二十二日目の鐘

 左右の壁が再び色を濃くしていくのに従って、照明の灯ったシードゥスの部屋が次第に遠くなっていくのを感じながら、ひたすら前を向いて廊下を走る。もう後ろは振り向かない。振り向かなくても大丈夫だ。

 実体がないせいか息はちっとも切れず、重力や空気抵抗もほとんど感じない。無感覚とでも言うべき状態だからして、「初めての感覚」というのも妙だ。

 前方に見覚えのある木の階段が現れ、それを一気に駆け上がる。シードゥスの部屋に寄ってしまったため、そこからここまでは通った覚えの無い道で多少の不安があったが、恐らくどこからかアウロラと初めて城の上層部へ上がった時と同じ道に出ていたのだ。ここまで来ればもうアウロラの部屋まで迷わないはずだ。

 安堵したら脚が速くなる。するとすぐ先に、やや高い位置に配された照明に照らされ、ひときわ美しい白木の扉が見えた。

 ——着いた!

 喜びと期待で胸が高鳴る。風の仕業か妖精の魔法か、扉はどうやら半開きらしい。

 それに勇気付けられて、ウェスペルは部屋の中へ飛び込んだ——しかし。


 

 部屋を間違えたことはすぐに分かった。

「これは——こんばんは」

 転がり込んだウェスペルに気がつき、布張りの椅子に腰掛けていた部屋の住人らしき男性は、驚きも一瞬しか見せず、すぐに微笑んで声をかけた。就寝着と思しき衣服に長衣を羽織り、いかにも寛いだ風な姿勢から、手にした本を小卓に置いて立ち上がる。

 その挙措の流麗なこと。

 休息中を邪魔して誤って踏み込んだ謝罪をしなければ、と頭の隅で叱咤の声がするのに、ウェスペルは目が釘付けになってひと言も発せられなかった。

 ——こんな綺麗な人、いるんだ……

 美丈夫、とはこういう姿を言うのか。細身でありながら引き締まった体躯と長い四肢。端正な顔立ちは気品に溢れ、しかし高慢さは露ほどもなく柔和で親しみやすく、それでいて庶民を遥かに凌いだ高貴さは隠れもしない。

 柔らかな茶に近い髪が照明の光を返して艶めく。

「ようこそシレア城へいらっしゃいました。心より歓迎申し上げます」

 ウェスペルを前に優雅に礼を取る。胸の前に手を当て、首を垂れるその仕草は、初めてアウロラと出会った時に目にした礼とよく似ている。

 だがそんなことよりも、瞳を見れば答えは明らかだ。あの紅葉の色が持つ力強さと聡明さに極めてよく似た、曇りなく澄んだ蘇芳の瞳。

 すぐに悟った。この人物が誰なのかを。確か、名前は——

「カエルム……王子、殿下」

「初めまして、ウェスペル様。恩人である貴女に敬称をつけていただく理由はありません。どうぞ、カエルムと」

 王子はウェスペルのすぐ目の前まで来ると跪いたので、ウェスペルは呆然と見惚れていたところから慌てて我に返った。

「そんなやめてください! 王子殿下にしてみればこんな一介の庶民を」

「いえ、もしもあの時のことがなくとも、私は外国からいらした貴女の国の主でもなんでもありませんから、そもそもかように呼んでいただく謂れはない者です。それにその節は本当にシレアが救われました。なんとお礼の言葉を申し上げたら良いか」

「私は何も……むしろアウロラに助けてもらったくらいですし、それに……」

 こんな間近でこんなに美麗な貴人に「様」付けで呼ばれる居心地の悪さを、一体誰が体験したことがあるだろうか。

「アウロラも名前で呼んでくれますから、単に、ウェスペル、と」

 どこかでやったやり取りだな、と思いつつ、「あと、どうか立ってください」とウェスペルはどぎまぎ頼んだ。お願いだからあまり間近でじっと見ないで、と戸惑いつつも返事を待っていると、カエルムは「それではおっしゃる通りに」とふわりと破顔する。

 その様が、アウロラのお兄さんだな、と思わせるから不思議なものだ。そして続けてウェスペルに注がれる眼差しは慈しみに満ちて、あたかも本物の兄のようだった。

「貴女は何も、と仰いますが、あの時確かにシレアは貴女のおかげで命を繋ぎ止めたのだと思います。この国の責を負う立場として御礼を述べないわけには参りません。シレアの国主の名において、心よりの感謝を。それに」

 言葉を継ぎながら、カエルムの濃い蘇芳色の瞳がいっそう柔らかになる。

「アウロラを、妹の力になってくださったこと、どのような言葉を尽くして御礼申し上げるべきか。妹は貴女がいたからこそあの危機を乗り越えられました。アウロラの兄としての謝意を、どうかお受け取りください」

 真摯な眼差しでそう述べると、カエルムは再び深く頭を下げた。声音は心地良さを崩さないが芯があり、嘘偽りのない想いがそのまま現れたと、僅かの疑いも許さぬ礼だった。

 真心からの気持ちを無碍にするのはこれ以上ない非礼である。今度はウェスペルも辞退を述べずにカエルムの言葉を受け取った。

 ——アウロラがあのアウロラなの、分かった気がする。

 どこまでもまっすぐで、人と正面から向き合う。きっと兄を見て、兄から多くを学んで育ってきたのだろう。

 そう思わせるその兄は、十二分に礼を尽くしたのちに相変わらず品位ある態度を崩さず疑問を口にした。

「どうして貴女が今晩、突然いらっしゃれたのか分かりませんが、星の巡り合わせでしょうか。それともなんらかの兆しが?」

「私にも分かりません。でも、体は来ていないみたいで」

 変な話をしているという自覚はあるのだが、カエルムはウェスペルの全身をサッと眺めると、なるほど、と頷く。

「しかしシレアの妖精の働きなら『時』と関わりそうな気がします。しかも今夜は満月——恐らく、次の時報が一つの区切りとなるか」

 カエルムは窓の外を一瞥し、「十二時まであと僅かか」と呟いた。

「惜しいですが、手短にせねばならぬようです。アウロラの部屋に行かれるところでしたでしょう」

「あ、はい! すみません、間違ってしまって。ごめんなさい、お休み中だったのに」

「お気になさらないでください。貴女にお会いできずにいた方が残念でしたから、ウェスペル」

 カエルムはウェスペルを誘うように、部屋の入り口へ進んだ。

「アウロラの部屋はここから七つ先です。扉は私の部屋と同じ造りだからすぐにわかるでしょう。一緒に行く手もありますが、恐らく」

 廊下の先をウェスペルに指し示してから、カエルムは悪戯を共有するような視線をウェスペルに向ける。

「二人っきりの方がいいでしょう?」

「実は……失礼ながら」

「やはり」

 冗談めいて声を顰め、ウェスペルと顔を見合わせる。その様がウェスペルにアウロラを思い出させた。

「それでは、ぜひアウロラと話してやってください。あの子は無闇に希望は言わないけれど、貴女ともう一度お会いしたいと強く願っていましたから」

「ありがとうございます。でも、お兄さんにもお会いできて良かったです」

「私に?」

 意外そうな表情がウェスペルには意外である。何せこの人は。

「アウロラがとっても自慢するんだもの。どんな人かと思っていたけれど、アウロラが自慢するだけありました」

 言葉なく微笑み返すのは、嬉しさの証だろう。絆がよくわかる兄妹だ。

 それが分かったらウェスペルも一つ、アウロラに近づいたようで嬉しくなる。

 窓の外で、月が尖塔の真上まで迫っている。きっとここから戻る時が近づいている。

 ウェスペルはカエルムに正面から向き合うと、深々と頭を下げた。

「アウロラに会ってきますね! カエルムさん、お話してくださって嬉しかったです!」

 




「カエルムさん、か」

 初めての呼称は新鮮で、下手に畏まらず心地よい。

 妹によく似たまっすぐな心根と、妹とは異なる物静かな気性を思わせる少女である。

 ——だが、決して弱くはない。

 十中八九、激したら止めるのは難儀だろう。そして大切なことを曲げない芯がある。

 もし今宵、妹が自分と共同統治者として王位に着く時代の前夜に彼女が訪れたことが、シレアの妖精の計らいなのだとしたら。

 ——シレアの妖精に、心より感謝いたします。

 カエルムは窓を開け、城下の街を臨んだ。時計台の針があと少し進めば、日付が変わる。

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