第6回
話に出た平屋へ向かうため、政秀は外へ出た。
時刻は午後6時。真夏の強い落日が水平線近くの空をえんじ色に燃え上がらせている。対比して、頭上の空は藍色の濃さを増し、星のまたたきが強まっていた。
日は、これから沈む一方だ。そろそろ懐中電灯が必要な暗さかと政秀は思ったが、まだ大丈夫だろうと思い直し、校庭の端に設置されている、件の平屋へ向かって歩き出す。
「行ったって、英一はいないよ? もう何度も見たもん」
「俺はまだ見ていない」
美都子を見下ろして「おまえはついて来なくてもいいんだぞ」と言うと、美都子は「もーっ! 意地悪!」と両手を振り上げて怒る動作をした。
平屋の引き戸は開いたままだった。大方美都子が英一を捜しに来たとき、開けっぱなしのままで閉めなかったのだろう。作業員の手が入っている様子はない。
作業員は会社が下の資材置き場に設置した簡易トイレを使うはずだから、ここに来たのは英一、美都子、加奈子の3人だけだ。
「ついてるな」
「え? 何が? ついてる?」
きょろきょろと自分の体を点検する美都子はほうっておいて、政秀は担いでいたスポーツバッグを地面に下ろし、チャックを引き開けた。中から5枚の紙札と紐付きの小さなベル型の鈴(手鈴)を取り出す。
「これ何? 何て書いてあるの?」
ひょいと脇から伸ばされた手につかまれる前に、政秀はそれを美都子の手の届かない高さに持ち上げた。
「だめだ、触るんじゃない」
「ケチっ。いいじゃん、ちょっとぐらい触らせてくれたって。減るもんじゃなし!」
「おまえは破きかねない」
「しないよ!」
ぷーっとほおをふくらませる美都子と、またもや彼女をとりなす加奈子。2人の前で、政秀は平屋の前に片膝をつくと、その紙札――符を、平屋の開いたままの戸口に放射状の円形になるように並べて置いた。
おもむろに政秀の指が下を向いて開かれた。するりと紐付きの鈴が指を伝い下りて、チリン、と小さな軽い音を鳴らす。
「えー、なになに? 何かするのっ? 何これ? ベル?」
下から触れようとした手から、さっとまたもや鈴を遠ざけ。
「いいから黙って見ていろ。
いいか? 動くな。そこでじっとしていろ。何もするなよ」
美都子ならやりかねないと、前もってくぎを刺したあと。ぶつぶつと政秀は何かをつぶやき始めた。
太く、低音の、よく通るその声は、聞く者の耳から腰までぞくりとさせる色に満ちている。それはまだ14歳の美都子や加奈子も例外ではなく、言葉を失い、息をひそめて政秀の声に聞き入ったが、はたして彼が何と言っているかまでは分からなかった。音の高低が日本語ではないような……、しかしお経のようにも聞こえる。
「……ティエンフェン……チュイェンユアン……ティードウ。ティエンフェン……」
そして地面に平行に垂らされた鈴が、彼の指の動きに合わせて時折その音を声に重ねる。
チリン……チリン………………ヂリン……。
あの鈴は、こんな音をしていただろうか? もっと澄んだ、きれいな音だったような……と美都子が考えたときだ。
「美っちゃんっ、あれっ」
加奈子がはっと息を呑み、驚きの声をあげた。
風もないのに符がひとりでに波打ち始め、まるで尺取り虫のようにそれぞれが独自に身をくねらせ、動き出したと思うや文字が書かれた面を内側にして、ふわりと立ち上がったのだ。
「うわっ! 何あれ!? 気持ち悪ぅ……」
くねくねと、水の中の植物のように身をうねらせながら立っている符を見て、ドン引く美都子。
シッ、と政秀が口元に人差し指を立てる。
「そろそろ視えてくるぞ」
ひそめられた声。政秀の視線は円の内側に集中して、もう何も唱えてはいなかった。ただ、指先から垂らした鈴だけを鳴らしている。
……ヂリン…………ヂリン…………ヂリン……。
もはや軽くもなく、耳の障りもはっきり良くないと分かる濁った音だった。
そしてそれはいきなり符の中央に現れた。
「! えいいちっ!?」
美都子ちゃん、と加奈子が素早く口をふさいだおかげで、その言葉は加奈子の手の中に隠された。
しゃべるな、と政秀が人差し指を立てたことを思い出して、美都子もごくりと唾を飲み込む。もう大丈夫、ありがとう、と言うように加奈子と視線を合わせると、彼女の手をぽんぽんとたたいて外させた。
そうしてあらためて符の円へと目を戻す。符は、針の先で突いたような小さな光を幾つも発していた。いや、正確には光ではない。書かれた墨文字が燃えているのだ。まるで導火線をたどる種火のように、小さな炎は墨文字を正確にたどり、燃やしている。おそらくはこれがこの術の制限時間なのだろう。
そして、その小さな幾つもの炎にあぶり出されているかのように、符の中央の空間には英一の姿があった。
足元の炎から遠い場所ほど透明度の高い、ほとんどが透き通った英一の幻はトイレを済ましたあとのように、ほーっと息を吐き、ぶるぶるっと身を震わせた。そして手をパーにして指を広げたまま、きょろきょろと辺りを見回す。次の瞬間、何かを見つけたようにぱっと笑顔になったと思うや角にある手洗い場へ走って行き――符は英一の幻の動きに合わせて移動している――蛇口をひねる動作をした。本物の蛇口は動かないが、おそらく英一は回したのだろう。しかし当然ながら蛇口から水は出ず、がっかりした様子で手のひらを見、結局服にこすりつける仕草をした。
そうしてトイレを済ませた英一の幻は、今度は廃校舎へ向かって走り出す。姉や加奈子の元へ戻ろうとしているのだろうか。
先に動いた政秀が、追ってもいいものか迷う美都子について来いと目で指示を出す。
はたして英一はどこへ行き、消えたのか――きっとそこに英一はいるはずと、無音で宙を滑るように走る英一の幻の背中を見つめて走っていた美都子だったが。
「…………きゃあああああああああああーーーーーーっっ!!!!」
「加奈子っ!?」
今まで一度も聞いたことのない加奈子の悲鳴に驚いて、美都子はたたらを踏む。
悲鳴がしたと同時に術が解けて符はただの燃える紙に戻り、英一の幻は空気に溶けるように消えてしまったが、それよりも今は加奈子だ。
「加奈子っ!」
急ぎ振り返った先で、加奈子はしゃがみ込み、頭を抱えてぶるぶる震えていた。
「どうしたの加奈子!」
急いで駆け戻ろうとした政秀と美都子の前、加奈子が片手を上げて斜め上を指さす。その先をたどった美都子は、次の瞬間、加奈子がなぜあんな悲鳴を上げたかを知った。
廃校舎の2階の窓の所に、黒い人影が5つ立っている。どれも子どものものだ。
そんなはずはない。あそこにはついさっきまで自分たちがいたのだ。自分たち以外、だれもいなかった。
では、あれは?
あれを、人影という以外、何と呼べばいい?
真正面から氷水をかけられたみたいに一瞬で全身が冷たくなって、頭の芯まで凍りつく。
胸が痛かった。
恐怖という巨大なかぎ爪に心臓をわしづかみにされたような、鋭い爪が食い込むがごとき痛みに息も吸えず、まばたくこともできないでいた美都子のしびれた耳が、そのとき、スピーカーから流れる音楽を捉える。
それは、夕方5時を告げる『七つの子』だった。
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