第一章 山麓河深

第1話 詩と少年

 七月はせきせい 西にあり

 九月は衣を替える頃

 しもつき 風厳しく

 わすは寒し

 衣、毛衣ないならば

 どうして年越しできようか

 正月、すきに手を入れよ

 如月きさらぎには田を耕す

 ……


 王朝、かい七年三月。

 


 外には風が吹き始めていた。

 通りの砂を巻き上げた風は、時折、建物の中にまでたたきつける。

 桃はようやく開いたが、満開にはならない。


 ……

 七月は赤星 西にあり

 九月は衣を替える頃

 春の陽は暖かく

 うぐいすが鳴いている

 ……


 私は目に痛みを感じ、窓を見やる。

 窓は手の届く場所にあったが、閉めるのは、はばかられた。


 赤く太い柱で支えられた堂内には、数十の椅子が並べられ、そのほとんどに学生が腰掛けている。

 皆、前を向き、詩を暗唱していた。

 声を出しているせいか、外の陽気のせいか、堂内は汗ばむほどだ。


 私は目をこすり、外を眺めた。

 窓からは、まっすぐ桃の木が見える。

 その枝の広がり終わった辺りに、敷地を囲った土の塀がある。

 塀には、学生たちが開けた大きな穴があった。

 穴からは、通りを行く女の足が見えていた。

 通りには露店が立ち並んでいる。

 女たちも、店のにくまんや菓子が目当てなのだろう。

 私も、蒸し上げられたばかりの肉包を思い浮かべ、腹が空いてきた。

 我が国の都、華都の中でも、ここはにぎやかな通りである。

 大通りは運河沿いに作られていて、荷揚げされた品々が最も早く店に並ぶ。

 ここから、町中を走る水路を通って、品物が華都のすみずみまで届くようになっていた。

 

 風が、砂と共に肉包の匂いを堂内によこした。


 ……

 七月は赤星 西にあり

 九月は衣を替える頃

 三月、桑の葉をむしり

 ……


 堂内では相変わらず暗唱する声が続いている。

 学生たちの間を、詩の先生が歩いてゆく。

 この先生は、数ヶ月前に来たばかりの先生だった。

 清潔なずきんをつけていたが、あまりに大きさが合いすぎていた。

 額から頭にかけては丸くて白く、できたての肉包を思わせる。

 

 詩の先生は、来て早々、私たちに試験をした。

 一人ずつ、詩を暗唱させたのだ。

 暗唱する詩は三百五編に及ぶ。

 当然、全てを覚えていない学生も多かった。

 先生は、それが許せなかったのだろう。前の先生や教えていたことは無意味だと言い切った。そして、詩の最初から、講義をやり直し始めたのである。

 たまったものではない。


 退屈を感じたのか、前の席の学生が、斜め後ろに視線をやった。視線を追っていくと学生たちの間をぬけて、堂の隅に行き着く。

 そこには、私塾「さんろく」の学長が座っていた。

 この塾では、官吏登用試験の受験勉強が行われている。そういった目的の私塾は「山麓」だけではなかったが、ここにいちばん学生が集まるのは、学長の人徳のためだった。


 学長は、こうとくという。

 四角い顔に細長い目をした、浅黒い男だ。

 瞳はいつもまぶたに隠れていて見えないが、その分、いつも微笑んでいるように見えた。

 そんなところが人に好かれたのだろう。

 学長には、国中に知り合いがいて、さまざまな科目の先生として呼ぶことができた。

 ただし、呼ばれた先生方の人格は、学長のようにはいかない。


 堂内で、掌を打ち合わせる音がした。

「では、君。今日のところをはじめから暗唱してみたまえ」

 前の席の学生が立ち上がり、困ったようにうつむいた。

「そんなことではお父様に申し訳なかろうが」

 先生に睨まれて、前の席の学生がうなだれた。

 そして、堂のあちこちからも、小さなため息が聞こえた。

 この「山麓」の学生は、多くは官僚の家の子どもだ。たまに豊かな商人の息子もいたが、どちらも立派すぎる父親を持っていることに違いはなかった。

 その割に、学生たちに学はない。

 そもそも我が国が天下統一を成し遂げたのが三十六年前。

 私たちの祖父の時代だ。

 それまでは小国が覇を争う時代で、官吏登用制度はあっても、一部の貴族しか勉強ができない状態だった。また、試験も、学識と共に家柄も採点していた。

 つまり、いい家柄でなければ、合格しなかったのだ。

 それが今年になって、試験で家柄を採点しないという勅令が出た。

 その上、朝廷が一定の評価を与えた私塾の学生で、成績優秀だった者は、それぞれの本籍地で受ける基礎試験を免除する、という通達が、役所からあった。

 そのため、有名な私塾には、受験生となりうる年齢の子どもがおしかけている。

 さらに、学問と言えば六歳から暗唱を始めるのが普通だったが、急な通達で役人を目指すことになった商人の子どもの場合、十三歳であっても古典の暗唱ができないのが普通だった。役人の子どもなら勉強ができるのかといえば、それも間違いで、地方試験に受かる自信がないから、塾で得られる得点をあてにして通ってくる者もいる。

 それなりに勉強をしてきた者と、そうではない者が混在し、現在の「山麓」は混沌としている。

 そういった学生の出来のばらつきに、いらだちを隠せない先生も多かった。

 詩の先生も、その一人である。

「どうしてその程度の詩も覚えていないのか!」

 先生の怒る声が、銅鑼のように響く。

 私は首をすくめ、自分が当てられないことを祈った。

 覚えていないわけではない。最後まで、きちんと覚えている。

 だが、私がきっちり暗唱すればするほど、周囲の視線はとがってくる。

 ――さすが大臣家の息子だ。さぞかし勉強ばかりしてきたんだろうな。

 暗唱に集中していればいいのに、そんなささやき声を耳が拾ってしまう。

 父が大臣であることは、誇らしいことなのだと思う。

 だが、父が大臣であっても、私は大臣ではない。

 私に、私以上のことを求めないで欲しいのだ。勉強も、仕官も、背中越しに父を見てする、勝手な嫉妬も。


 外で怒鳴り声がした。

 誰かが肉包代を払わなかったと叫んでいる。

 土塀に開いた穴からは、たくさんの足が押されたり、引き戻されたりするのが見えた。

 と、塀の穴が白い物でふさがれた。

 それは穴をくぐって「山麓」の庭先に転がり出る。一抱えもある布の包みだ。

 包みは、誰も触れていないのに、勝手に飛び跳ねている。

 続いて、少年が穴をくぐってきた。庭に立つなり、着物の土を払っている。どうやら通りの喧嘩を避けて逃げ込んだらしい。年齢は私と同じくらいだ。十六、七といったところか。

 少年は膝をはたくと、白い包みを押さえ込み、抱え上げる。

 私は思わず息をのんだ。

 白い肌に切れ長の目。

 見たことのない、綺麗な灰色の瞳。

 鼻筋は白い絹をかぶせたように光り、赤い唇は控えめに開いている。

 はだけた胸元にはしっかりした筋肉がついていたが、肌の色はやはり白かった。

 

 彼の顔をしっかり見ようと思い、首を伸ばした時だった。

 詩の先生が、甲高い声で怒った。

「君の頭には藁が詰まっているのか」

 一瞬、耳を疑う。堂内に視線を戻すと、同じ列に座る学生が、顔を真っ赤にして立っているのが見えた。

 いくらなんでも酷い言い方ではないか。

 そう思って、私は立ち上がろうとした。

 先生の頭こそ嫌味しか詰まっていないのではないかと言い返したかった。

 が、怪訝そうにこちらを見た先生と目が合うと、ただ、頭を下げて座り直す。

 自己嫌悪が襲った。

 ――おまえは恐がりだ。

 かつて、兄がそう言って笑ったのを、思い出した。

「藁の間では詩も入るまい」

 先生が再び口を開いた時、廊下から鐘の音が聞こえた。

 学長が立ち上がった。

「先生、少し休まれてはいかがですか。終業の鐘も鳴りましたからな。叱るばかりでは、少年たちは育ちません」

 学長が穏やかな口調で言う。

 詩の先生は、はっとしたように頭を上げ、次に憮然として堂を出て行った。学長はしばらく扉に向かって頭を下げていたが、足音が遠ざかると腰を伸ばした。

 学生たちが一斉に席を立ち、学長に挨拶をして堂を出て行く。学長はそれにいちいち答えていたが、一段落するとこちらに歩いてきた。

おうりくよう

 名を呼ばれ、慌てて挨拶を返す。

「ああ、どうも。どうだったかね。詩の講義は」

 学長の言葉に、急に恥ずかしくなって視線をそらす。よそ見していたのを見られていたのかもしれない。

「すみません、あの」

 すると、学長は掌を下に向け、布団でも押さえるように動かした。

「明日、新しい学生が入ってくるよ」

 おっとりとした口調で話題を変えると、窓の外を眺める。私も振り向いてみたが、さっきの少年はいなかった。

「どんな学生ですか」

「さあ。まだ、入塾希望の手紙を受け取ったばかりでね。はじめは馴染まないだろうから、いろいろ教えてあげなさい」

 ひどく急な新入生だと思いながら、袖の中で手を組み、はい、と答える。

 学長は細い目を一層細めて見ていたが、満足そうにうなずくと、付け加えた。

「そういえば、あの先生に、君の作った詩を見せたらね、良くできているとほめていたよ」

 私は反射的に身を引く。

 よけいなことを、と思ったが、学長も私の心を和らげるために言ったのだろうと察し、むず痒くなる。

 私が、あ、とか、う、とか口の中でつぶやいているうちに、学長は相変わらずの笑顔でうなずいて、扉の方へ歩いていった。


 呆然と学長を見送っていると、耳元に風が吹き込み、肩を鋭い物でつかまれた。

「あんな先生にほめられちゃ、おしまいだぜ。欧陸洋」

 甲高い声が耳元でしている。頬が生暖かい。

 横を向くと、若草色が見えた。視線を上げると、筆先ほどの黒い目が見下ろしている。

 鳥の目だ。

 鳥はからすよりは大きく、鶏よりは小さかった。

 頭頂部は青みがかった色で、目の辺りは若草色、体や尾は黄色や赤色だ。

 くちばしは、丸く曲っていた。

「おうむか?」

 頭の中から歴代の名文を探り出し、中から南方の珍しい鳥を描いた作品を思い出す。このような鳥を、鸚鵡というはずだ。

 すると、鳥はうさんくさそうにこちらを見下ろし、羽を広げた。

 翼が、勢いよく頬に当たった。

「おしまいだな、欧陸洋」

 そう繰り返すと、肩で跳ねるようにして飛び上がる。

 飛び散った羽毛を手で払いながら、私は振り返った。

 さっきの少年が、窓に肘をついていた。

「あれが君らの先生か。詩の暗唱ばかりなんて、芸がないな」

 面白くなさそうに言うと、手を伸ばして鸚鵡を腕にとまらせる。

「私たちの中には、まだ詩を覚えていない者もいるから」

 言い返すと、少年は薄い唇の端をつりあげる。

「君がこの塾でいちばん優秀なのか」

「私など」

「何だ。ほめているとでも思ったか。窓際で間抜けな顔をしていたおまえをか」

 一瞬、少年の端正な顔が呆れたようにゆがんだ。

 なんだか、私は自分がひどく不出来な男に思えた。

 少年は、ふん、と鼻で笑った。

「おまえらがいくら学問をしたって、国が治まるってもんでもないさ。現に、今の官僚を見てみろ。建国して三十六年しか経っていないのに、すでに派閥争いをしている。大臣達は己の身をいかに長く高位高官にとどまらせるかばかりを考えて、政治なんてどうでもいいのさ。どうりで、我が国の外交はどうだ。西方北方の異民族に金銀財宝を差し出し、これをあげるから攻めないでください、ときたものだ。それが民から搾取した財宝だとしても、いっこうに構わない。結局、官僚連中は自分がかわいいのさ」

「そんなことはないと思うけど」

「あるだろ。じゃあ、なんで今こうなっている?」

「言っておくけど、うちの使用人はたいてい、建国の際の混乱で、身内の誰かを亡くしているんだ。本人が顔や背中に傷を負っている者もいる」

「だから? へんな使用人自慢だな」

「だからだよ。誰も、これ以上の戦いを好まないだけだ」

「そうか? じゃあ、皇帝陛下はどうなる。我が国では軍隊の長官に文官を据えている。それを決めたのは皇帝陛下だよな。武力で位を奪ったくせに、反乱が起こるのを避けようってわけだろ」

 少年は目を細め、恨むようにこちらを見ていた。

「間違っている」

 少年の肩に飛び移った鸚鵡が連呼した。

「臆病者、卑怯者、ろくでなし」

「やめろ」

 私は数歩前に出ていた。

 鸚鵡は、皇帝陛下に対する侮辱の言葉を繰り返している。

 さらに数歩進み、拳を握る。

 が、それを振り上げることはできなかった。

「殴れないのか、優等生」

 少年の言葉を聞き流し、拳を開くと窓に指をかけた。指に入った力が爪を圧迫している。彼を平手で殴りたかった。それでも。

「殴らないよ。それより、君はなんて言うんだ。よかったら、肉包でも一緒に食べないか」

 少年は体を起こし、一歩下がった。

 灰色の瞳が、驚いたように私を見ていた。


参考文献

『詩経国風』 白川静 訳注 一九九〇年 平凡社

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