仙境王還記~虹色鸚鵡と最後の王~
江東うゆう
プロローグ
少女は空と同じ色をしている。
青を胸に吸い、白を指先に絡め、黒を脳の奥におさめて、その手に光を握る。
山頂を渡る風は
朝は山のすそまで朝焼けに染まり、夜は枕の中まで寒気が入る。
空は、この小さな国にとって、隙間なく編まれた
十分な空気を人に与えず、それでいて、人をできるだけたくさん国に閉じ込めておこうとした。
そんな空を突き刺すように、光の塔は立っている。
光の塔は、日が昇れば
人々は、塔を見上げて祈った。
空がこれ以上、大地に降りてこぬように。
大地が今よりも、空に近づかぬように。
彼らの自由は、空と、小さな地面との間にだけあったのだから。
光の塔は、何者も寄せつけなかった。
ただ空に向かって、先端を突きつけている。雲すらも塔を避けて巻いた。
少女はその日、光の塔の
そうであるから、空と同じ色にならねばならぬと言われた。
少女達の国は、宇王朝から見て、はるか南西の山地にある。
建統元年といえば、ちょうど、宇王朝が帝国というにふさわしい領土を手に入れたばかりの頃で、まだ、周囲の国々と交流をもつ余裕はなかった。
交流というよりは――西方、北方の異民族が攻めてくるので、その対応に明け暮れていた、というところだ。
とても、西南部の小さな国のことまで、気が回らなかったのだろう。
しかも、少女のいた小国は、大国の目を避けていたようでもある。
それは、この小国の支配者にして、この国唯一の仙人、「
さて、光の塔の侍女になるのだと告げられた少女は、茶を飲まされた。
可口というのは植物の葉だ。
葉をもんで湯を注ぎ、飲みやすくするために
天君が目の前で入れた可口茶を、少女は飲みほした。
勇気がでる茶である――そう、天君は言ったと、後に宇王朝の都で見つかった本に書き記されていた。その本の名を、『
可口茶を飲みほした少女は、すぐに視界に違和感を覚えた。
少女がいたのは、
可口茶の効果が表れてくると、少女には蝋燭の炎が龍のように伸びて見えた。
体が熱くなり、指先には震えが走る。
「安心せよ」
少女には、天君の声が聞こえた。
天君は
「宝刀じゃ」
天君がうやうやしく掲げ、少女に手渡す。
少女は宝刀を握りしめた。
衝動的に
刃はくもりなく研がれ、蝋燭の光が
きれいだと思った瞬間、少女の体から、震えが去った。
「宝刀は、こう持つのじゃ」
天君が少女の手を握り、筆を持つような形に指の位置を直す。
「やってみせよ」
天君は少女から離れると、手刀で机を打った。
少女は刃を見つめたまま、宝刀を机に突き刺してみせる。
「そう、そのように、殺せ」
天君がカラカラと笑った。
「はい。おおせのままに」
少女は答えた。
天君は微笑み、どの言語とも違う発音で数節、唱えると、少女に布をかぶせた。
少女は宝刀を持った手を、目の前まであげてみる。
しかし、壁が透けて見えるだけで、腕は見えない。
「これは、おまえを透明にする仙術だ」
天君が、ぽん、と手を打った。
「さあ、行っておいで」
少女はうなずき、部屋を飛び出した。
少女は洞窟から出て、門番の横をすり抜け、大通りへと走り出す。
そして、西の空を仰いだ。
西の空には、光の塔が見えている。
光の塔は、ここに人が住み始めた頃、すでにあったと言われる。
一面銀色に光る塔には誰も登ることができなかった。
階段も、屋根もない。
上に行くほど筆先のように細くなり、さらに、足も置けないほどの小さな段差を経て、三角にとがっている。
何の役にも立たない、だからこそ、この国にはなくてはならない塔でもあった。
塔の東西を見ると、さらに高いやぐらが見える。
こちらは天君が作ったものだ。
少女は大通りから路地に入り、やぐらの入り口に立った。
そして、高さを確かめるように天を仰いだ。
――この高さでは、最上階は霧に巻かれてしまう。
少女は、そう思った。
やぐらの入り口こそ木で隠れていたが、見張り台となる上端は、街のどの建物よりも高くそびえていた。
やぐらの四方には、巨木が生えている。
中央には、さらに二回り太い木が植えられている。
そして、人の五十倍ほどの高さに育っていた。
丸太のようにしか見えないその木には、人の髪で作った縄がくくりつけられている。
その上に板をしいて床にしてあった。
床は、上の階に
一階から二階、二階から三階……と、長い梯子が中央の木に沿って取りつけられていた。
梯子を、少女はまず九階まで上った。
それから静かに床に降り立ち、十階の気配を確かめる。
天君の言うとおりであれば、あの女がいるはずだった。
女は、いた。
少女は足音を忍ばせて十階に降り立つ。
女は、手すりに腕を乗せ、長椅子に座っている。
女の名は、
女は七十六歳になったばかりだったが、見かけは五十程度にしか見えない。
肌の張りも、頬の血色も若かった。
当然だ。
馬英鈴は、この国の統治者、つまり天君の妻である。
天君は馬英鈴に仙薬を与えた。不老の薬、しわを消す薬。
若さばかりでなく、何もかもが馬英鈴の思いどおりになった。
やぐらの最上階で椅子に腰掛けて物見がしたいからと、床を補強するよう求めたのも彼女だ。
しかし、馬英鈴にも恐れるものがあるのを、少女は知っている。
少女がつま先立つと、北西に洞窟の入り口が見える。
先ほど飛び出してきた洞窟だ。
あの中に、馬英鈴の
三十五年ほど前から、馬英鈴は天君と共に洞窟に住んでいた。内外を守る六十人の道士、そして、馬英鈴と天君の給仕をする三十人の侍女と共に。
三十人の侍女のうち、一人は少女の母である。
母は天君に信頼され、共寝し、子をなした。
馬英鈴は、そうして生まれた少女たちを恐れた。
少女は息を吸い込み、宝刀を構える。
「馬夫人」
憎悪を込めて、その名を呼ぶ。
馬英鈴は辺りを見回した。もちろん、少女の姿が見えるはずもない。だが、天君の妻という立場上、状況を読むのもはやかった。
「天君の差し金なのね。姿を現しなさい。ここなの?」
馬英鈴が乱暴に手を払う。少女は被っている布に触れられないよう、飛び退いた。
その時、甲高い鳴き声を上げて、虹色の鸚鵡が飛んできた。
少女は思いきり宝刀を振り下ろす。
何度も、何度も。
しかし、その刃は馬英鈴をかすることすらしない。
だが。
突然、足音がした。
少女が顔を上げると、少年が立っていた。髪はなく、頭に十字の縫い傷がある。
少女には見覚えがあった。
一か月前のことである。
洞窟の中で、少女の母に頭を切開されていた少年だ。
少年は頭の中で出血し、洞窟に担ぎ込まれた。医術を受け持っていたのは、少女の母だった。
少女の母は、手早く少年の頭の中から血を取り除くと、しみじみと少年をみた。
「この子にしましょうか」
そして、頭の傷を縫う前に、少年の頭に白い玉を埋め込んだ。
少年はその後、身元引受人であった
同じように、少女にも、白い玉が埋め込まれた。
少年は短剣の柄をにぎりしめ、少女がしていたように、何度も何度も振り下ろした。
馬英鈴の血が飛び、金切り声が、空気の薄い空に散っていく。
ちょうど、少女が振り下ろしたのと同じ回数、馬英鈴を刺したあと、少年はぴたりと動きを止めた。
少女は宝刀を握ったまま、もはや肉の塊になった馬英鈴を見る。
昨日まで、少女は馬英鈴に殴られていた。殴っている時の目は、憎しみと言うより、少女たちを恐れているように見えた。そして、少女たちの存在を打ち消すように、殴り続けたのである。
少女は、心の中で、
ふと、階下で足音が聞こえた。
梯子の方に目を遣ると、一人の男が登ってくるのが見える。
「何をしておるのだ!
男の叫び声が、やぐらの天井にこもって響いた。
少年がびくりと体を震わせ、ゆっくりと男の方を振り返った。浅黒く、四角い少年の顔が、戸惑いの表情を浮かべたまま、静止している。
「何光秀さま……わ、私は、な、に、を……」
少年の手から短刀が落ちた。手に着いた血の出所を視線で探っている。
と、少年の視線が止まった。
見えないはずの、少女を見ている。
少女はとっさに視線を外した。
そして、少年の視線は、馬英鈴の死体にたどり着く。
少年は、がたがたと震えだした。
床を流れる血は、少女の方にまで迫っていた。
少女は透明になる布をつかんで後ずさり、身を翻すと、梯子を下り始めた。
洞窟に駆け戻った時、少女の鼓動はひどくはやかった。
しめった石の階段で足を滑らせ、数段落ちる。
透明な布ごと手をついて、這い上がる。
ようやく自分の部屋の前にたどり着いた時には、全身に冷たい汗が流れていた。
少女は目の前の岩に向かって呪文を唱える。
岩が動き、子どもがひとり入れるくらいの穴が現れた。
少女はその中に潜り込む。
岩が、音を立てて閉じられた。
辺りは、闇だった。
一、二、三……。一段ずつ数えて上って、十三段。
少女は再び、呪文を唱える。今度は、少女だけが知っている、少女の部屋の扉を開けるための呪文。
岩戸が開き、階段に光が差し込んだ。
少女は、ふ、と息を吐き、一歩、部屋に踏み入る。
が。
「おかえり」
しわがれた声に、少女は立ちすくんだ。
目の前には、天君が真っ白な髭を撫でて立っていた。
「おおせの通りにやり遂げました」
ひざまずいた少女に、天君はにやりと笑った。
「ぬしの
一瞬、少女は天君の言葉が聞き取れなかった。
頭の中で何度も反芻し、意味をとらえた途端、少女はかっと顔が熱くなるのを感じた。
命令したのは天君ではないかと言いたかったが、言葉が出ない。
ただ、わななく体を手でおさえつけ、うつむくことしかできなかった。
天君は少女の横をすりぬけると、いともたやすく、少女しか知らないはずの呪文を唱えた。
「今日のことは誰にも言うな。そなたがここにいたいのならな」
天君はそう言い、透明になる布を少女から取り上げると、さらりという衣擦れだけを残して去った。
扉が閉じると、少女は、声を上げて泣いた。
そのあとも、少女は宝刀を振るい続けた。
翌年、高隆志は、宝刀の導きのまま、何光秀を殺した。
少女の母は天君の妻になった。
宇王朝では、建統三年にあたる年。
何光秀が死んだ翌月、少女が洞窟の宮殿の長い廊下を歩いていると、壁づたいにささやき声が聞こえた。
「ねえ、見た?
知淵、とは少女にとって二番目の妹の呼び名だった。
少女は耳を澄ます。
もう一つの声が、言った。
「聞いてるって、
悠淵は、一番目の妹だ。
妹たちも、宝貝を使って人を殺している。
少女は肌が粟立つのを感じ、両腕で体を抱えるようにして部屋に戻った。
少女の心の変化を察したのだろうか。
その年、少女の母は、何度も少女の頭を割いて、白い玉を入れかえた。
少女は、高隆志との距離が離れていても、宝刀を使えるようになった。
もはや、二人が目を合わすことはない。
その頃からだ。
少女は、大船団を夢に見るようになった。
天君が狂った時、この地を滅ぼすためにやってくるという、異形を乗せた船を。
昔話に聞くだけの船団を、少女は何年も待っていた。
だが、船団は来なかった。
来るはずもない。
仙人の住むこの国は、大陸の奥にある山の中にあったのだから。
少女はとうとう、心に決めた。
光の塔に背を向け、この国から出て行くことを。
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