第7回

 そんなはずない、としびれて真っ白になった頭のどこかが必死に言葉をつなげようとする。


(そんなはず、ない……だって、今日はもう……聞いたじゃない……、彼が、車に……乗って、やって来た、ときに……)


 少しずつ、少しずつ。情景が浮かんできて、言葉が浮かび、のろのろとではあったが頭が回り始める。

 それと同時に「美都子!」と名を呼ぶ政秀の鋭い声も聞こえだした。



「動け! 美都子! さっさと立て! まだ目が覚めないのか!」



 政秀のほおをはたくような声で、はっと正気づいた美都子は、いつの間にか俯いてしまっていたことに気付いて面を上げる。


 とたん、強い赤光が目を射た。


 水平線に沈んだはずの太陽が、まだ水平線の上にある。

 藍色の空は遠ざかり、明と暗の濃い色が複雑に溶け合った、夕方の空が頭上を覆っていた。


 時間が逆回転したとでもいうのだろうか?


 あり得ない。そんなこと、絶対に起こり得ないはずなのに……その起こり得ないことが、今起きていた。


「……どういうこと……?」


 知らず知らずに言葉が口をついていた。しかし次の瞬間、夕日に照らされた2階の人影たちの、一番奥の端にいる小さな人物の姿が目に入って、美都子は飛び跳ねるように立ち上がるやいなや、廃校舎に向かって全速力で走った。




「えいいちぃーーーっっ!!」




「美都子、行くな! ――くそッ」


 自分の声が全く耳に入っていないと悟るや政秀は加奈子から手を放して美都子を追った。後ろからTシャツをつかんで引き戻し、それ以上行かせまいとする。


「放して! 邪魔しないでよ、英一があそこに――」

「ばか! よく見ろ!」

「見てるって! おじさんこそちゃんと見てよ! あそこ――」


 頭ごなしに怒鳴られながらも2階の端を指さす。しかしそこにいた人影たちは姿を消して、代わりに校舎の壁面いっぱいから巨大な人の頭の上半分が現れていた。


 それは地面に落ちて崩れたゼリーのように原型を想像するのが難しいほど崩れていたが、男の顔なのは明らかだった。


 見るからにぶよぶよとした半透明の肉塊。表皮は土気色で血の気がなく、頭髪も数本しかない。それぞれが違う方向を向いた目。鼻はつぶれているのか、それとも取れてしまっているのか、あるはずの場所に見当たらなかった。


 そんな醜い人の頭部が、「ぁあー」とか「ぅうー」とか小さくうなりながら壁面から徐々に浮かび上がっているのだ。


 とても現実に起きているとは信じられないと、言葉もなく見守る美都子の前、頭部はずぶずぶと沼から浮かび上がる泡のように壁面から離れて、完全に離れた瞬間、重力に従ってべちゃりと地面へ落下した。


「……ひっ……」


 地面に当たって飛沫を飛び散らせた頭部は再びぐじゅぐじゅと中央で集まって、美都子たちのほうへ這い進んでくる。


 ――ぅうーー、あ……、ぁーー。


「美都子! 校舎へ入れ! だが2階には上がるなよ!」


 政秀の叫ぶ声が、意識を飲まれかけていた美都子を揺さぶった。


 彼はいつの間にか加奈子の元へ戻っていて、そこで震えて動けなくなっている加奈子を抱きかかえている。


「無理だよ……だって……、あいつが……」

「やるんだ! まだ横をすり抜けられる!」

「無理――」

「いいから行け! 止まるなよ!」


「……もう、知らないからっ!」


 その声に押されるように美都子は廃校舎の入り口を目指して走りだした。それは化け物のほうに向かっていくのと同じだった。それと知った化け物は這う向きをわずかに変えて、美都子と廃校舎の入り口との間に割って入ろうとする。


(ほらーーーっ!!)


 絶対間に合わないってば。


 おぞましい化け物の姿が視界に入らないよう、ぎゅっと目をつぶって、それでも走り続ける美都子の背後から、政秀の激しい声が飛んできた。


鞭打ビアンダ! 王霊官ワンリングァン!」


 瞬間、見えない何かが空中に現れて、化け物の伸ばした体を逆方向へはじき飛ばした。

 動きが止まったその隙に、美都子は入り口へとたどり着く。


呼雷フーレイ! 九天応元雷声普化天尊チョウティエンインユアンレイシエンフウファティエンズン!」


 再び政秀の声がしたと思うや強い稲光が背後からして、雷がすぐ近くに落ちたような音がした。

 しかし地面は揺れず、衝撃もこない。


 何が起きたのか分からないまま、ただただ呆然と後ろを振り返った美都子の前、加奈子を抱いた政秀が入り口から走り込んできた。


「化け物は? もしかして、倒したの?」

「いや。雷に驚いて逃げた。しぶといやつだ」


 そのときだ。



 ――ちぇっちぇーーっ。

 ――なによ、つまんなーい。

 ――だらしないのーっ。



 そんな、幼い子どもたちの声がどこからともなく聞こえてきた。それは天井からのような、それでいて床下からでもあるようで、どことも場所も距離もつかめなかった。


「英一? あんたなの?」


 美都子は周囲を見渡して、必死に弟の姿を見つけようとしたが、どこにもそれらしい人影はない。


「ねえっ! あたしが悪かったから! 謝るから!

 お願いだから出てきて! 一緒に帰ろうっ!」



 ――くすくす、くすくす。

 ――あははははっ。



 今度は笑い声だ。それは、必死に呼びかけている美都子の真剣さを嗤っているように聞こえてならない。

 英一からの返答は返らず、子どもたちが楽しそうにはしゃぎながらどこかへ走り去っていく複数の軽い足音がして、すぐに消えた。


「英一……お願いだから……戻ってきて……」


 美都子は顔を両手でおおい、その場に両膝をついて涙を流した。

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