二十一日目の鐘
鳩が豆鉄砲を喰らったってこんな顔なのかな、とウェスペルは思った。鉄砲が当たったついでに一瞬前までの哀しげな色はどこかへ追いやられてしまったようだ。
「あのね、シードゥス」
疑問を浮かべるのすら追いつかないといった呆け方がなんだか微笑ましい。
「あの時、助けてくれてありがとう。シードゥスのおかげで私、アウロラに会えたの。それでね、無事に向こうに戻れたの」
また悲痛な感情が戻るよりも前にと、ウェスペルは続けた。自分でも驚くくらい落ち着いていて、するりと言葉が出てくる。
「シレアの人たちも、シードゥスがいたから今のシレアがあるんだと思うの。だから、自分を褒めてあげて」
「ウェスペル……」
「私はシードゥスに会えて良かった。苦しんだなんて思ってない。もう一度会いたかった」
向き合った顔にはまだ動揺が残っている。それを認めて、できうる限りの笑顔を作る。
「ありがとう」
沈黙が再び夜の静寂をもたらした。
だがそれは本来、不安や恐怖を生むのではなく、居心地の悪いものでもないはずだ。
じっと見つめていると、シードゥスを捕えているように見えた当惑が緩まるように、強張った頬がゆっくりと、次第に笑みを作り出す。
深い海の底のような、真夜中の空のような瞳にあった険しさがウェスペルを映して和らいだ。
そうしたらウェスペルもほっぺたが柔らかくなるのが分かり、いつしか自分も緊張していたのに気がつく。
どちらからともなく笑い声が溢れて、部屋の中に波のように広がっていく。
「ありがとう……」
ひとしきり笑ったあと、シードゥスがウェスペルの方へ手を差し出した。しかし伸ばされた手指はウェスペルの肩を抜け、居場所を無くして空を泳ぐ。
「なんだか、来れたのは意識だけみたい」
「そっ……か」
行き場なく空を掴んだ拳を見つめ、シードゥスが呟いた。恐らくこうしていられる時間もあと少しだろう。理由なき予感がウェスペルを急かす。
「シードゥス、私ね、シードゥスやアウロラのおかげで向こうに戻って、いまは大学に行って勉強してて、毎日満ち足りてて、元気でやってる。それで今日ここに来てまた会えて、欠けていたなと思う部分も埋まったよ」
話しながら自分でそうだったのだと確認しながら、伝えたい言葉を選んだ。
「だからシードゥスもこっちで幸せになって欲しい。会えるのは最後かもしれないけれど」
「うん」
戻ってきた返事は短いけれど、今度は揺らぎが無かった。切れ長の目が細められ、優しい眼差しがウェスペルに注がれる。
窓からの風が再び、鈴を鳴らした。
多分、ここにいられるのはあと僅かだ。シードゥスもそれを悟ったのだろう。
「アウロラ様には会った?」
「これから」
「なら早く行かないと。会いたがっているから」
別れるのは惜しい。けれどもきっと気持ちが繋がっていると思えば、寂しさや悔いよりも強い気持ちが残る。
「シードゥス」
そんな確信がいま、ウェスペルにはあった。
「ちょっとだけ、屈んでみて」
「え? こう?」
問い返しながら俯きがちになると、ウェスペルより背の高いシードゥスの頭とウェスペルの頭が並んだ。
自分の目の位置より少し上に額が見える。ウェスペルは目を閉じて、そこにそっと口づけた。
「お返し」
すぐに離れて照れ隠しに言ったら、真っ赤な顔が目を見開いて固まっている。
触れた感覚はないのに途端に相手の熱が伝わったようで、ウェスペルの方こそ体中がお湯に入ったみたいなのだが。
「大好き」
熱に浮かされた勢いのまま、内にこもっていたものを吐き出す。
「忘れないの。もし戻って月日が経って、別の誰かと恋人同士になったとしても、私はシードゥスをずっと忘れない。ずっと大事で、大好きだから、シードゥスもそうしてくれたら嬉しい」
一緒にいられないとしても、想い続けるのは自由なはずだ。想いに縛られるのではなく、いつでも心の中を温めてくれる存在であるように。
互いに互いの瞳の奥を見つめれば、想いは同じだと分かる。
「俺も——好きだよ。ずっと。この先も」
言葉が喉元で詰まって、ウェスペルは頷いた。頷き返す仕草は不器用で、それがまた彼らしい。
互いに別の誰かと出会っても、心の中に灯ったこの温かな火は消さないでもいい。
「幸せに」
窓の外で煌めく星々に願い——誓う。こんな奇跡が起こるのなら、絶対に不可能ではない。
「じゃあ私、行くね」
「うん。アウロラ様は上の階だ。一刻も早く行ってあげて」
名残惜しさがないと言ったら嘘になる。しかし未練や後悔は残らない。
触れずに重ねた手がどちらからともなく離れる。
心からの、偽りのない笑顔が同時に浮かぶ。
涙が込み上げるのを押し戻して、ウェスペルは踵を返した。胸に先にはなかった温もりを感じて。
***
空色の襟巻きが廊下の向こうへ完全に見えなくなってから、シードゥスは部屋の奥へ戻った。
布張りの深い椅子にどっと腰を落とす。背もたれに体重を全て預け、しばらくしてから背を起こすと、今度は両手で頭を受け止めた。
「あーもう……なんだよ意識だけって」
徒らに髪を掻き、自棄っぱちにぼやく。
「あんなことされても……抱きしめられないじゃんか……」
口づけすら、という言葉が思い浮かんで慌てて首を思い切り振る。情けないというか不甲斐ないというか残念というか、ともかく名付けようもない感情がもつれにもつれて胸をいっぱいにして、吐き出すだけ息を吐き出した。
しかし、寂しさや悔いはどこにもない。
ひとしきり頭を抱えたあと、パン、と勢いよく頬を叩く。
「よし」
引きずっていたらそれこそ格好悪い。約束だ。
——幸せに。
澄んだ空気の夜空を見上げる。遠く南の天低く、十字の星が瞬いた。
船乗りの標は今夜も変わらず、確たる道を示している。
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