十日目の鐘

「こら若造。食べるか読むかどっちかにしたらどうだ」

「んー……」

 返事とも取れない応答をするのは、黒に近い髪の青年である。厨房の脇に構えられた休憩室で背の高い椅子に座り、林檎を齧りつつ卓に肘をついて書物に目を落としていた。

「まったく。厨房に来るなら皮剥きでも手伝えばいいだろうに」

「おやっさん、俺もう雑用卒業したんだけど。ヘトヘトだから休憩時間は休ませて」

「そういう時だけ耳が回復するのか」

 ぶつぶつと言いながらも、料理長は奥から菓子と湯呑みを載せた盆を手に休憩室へ入ると、青年の手の横に皿を置いた。種実が燻された芳しい香りと砂糖の甘い誘惑に、青年はちらと皿を見遣る。黄金色の表面に、生地に練り込まれた酒と蜜に漬けた乾燥果実が顔を見せていた。

 視線を老人に移すと、顎をしゃくって「食べろ」と促される。

「そんな夢中になって何を読んどるんじゃ」

「外国からの新書だよ。スピカがクルックスから借りてきた本」

「あの嬢はもうこんな分厚いもんまで読んどるのか」

 白帽の下で額の皺が寄る。だが、自分も似たような書物を同じくらいの歳頃に読んでいた身としては、大して驚くことでもない。

「して、何の話なんじゃ」

「そんなん言っちゃったらつまんないじゃん。おやっさん、自分で読めばいいと思うよ」

「小癪なことを言うでないよ。早朝の釜炊きから深夜の仕込みまで取り仕切っとる老いぼれに読む暇があるか」

 もっともである。元雑用の身として仕込みくらい代わってやって、たまには休ませてやらないといけないかもしれないと頭の隅で思いつつ、青年は読んでいた頁を遡った。

「冬の話でさ、一年の巡りが終わる頃に不思議な力を持った人物が、人々の願いを叶えてやるんだと」

「不思議な力とは、シレアの妖精みたいなもんかのう」

 白い髭を撫でながら老人は思案を巡らせる。シレア国の森に住まうという妖精は、太古の昔に海から移り住み、以来ずっとシレアの宝である不思議な時計塔と、シレアの国を守っていると伝えられる。

 そうした伝説の類は通常なら作り話として語られるが、実際に時計はシレア国内のどこにいても確実に聞こえる音をもって、人々の秩序を守っている。シレアの妖精に関しては、この時計台の力ゆえに疑い切ることは不可能だ。

「妖精……かはわからないかな。老人だったり、子供だったり、それに願いを叶えてくれる日も違うし、説は一つではないみたいだよ。力の方もお金を煙突から落としたり、欲しいモノをくれるのだったり」

 恐らくある地域を発祥として各地に話が伝わる中で、他の伝説や別の人物の偉業などと融合して形が変わっていったのだろう。青年は湯呑みに手を伸ばし、蜜と生姜の絞り汁を溶かした熱い湯を一口含んだ。石壁の休憩室で冷えた体が途端に湯に入ったように温まる。

「して、おまえさんだったら何が欲しいんじゃ、シードゥス」

「何を、ねぇ」

 尋ねられて、ふと思う。仕事も待遇にも不満はないし、己の力不足を別とすれば、生活の中で不足を感じたこともない。

「モノ、はいらないかな」

「願いが叶うとしたら?」

「願い……」

 瞬間的に、脳裏に蘇る。

 柔らかな髪を揺らして首を傾げながらの、少し自信なさげな微笑み。しかし紅葉色の瞳にはっきりと現れる、相手を想いやる強い意志。

 もし、願いが叶うというなら。

 頭を掠めた考えが無意識に青年を俯かせる。

「いや、無理だろ」 

「何じゃ」

「何でもない、何もない」

 頬に火照りを感じてはますます顔を上げられない。熱い生姜湯のせいにしようと、青年は急いでもう一口を喉に流し込む。

 ピリリとした刺激が気管に入り、思いきりむせ込んだ。

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