七日目の鐘
「え、なあに?」
友人に聞かれ、ウェスペルは思わず口走っていたことに初めて気がついた。なんでもないと誤魔化し、「そっちは何を頼む?」と友人からの問いをすり抜ける。
「一日三十六時間」とか、「一年中
そんなことがあってから、しばしばあの秋の不思議な旅をふと思い出すようになっていたのは確かである。
だからだろうか。いよいよ待降節に入るという週に、あの像が再び瞼の裏に浮かんだのは。
トラムのタラップに足を掛けた瞬間、体の内で不思議な音を聴いた気がしたのは。
——もうあの日からずいぶん経ったっていうのに。
戻った直後とは違う。新しい毎日の忙しさの中で、あの旅に思いを馳せる機会はだんだんと減っていっていた。日々やることは増し、集中力は目の前の課題に充てられて、充実感と引き換えに気持ちを他に回す余裕は削られていく。そんな毎日がウェスペルの日常を作り上げていっていた。
しかし、忘れたわけではない——忘れられるわけがない。
「ウェスペルちゃん、今日はもう、早めに上がっていいわよ」
閉店までややもない時間、店内の棚の中から売れ残っているパンを一箇所に運んでまとめていたら、冷蔵ケースの向こうから店のおかみが顔を覗かせた。大小の
「それからね、店長がシュトレン、持ってきなさいって。少し遅れちゃったけれど」
「いいんですか? やった、今日から早速一スライスずつ食べます」
「ウェスペルちゃん一人暮らしだから少し小さめだけれど、この街の伝統製法だから」
ウェスペルが厨房の方へ戻っていくと、シュトレンはもう耐油紙にくるまれている。丁寧に籠へ入れられる様子は、まるで幼子がおくるみに包まれているのを見るようだ。
しかしそれにしても大きい。この土地の人々の食事は、ウェスペルの感覚からすると常に多い。
「そんなにたくさんいいんですか!?」
「小さいわよう。それよりウェスペルちゃん、今日は教会の前でツリーの点灯式があるからね、急いで帰んなさい。この街、初めてでしょう」
それを見られるように早く上がっていいと言ってくれたのだと気がつき、ウェスペルは勢いよく頭を下げると大急ぎでコートを店の裏から引っ掴んできた。渡された籠の中にはシュトレン以外にも包み紙がある。おかみを見ると、「店の新作のパンだから」と答えが返ってきた。
「それより時間が少ないよ」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
おかみに背中を押され、もう一度礼をして帽子を被る。
——あれ?
駆け出しながら妙な感覚を覚えた。今のやりとりには、記憶がある。
『時間が少ないぞ』
——ああ、そうか……。
あの時は、ベレー帽を被って駆け出した。
抱える籠から立ち上るパンの香りがどこか懐かしい。
——料理長さんの焼き立てパン、美味しかったな。
凹凸の多い石畳の道は、踏み出すごとに足裏を刺激する。そういえばあの道も淡い紅色や白の石畳だった。
薄暗くなり始めた道の先に、てっぺんに組み鐘を見せる教会の尖塔が見えてきた。
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