十六日目の鐘
冷たい廊下を行く自分の足音が聞こえない。冬のブーツを履いているはずなのに、踵が床に当たっていないような浮遊感。気づけばウェスペルは自室にいた時の寝巻きではなく、コートにマフラーを巻いている。
まるで真冬にあの森へ帰る用意をしていたみたいだ。
疑問は頭を掠めるだけで、足は迷いなく動く。記憶の通り、すぐ先に淡い灯火の影が廊下にはみ出している。
——まだ起きてる。
目がぱっと見開くのが自分でも分かった。
その灯りの出所に辿り着き、部屋の中を覗く。
「料理長さん」
聞こえるかな、と不安が過ったが、石壁に囲まれて、白い衣姿の老人がこちらを振り返った。
暗くてよく見えないのか、老人は口をすぼめて眉を寄せ、そしてすぐに眼光を緩めた。
「その昔、城に巣食う子供の霊の話を姫様にしたら、やはり仕込み用に倉庫から粉を上げたら妙な子供を見たもんでなぁ。その子が本物になって成長したかと思うたが、これはまた珍客じゃのう」
しげしげと眺める様子はいぶかしがんでいる風はなく、むしろ良いものを見つけて上機嫌になった好々爺である。
「あの時の菓子はもう季節でないからないがのう」
「料理長さん、私のこと憶えていてくださってるんですか?」
自分は突然消えた人間である。自分が生きる世界でシレア国の実在が確かではない以上、もしシレアの世界が本当だとしても、そこで自分が実在していたのかウェスペルには確かめようがなかった。
ウェスペルにとってシレアへの旅は本物だった。紛れもなく真実で、シレアが無いとは一瞬でも信じられなかった。
しかしウェスペル自身がその世界で本物だった保証は無い。シレアの人たちに夢想幻影だったかもしれないのに。
しかし料理長は、驚きで目を見開くウェスペルににやりと笑う。
「わしは己の食事を味わせた人間をけして忘れはせんて。嬢ちゃんもわしの料理の味は忘れられんじゃろう」
答えを確信した問いには、職人の自信がある。確かにあの味は忘れられるわけがない。
「料理長さんのお料理、とっても美味しかったです。忘れるなんてできそうにないみたい」
そうかいのう、と頷くと、料理長はウェスペルを頭からつま先まで眺めて、思索するように腕を組んだ。
「ところで嬢ちゃん、どうやら体が中途半端じゃよ」
「へ?」
「薄く卸した魚みたいにぼやりとしとるのう」
微妙にな、と付け加えられる。言われて手を見てみるが、確かに手指の線がインクの滲んだ線のようだ。
意識だけがこちらに来るなんてことがあるのだろうか。
「嬢ちゃんのどこかを置いてきてしまったのならきっと帰りを待っとる。姫様に会ったかのう」
ふるふる首を振る。
「ならご挨拶せねばならん。こんなとこで油売っとってはいかんよ」
「は、はい!」
上を指さし顎で行けと示されて、ウェスペルは踵を返した。
だが駆け出す前に言いたかったことを思い出す。
「焼き立てのパンが本当に美味しくて、私いま、パン屋さんで働いているんです」
すると老人はおや、と眉を上げた。
「パンの焼きにはかなりのコツがいるからのう。嬢ちゃんもまだ手こずっておるのでは」
「まだまだ焼く方はやらせてもらってないけれど、いつか焼きたいなって。料理長さんのパンみたいなの、焼けるように」
「そりゃあ何年もかかるわい」
ふぉーふぉーと豪快な笑いが壁にこだまする。
「毎日毎日の積み重ねでコツと自分の味になる。わしの味でなくて、わしを超えるつもりでやるがいい。ほら、急ぐんでないのか」
「はいっ! 超えます!」
あの時はご馳走様でした、と一礼し、ウェスペルは廊下に飛び出した。
残された料理長は、またもふぉー、と顔を上げて笑う。
「まったくもって良い嬢ちゃんだよ。駆けていくときの所作がアウロラ様とそっくりじゃて」
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