同時に感じさせる、時の番人である。

 あの時計台のことを思い出していたのだった。

「私、鐘の音色が聞いてみたい」

 ぽつりと呟くとアウロラもつられて窓の方へ振り返った。

「鐘? 鐘楼の?」

 アウロラが窓を開けると、硝子越しの時よりも星々の輝きが鮮明になった。宝石を砕いて散りばめたような空の中で、完全に満ちた月が燦然と輝いている。

 白銀の円は、時計台のちょうど真上に来ていた。零れ落ちた月光が文字盤を明るく照らし出し、それはまるで魔法をかけるようで——


 

 空気中の微粒子が、細かく震えた。

 形容する言葉が見つからない。確かに耳に伝わり、感覚はえも言われぬ心地よさを認める。

 だが実際には体の外側で鳴っているのか、内側で鳴っているのか分からない。


 音と言っていいのかすら躊躇われる、妙なる調べ——



「これが、シレアの時計台の鐘よ」

 時計台と満月を背後に述べるアウロラは、誇らしげに微笑む。紅葉色の瞳が鐘楼を一瞥し、再びウェスペルに向けられた。

「これが、シレア全土に伝わる時の鐘」

 ウェスペルは無言で頷いた。

 時計の針が指すのは、新たな日の始まり。満ちた月が再び、新月へと向かっていく始まり。

 そしてアウロラもウェスペルも悟っている。この一瞬が境界であることを。

 時の報せに重ねて、調べに載せて伝えることは、僅かな言葉で十分だ。

「会えてよかった。アウロラ、元気で、幸せに」

「ウェスペルも。離れてしまってもずっと一緒にいるのと同じよ」

 この奇跡がもう一度起こる保証はない。しかし共にいられなくても気持ちは繋がっている。形のない想いは不確かなようで、信じ続けていれば、物とは違って壊れることもない。

 紅葉の瞳が紅葉の瞳と見つめ合う。何を考えているのか口に出さずとも分かる。

 二人同時に微笑み、瞼を閉じた。


 澄みきった冬の空気の中、星辰の光降り注ぐシレアの国土を満たして、鐘の音はゆっくりと確実に、十二回目を数えて響きわたった。


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