第10話 動くな! NHKだ!

 そのころ、ルリ子は足音を忍ばせながら地下へと降りていく。

 人の気配を探るかのように壁に背をつけゆっくりと。

 階段を下りた先には窓が一切ない廊下がまっすぐに伸びていた。

 そんな薄暗い廊下を天井につけられた蛍光灯の点滅が色を付けては消すのを繰り返す。

 時折聞こえるチカチカ音、蛍光灯から響くジーッという音は、それはまるで暗闇の中に得体が知れない何者かが潜んでいるかのような気味悪さを感じさせた。

 そんな廊下の奥……

 ひっそりとたたずむ一つの鋼鉄製のドア……

 今いる場所からちょうど反対側に見えるのが死体安置所の入り口なのだ。

 日ごろはルリ子によってしっかりと施錠されているドア。

 それが、なぜか、今わずかに開いていた……


 おそらく、わずかに開くドア隙間から空気が漏れだしてくるのだろう。

 行き場のない淀んだ空気がかすかに揺れるのを感じるのだ。

 しかも、廊下に残っていた微かな香りがルリ子の鼻をかすめていく。

 おそらく、それは融合加工で使われる油の匂い。

 忌野清志子イマワノキヨシコの代わりに自分たちで荷物を運んだタカトとビン子の服にこびりついていた油の痕跡にちがいない。

 ――もしかして……ビン子ちゃんはあの奥に……

 ルリ子はわずかに期待はしていた。

 もしかしたらビン子は階段を上って二階に上がっているかもしれないと……

 だが、どうやらそれは当てが外れたようである。

 ――おそらく、ビン子ちゃん以外にも何者かが潜んでいる!

 あの時、ビン子が廊下の陰に吸い込まれた様子からして、何者かによって強く腕を引っ張られたに違いないのだ。

 ――入院患者の誰かなのか?

 いやあり得ない。今の入院患者は動けぬ重病人ばかり。ビン子を強く引っ張った上で、担いですばやく死体安置室に駆け込むことなどできやしない。おそらく、あの立花にだって無理な話。

 ――ならば、完全に部外者の仕業!

 ルリ子のバットを握る手に自然と力が入っていた。

 だが、その手は既に汗でじっとりの湿っている。

 おそらく、日ごろヤンキー丸出しのルリ子であっても、己が知らぬ間に不安と恐怖を感じていたのかもしれない。


 死体安置室のドアがゆっくりと開いていく。

 それは鋼鉄製の重厚さとは程遠く、音もなくスーッと……

 ルリ子はドアの隙間から中の様子を伺った。

 非常灯の薄明かりの中に浮かび上がる10畳ほどの室内は全くの無音。

 人のいる気配はまるでない。

 ルリ子はさらにドアを押し開けると、その身を室内へと滑り込ませる。


 部屋の奥には死体を保存する棚が幾重にも重なる。

 その脇には大きな焼却炉。

 引き取り手のない死体をここで焼却するのである。

 そして、それらをグルリと取り囲むように壁には木製の棚が設置されていた。

 三段ほどの棚には、所狭しと大きな瓶が並んでいる。

 その数、数百以上……

 どの瓶も満々と液体をたたえ、しかも、何か大きな物体を内包していた。

 それは……

 人の首

 老若男女、大小さまざまの青白い顔……

 ビンの中からうっすらと開いた無数の眼が先ほどからルリ子の様子をジーっと見ているような気がした……

 ――くそったれ……マジでいつ来ても気味が悪いたらありゃしない……

 そう、壁一面にあるビンの中には全てホルマリンにつけられた人の首が入っていたのだ。

 おそらく、これはこの死体安置室の前管理者の趣味だったのだろう。

 この病院で亡くなった患者を人体実験するかのように解体していたのだ。

 そして、その作業に使っていたと思われる赤黒く薄汚れた大きな机が、部屋の中央にポツンと置かれていた。

 この光景……何度もヒロシの首を求めてこの死体安置室に入ったルリ子であったとしても慣れることはなかった。


 だがしかし、死体安置室の様子はいつもルリ子が見る時のままであった。

 そう、部屋を見渡す限り、この中に人がいる様子などありはしなかったのだ。

 だが、安置室のドアが開いていたということは間違いなく誰かが中に入ったはず。

 そして、一本道の廊下でルリ子と顔を合わさなかったということは、この部屋からは出ていないという証拠なのである。

 ならば、考えられるのは一つだけ……

 ――きっとどこかに隠し通路があるはず。


 過去、ルリ子がその可能性に思い至らなかったというわけではない。

 10年もの間……さんざんヒロシの頭をもとめて病院内をくまなく探し回ってきたのだ……この死体安置室は、そんなルリ子にとって最後の希望の場所。ヒロシの頭があるとすればここしか考えられなかったのである。

 首の入ったビンを手に取っては、その表情を一つ一つ念入りに確認する。

 だが、どれもヒロシの表情とは異なっていた。

 数百もあるというのに、どれもこれも違うのだ……

 ――もしかしたら、見落とした?

 ルリ子はそんな作業を二度、三度と繰り返す。

 だが、ないものは無い。

 どんなにビンをひっくり返してみたとしても別人の頭は別人のまま。

 その事実に気づいた時、ルリ子は大きな泣き声を上げた。

「わぁぁぁぁぁぁぁあぁっぁぁぁぁあ!」

 ガシャン!

 ルリ子はビンを床に叩きつけると、頭を抱えながら膝をついた。

 うつむく表情が小刻みに震え、大粒の涙がこぼれていく。

「お父さん……お父さん……お父さん……」

 もしかしたら、ヒロシの頭があるという話そのものが眉唾なのか……

 コレだけ調べても見つからないのだ……

 ――だが、ありえない! それだけは絶対にありえない!

 そのたびに、強く自分に言い聞かせてきた。

 であれば、可能性は一つだけ……

 ――この部屋に隠し部屋があるに違いない。

 だがそれは、タダの憶測……ルリ子の勝手な思い込み。

 だが、ルリ子はその憶測にすがるかのように……棚の下に雑然と置かれたダンボール引きずり出しては、四つん這いになってはその棚の奥を調べはじめた。

 もしかしたらと思って、部屋の真ん中のテーブルをずらして床をコンコンと叩いてみる。

 だが、それらしきものは何もない。

 ならばと、死体を安置するための棚の中に自ら潜り込んでは、その内部の隅々を調べたのだ。

 しかし、やっぱり見つからない……

 どこにも隠し通路につながるような痕跡は見つけられなかった。

 ――クソったれ……やはり、隠し通路なんてないのかよ……


 だが!

 

 しかし!


 消えかけていた可能性が今、確信に変わったのである!

 今まであるかもしれないと思っていた隠し通路。それが確実!絶対!にあるのだ!

 ルリ子は、今一度ゆっくりと部屋の中を見まわしはじめた。

 ――自分が今まで探していないところはどこだ……

 その視線は部屋の奥の棚から壁をつたいグルリと回る。

 そして、開けっ放しにされた安置室のドアへと戻ってきた時……

 そこには! 何と!

 青白い顔が宙に浮いていた!

「きゃぁぁぁぁぁぁ!」

 

「きゃぁぁぁぁぁぁ!」

 二階に並ぶ病室の中からは、次々と悲鳴が轟きわたっていた。

 廊下の脇に並ぶ病室のドアは全部で12。

 そんなドアをお菊たちが片っ端から矢継ぎ早に開けては、ベッドに横たわっていた患者たちの動きを制していたのである。

 この午後のひととき。

 ルリ子しか看護師がいないツョッカー病院では治療などは全く行われることがなかった。

 そのため、誰も来ない病室には、のどかな時間が流れていたのである。

 しかも、今日は晴天! 青い空!

 窓から吹きこむ爽やかな風がレースのカーテンをゆらしていっては部屋のなかのイカ臭い空気を清めていく。

 それなのに!いきなり!

「動くな! NHKだ!」

 まさに、晴天、いや、青天のへきれき。

 ある病室では、腕にさしていた点滴液を鼻の穴から吹き出してしまうオッサンがいたり……「チャラり~ん♪ 鼻から牛乳!」

 またある病室では、かのコンビニで販売されていたというバキュームカップ『風林火山を』を慌てて股間からとり外すと、ハゲ頭のてっぺんにペタンっと付け直したオッサンがいたり……「この無量大数回の微弱振動がぁっぁぁぁ!気持ちいいぃぃ♡ イク♡ イク♡ 柏原イクえェェェ! って、誰やねん! お前ら」

 あまつさえ、半狂乱になりながら、いきなり窓からテレビを投げ捨てるオッサンまでいたのだ……「ここには受信装置なんてありません! だから帰ってください!帰ってください!」

 だが、お菊たちはそんなことに気を留めることもなく、棚やベッドの下といったところを素早くガサ入れし始めた。

 そして、今度はオッサンが被る布団を無理やりめくりとると、頭の下に敷かれた枕まで引っぺがしたのである。

 部屋中に飛び散る布団やまくらに詰められていた新聞カスやソバかす、そして、チン〇スといったオッサンたちの証まで……

 だが、ブツがないと分かると、

「ヨシ! 次!」

 と、謝罪することもなく病室から偉そうに出ていくのである。

 その時間、わずか3分……

 湯を入ればかりのカップラーメンなどは、すでにアディショナルタイムを迎えていたにもかかわらず、呆然となすすべもなく湯気をあげることしかできなかった。


 コウエンは、そんなお菊たちの後をついて病室を回っていた。

 廊下から覗きこむ病室の中では、悲痛な叫び声をあげるオッサンがワンワンの着ぐるみを頭からかぶせられて抵抗していた。

「かつドンはいやだ! 俺はエビフライがいいんだ! タルタルソースが滴るエビフライがぁぁぁぁ!」

「黙れ! この豚がッ! 貴様のような害悪が世の中を乱す根源と知れ!」

 そんなオッサンが暴れるベッドの上には無数のエロ本……というか、どれもこれも8歳ほどの少女がいかがわしいポーズをしているロリロリのエロ本が転がっていた。

 ――コイツ! 変態だ!

 そのため、コウエンは連行されていくワンワンを見ても、なぜか心は全く痛まなかった。

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