第2話 伯文と仲興

 結局、灰色の目の少年は名乗らなかった。

「おぬしにしては、はなはだ学問的ではない」

 右隣で、薄水色の着物を着た男が、膝に散った肉包のかけらを払いのけて座り直した。

 彼はそんはくぶんという。私と同じ十六歳だが、年老いた役人のような落ち着きがあった。

「でも本当なんだ。鸚鵡を連れて立ち去って……」

 私が言うと、伯文が手で言葉を遮った。

「いいや、鳥は籠にいれておかなければ」

 かご。

「問題は、そこじゃない気がするけど」

 あやうく脱力して落としそうになっていた肉包をつかみなおす。

「そうだぞ。今から役人面するな。伯文」

 左隣で、きん、とした声が聞こえる。

 そちらを見るが、肉包しか見えない。

 いや、よく見ると、特大の肉包をつかんでいる手が見える。

 視線を下ろすと、いたずらっぽい目をした男の顔がある。男は、もう片方の手で、着物の裾にひっかかっていたひまわりの種をつまみあげていた。

 この小柄な男は、しゆうちゆうこうという。

「話題をそらすのは、高級官僚っぽくて気に入らないな」

 仲興は、拾い上げたひまわりの種を口に放り込んだ。

「おぬしこそ、下に落としたものを喰らうなんて、気に入らないな。悪食だと思わんか」

 伯文が呆れたように、ゆっくりとまばたきをした。

「うるさいな。落としたんじゃない。ふところにしまってあったのが、帯の間を抜けて、裾から落ちそうになっていたから拾ったんだよ」

「裾? ほぼ地面だったがな」

「うるさい。俺の着物は長いんだよ。布地をたっぷり使ってんだ」

 仲興が吠える。

 私は仲興の着物を見た。

 我が国の人々は、たいてい膝丈の着物の下にをはいている。が、彼の場合、着物が長く、ふくらはぎの下まであった。おかげで袴子は足首の辺りに少しのぞいているだけだ。

 身の丈に合わない服を着ているのは、布地をたっぷり使ってわざと作ったというわけではない。単に、兄上のお下がりで、兄上の方が背が高かっただけなのだ。

 かくいう私も兄のお下がりを着ている。私の場合は、兄よりも背が高すぎたために、膝の上で着物が切れているが。

 残念ながら、いくら仲興が吠えても、兄のお下がりなどを着ている学生は、「山麓」には仲興と私くらいしかいなかった。

「いいか、伯文」

 仲興は肉包をかじりながら、まだ吠えている。

「おかしいのはさ、俺たちくらいの年齢の男が、鸚鵡なんて飼っているかどうかだよ。あれは高いんだ。おまえ、知らないだろう。おまえの親父の安月給なんかではな、とうてい手が出ない鳥なんだよ」

 それを聞いて、伯文がぴくりと眉を動かしたが、それきりだった。

 孫伯文は、あまり高位ではない役人の息子だ。庶民の家に比べれば裕福だが、周仲興の家にはかなわない。

 周家は、華都でいちばんの商家だ。南方の果物や西方の布など、いろんな物を扱っている。それだけではなく、家の一角に店を構え、珍しい食材を使った料理を出すようになってからは、いっそう豊かになった。

 けちは以前と変わらないそうだが。


 金持ちである以外でも、周仲興は特別な存在だった。

 商人の息子の中で、彼だけは詩を全部暗唱できるのだ。

 私や伯文と同時期に入塾した彼は、当初、まったく詩を覚えていなかった。それを伯文にからかわれ、一晩のうちにすべての詩を覚えてきた。

 あの時の周仲興の大人びた顔は、今でも忘れられない。

「陸洋。本当に、私たちくらいの年齢だったのか」

 伯文が冷静な声で話を戻した。

「体つきも、顔も、私たちくらいだったと思うよ」

 答えながら、仲興を見やる。仲興は口に肉包を押し込み、目を白黒させながら飲み込んでいた。私と目が合うと、照れくさそうに笑い、袖で口元を拭う。

「わかった! 若作りしてるんだよ。本当はもっと大人でさ」

 人差し指を立て、いかにもそれが真実だというように、仲興が言った。

「大人の体ではなかったと思うけど」

 私は仲興の袖が汚れたのを見なかったことにして、空を仰ぐ。

「わからないだろ。そんなの。そうだ。話したんだろ。話し方が老人みたいだったとか、ないのか?」

 私は曖昧にうなり、伯文を見る。話し方で年齢がわかるのなら、彼などとっくの昔に老人だ。

「なぜこちらを見るのだ」

 伯文がほぼ無表情になって問うた。

 私は答えようとして、言葉に詰まった。

 あの少年との会話を、そのまま語るわけにはいかない。彼が誰であれ、皇帝批判をしたことが知れればただでは済まない。我が国は自由な国だが、皇帝陛下については別だ。

「どうした。目が泳いでるぞ」

 仲興が私をのぞき込んだ。

「いいや、目は泳がん。眼球が動くのだ」

 伯文がさとす。

「うるさいな。揚げ足を取るなよ」

 仲興がうるさそうに伯文を見た。

「座っている者の揚げ足は取れん」

 伯文も落ち着いて返す。

 このままでは、いつもの口げんかになる。私は二人の間に割って入らなければと思いながら、ぼんやりやりとりを聞いていた。

 ほんとうのことを言うと、二人のやりとりが、私は好きだ。

 私には兄がたくさんいるが、こんな会話はしない。理路整然とし、無駄がない。もちろん父もだ。

 ほんとうのことを言うと、私はそこまで理路整然とした思考を持っていない。

 だから、私は自分のおろかさが、家族や世間に知れないように生きていくしかない。

「何をぼんやりしてるんだ。陸洋、つっこめよ」

 仲興の声で顔を上げると、二人の空気はすっかり冷めてしまっていた。仲興は顔を赤くして怒っていたし、伯文はこれ見よがしに詩の暗唱などしている。

 私は笑い出しそうになるのをこらえ、無理矢理口元に微笑みを刻む。

 仲興はこちらを睨んでいた。

「待て、鸚鵡って言えば!」

 突然、大声を上げて立ち上がると、辺りを見回した。

「どうしたんだ?」

 私が聞くと、仲興は答えず、座り直して声をひそめた。

「なあ、近頃、真っ昼間の華都に出る賊がいるのを知ってるか?」

「賊?」

「そうだ」

「昼間にどうやって逃げるんだ?」

「それが、体が光るっていうんだ。その光が目くらましになってる。俺たちくらいの年齢の男が一人、それに老人が加わっているらしい」

「私たちくらいの?」

「ただし、その場を荒らすだけで物は盗らない。でも、店を荒らされるのは嫌だからさ。うちでも気をつけてるんだ」

「でも、人が消えるなんて」

 私は言いよどんだ。

 伯文が、私の肩に手を当てた。

「そんなことがあるわけなかろう。そもそも、それと鸚鵡のどこがつながる?」

 伯文が落ち着いた声で指摘する。

「黙ってろ」

 仲興はむっとしたように頬を膨らませた。

「いいか、話はこれからだ。うちの使用人が言うのには、必ず襲われた家の近くには宿があって、変な声がするそうだ。声は振動して甲高く、同じ言葉を繰り返している」

 私は伯文と顔を見合わせた。

「それが、鸚鵡だと?」

「そうだよ、陸洋。いかにも鸚鵡じゃないか。鸚鵡を連れた男の顔、見たんだろ。探すのは簡単だ。今晩は宿場街に探しに行くぞ。三人で捕まえるんだ」

 伯文と私は思わずのけぞる。

 計画を中止できる言い訳を考えなければと言葉を探ったが、言葉が見つかる前に、仲興が私たちの肩を押さえ、な、と念を押した。

 断れないのは、私たちの悪い癖だ。私は怖がりのせいだが、伯文はこの年齢で役人気質にしばられているからだ。お互い、それを振り切らなければ大業が成せる役人にはなれない。

 しかも、悪いことに、二人とも大業を成したいとは思っていなかった。

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